11月19日
初冬の北アルプスの雪景色を求めて、私は北海道から飛行機で東京に向かい、電車バスと乗り継いで、翌日、中房温泉登山口から2700m稜線の山小屋、燕山荘(えんざんそう)に上がり、次の日に大天井岳(おてんしょうだけ、2922m)を往復して、そこで二日目の朝を迎えようとしていた。
夜中に何度か目が覚めかけたが、いつもは気になる周りからのイビキなどの音も聞こえず、そのまま再び寝入って、腕時計のアラーム音で目が覚めた。すぐに防寒用のジャケットを着込み耳あて帽子をかぶり、手袋とカメラを持って、静かに部屋を出た。
今日は天気が下り坂になるのはわかっていたが、問題はこの朝の間だけでももってくれるかどうか、つまり昨日の夕方の雲の状態から、全天が雲に覆われて日の出が見えないことを心配していたのだ。
5時半過ぎ、外はあまり風もなく、昨日と比べれば暖かい感じだった。こういう時は天気が悪くなる。
見上げる薄暗い空は、一面の雲に覆われていたが、ありがたいことに、見事に西の空にだけすき間が空いていて、そのあたりが赤くなっていた。これはもしかしたら、素晴らしい朝焼けが期待できるかもしれない。
展望台兼ヘリポートには、昨日はなかったシートに覆われた小山が二つ。ヘリコプターによる荷下ろし用のものだろう。私はその陰で、風を避けながら時を待った。
昨日と同じように、浅間山、八ヶ岳、富士山、南アルプスの山々のシルエットが見えている。
ただし昨日は雲がなかったから、日の出の時に近づくにつれて、西の地平からグラデェーションになって、赤から紫そして闇へと移行する色合いを楽しめたのだが、今日はそのすき間となった西の地平だけが、塗られたような赤に染まっているだけだった。
しかしどう変わるかは、その後、日が昇り雲に照り映える時だ・・・。
そしてその時が来た。私は板張りの展望台の上で腹ばいになって、カメラを固定させ、その日の出の時の、鮮やかに照らし出された光景に向かってシャッターを押し続けた。
それは、少しだけ空いたすき間から太陽が見えているわずかな時間、その短い一刻にだけ、東の空の雲の広がり全体を見事に染め上げてくれたのだ。
まだ夜明け前の薄明の中に、きらきらと輝く安曇野の街の明かり、そしてシルエットになって浮かび上がる八ヶ岳、富士山、南アルプスの山々、その後ろから絶大なる赤光の輝きをもって、あたりを照らし出す太陽・・・。(写真上)
日は昇り、また沈む・・・そして繰り返していく・・・。
他の動物たちが見つめることもない、この朝夕の光景に、私たち人間がこだわり見つめ続けるのはなぜだろうか。
ヘミングウェイの名作『日はまた昇る』の題名のいわれともなった言葉として。
旧約聖書、伝道の書、第一章から。
「 空(くう)の空(くう)、空の空、いっさいは空である。
日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるのか。
世は去り、世は来る。しかし、地は永遠に変わらない。
日は出で、日は没し、その出たところに急ぎ行く。
・・・。」
聖書の言葉の中では、むしろ異質とさえ思えるこの虚無的な言葉に、私たちは仏教の空(くう)に近い思いを抱くのだ。
今までたびたびこのブログの中でも取り上げてきた、『方丈記』や『徒然草』の世界観にも通じるところの、無常観さえも見えてくる。
しかし思えば、その歩みとどまるところを知らぬ有為転変(ういてんぺん)の世の中にあるからこそ、人は変わらぬ世界にあこがれるのだろうか。
自分の出自(しゅつじ)の時を思わせるようなるような東の空と、消え行く時の彼岸(ひがん)でもあるかのような西の空の、それぞれが鮮やかに光り輝くときにこそ、人は生きている自分を強く感じることができるからだろうか。
それは、東の空のすき間がわずかしか空いていなかった分、それだけの短い時間だった。昨日はあれほど長く照り映えていた槍・穂高の山々も、一瞬の後には、雲の上にあがり隠れた太陽とともに、その鮮やかな色合いを失っていた。
展望台には、ヘリコプターでの荷下ろしの準備をする山小屋の係りの男の人たちの他に、ご来光を見に来た人が数人いただけで、昨日の雑踏と比べれば、これが普通なのだろう。
そのうち誰かの言葉で、皆が下の斜面にカメラを向けていた。
ほとんど白い冬羽に変わりつつある、ライチョウが三羽。一羽が親鳥で二羽が幼鳥かとも思ったが、小屋の人たちは三羽ともまだ子供だろうと言っていた。
こんな過酷な環境の中でも、下の方にまで降りることもなく、雪山にとどまり続けるライチョウ。
最近とみに問題になってきた、それまでの生活地域を越えて高山地帯まで侵入してきている、サルやシカたちの問題が頭をよぎった。
その時々の環境に順応して生きるものと、いくら環境が変わろうとも、かたくなに自分の生活地域を変えようとはしないものたち・・・人間の社会にも見られるような・・・。
さて、その鮮やかな朝焼けの舞台が終わり、ライチョウ・ショーも見終えて、小屋の玄関先に戻ってきたが、そこからは上空の灰色の雲の下に、一際白くはっきりと映える山々の姿が立ち並んでいた。
実は気にはなっていたのだが、もう一つの朝焼けの舞台になったであろう山々を見逃していたのだ。展望台からは死角になって見えない裏銀座方面の山々である。
それらは、暗い曇り空を背景に、色あせた朝日の後の白光を浴びて、くっきりと浮き上がるような姿で立ち並んでいた。
言うならば、あの泉鏡花(いずみきょうか)の『高野聖(こうやひじり)』に出てくるような、謎めいた妖艶(ようえん)な美女がその白いえりあしを見せて、明け方の闇の中に立っているような、ぞくっとするほどの美しさだった。
山々のその姿がきれいなのは、何も華やかな茜色(あかねいろ)に染め上げられ、上気した顔で嫣然(えんぜん)と微笑みかけている時ばかりではない。こうした闇に近い光の中だからこそ、凄味(すごみ)のある白い肌が引き立って見えるのだ。
写真は左から水晶岳(2986m)と野口五郎岳(2924m)である。
私はそれらの山の頂を二三度行き来したことがある。裏銀座の縦走コースをたどり、あるいは雲の平から赤牛岳、黒部湖へと向かう山旅の途中で、それぞれの頂に立ち、幸いにもその時には誰もいなくて、私ひとりだけの山頂で幸せなひとときを過ごした思い出がある。
またいつか、あの眺めに出会うことはあるのだろうか。
外から帰って来ると、温かい小屋の朝食が待っていた。昨日の夕食も、冷えた体にはありがたい鍋料理がついていたし、こうして各小屋の食事が昔と比べれば見違えるほどに良くなったことで、またそこが多少高くとも小屋泊まりをしたくなる理由の一つにもなるのだ。
この三日間、予想以上の山々の眺めの眼福(がんぷく)を得て、食べることにも満足して、天気さえもこうしてもってくれて、後はただ山を下りるだけだった。
私は小屋を出て、さらに立ち去り難い気持ちで、展望台でひとときを過ごした。
それは、明け方、あれほど全天を覆い尽くしていた雲がすべて東の方へ動いて行き、西の空にはかなりの青空が広がってきていたからである。
そしてそんな晴れ間から差し込む光を受けて、再び輝き始めた山々の姿・・・常念、大天井、穂高、槍・・・。
それは、名残(なごり)の別れを告げるには十分な時間だった。8時半、私は意を決して山道を下りて行った。
一昨日と比べれば、確かに幾らか雪は溶けていたが、道は凍りついていて、先に降りた人たちのアイゼン跡が残っていた。しかし、大した雪ではないし、まして危険な稜線の道でもない。そんな中で昨日からしっくりと来ないアイゼンをつけるのは気がすすまなかった。
凍りついた雪道は、結局かなり下の第2ベンチ付近まで続いていた。しかし、私は半ば意地になって、その滑りやすい凍った道を、アイゼンなしのまま下って行った。
道の中央部は人の通った後が溶けて凍ってはいるが、道の両端には最初に降った時のまま、雪がサクッとした感じで残っていて、そこに足を置けばいいのだ。
それでも、何度も滑りそうになったが、そんなときにはやはり片手ストックと、片手は空けて枝や岩につかまれるようにしておいたので、結局一度も滑り転ぶことなく下りてくることができた。
とはいえ、やはりアイゼンをつけて下るべき道であり、とても他の人に勧められる方法ではない。
さてそんな中、天気が下り坂に向かうというのに、まだこれから登ってくる人たちが数パーティもいて、10人余りもの人と出会った。
彼らも、何も好き好んで天気が悪くなる日を選んだわけではなく、取れる休みの関係でやむを得なかったのだろう。彼らのためにも、まだ山々が見えているこの天気が、せめて今日いっぱいもってくれればと思うばかりだった。
まだ東の方には青空も残っていて、そこからの明るい日差しが黄金色の落葉松(からまつ)林を照らし出し、その後ろには木々に覆われて雪の見えない有明山が高くそびえ立っていた。(写真)
第1ベンチを過ぎて、もうあとはわずかばかりの下りだった。道の雪もなくなり、ようやく足元の不安が解消されて、後は落葉松の明るい色に包まれて、下から聞こえてくる谷川の流れの音を聞きながら、穏やかな気持ちで歩いて行った。
「からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。
からまつの林を出でて、
からまつの林に入りぬ。
からまつの林に入りて、
まだ細く道は続けり。
・・・。」(北原白秋)
家のカラマツ林はどうしているのだろうか。
登山口にたどり着いたのは、11時半前だった。ここでは何とか、コースタイム通りに下りてくることができた。アイゼンなしでゆっくりと、景色を眺めながら各ベンチごとに休んで下りてきた私にとっては、もう早すぎるほどの時間だった。
昔は中房温泉本館で風呂に入れたが、今では登山口傍の新しい別棟露天風呂になっていた。
その休憩室には、あの昨日からのテント装備の彼が笑顔で座っていた。7時半に小屋を出て、わずか2時間余りで降りてきて、ゆっくり温泉に入り、もう長い間ここにいるということだった。
二人で12時のマイクロ・バスに乗った。他に観光客らしい中年ご婦人が3人。
そこで、さらなる見せ場が待っていた。この中房川の渓谷を下りて行く途中からの光景である。行くときには気がつかなかった、山の斜面と谷あいを彩る、赤や黄色の紅葉の木々の眺めの素晴らしさ。それだけでも、今年の紅葉見物としては十分なものだった。
電車を待っていた穂高の駅のプラットホームから、すっかり曇り空になった空の下に、燕岳方面の稜線がかろうじて見えていた。
松本に向かう電車の窓からは、あの常念岳が、はじめは二つに分かれた姿で、最後には一つのすっきりとしたピラミダルな形になって、雲に隠れ始めていた他の山々からは離れて、ただひとりそびえ立っていた。
深田久弥氏の『日本百名山』の中の一節、小学校の校長が窓の外を指さして、いつも言っていたという言葉が思い浮かんでくる。
「常念を見よ!」
その山の姿が、今回の私の幸せな山旅の終わりだった。
ただし、何事にも必ず、いいことと悪いことが相半ばしてついて回るものだ。良き思い出になったその山旅の代わりに、私は数日前に寝込んでしまい、病の床に伏せていたのだ。
朝起きた時から食欲が全くなく、腹がふくらみ、吐き気がして、倦怠感、頭痛、腰痛で立ち上がることも、まして寝ていても苦しくつらく、布団の上であぐら座りをしたり、横になったりうつ伏せになったり、それでもつらくてうとうとしては目が覚め、よく眠れないままに一日を過ごし、その後、何ということか、あの『エクソシスト』のリンダ・ブレアみたいに、小さなポリバケツ3分の一ほどもの嘔吐物(おうとぶつ)が出て、やっと幾らか楽になり、痛み止めや風邪薬を飲んで次第に回復し、ようやく四日目の昨日にしていつも通りの毎日に戻れたのだ。
思えば、ひとり布団の中でうなされ苦しんでいる時ほど、惨めな気持ちになる時はない。
近くの友達の家に電話をしようか救急車を呼ぼうか、病院に行けばお金の工面もしなければ、もしこのまま死んだら、人様には迷惑なガラクタだらけで溢れた家はどうするのか、母の墓へは、ミャオの墓へは、とりとめもなくさまざまな気がかりが浮かび上がってくる。
人は誰でも日頃から、縁起でもない死出への支度など考えはしないものだ。だがこうして、その場に近づくと、慌てふためいてしまうのだ。これを忘れていた、あれはこうしておくべきだったなどと。
しかし、さらに病状がひどくなってくると、もうろうとした頭の中でもうそんなことはどうでもよくなってくる。ただ目の前のこの苦しみからどうして抜け出すか、ということだけが頭の中を駆けめぐるのだ。
死ぬことへの恐れというよりは、死に至るまでこの痛みが続くかもしれないということへの不安、それは耐え難いことなのだ。
亡くなる間際まで看取った母の姿、そしてミャオの姿が目に浮かぶ。
ただ、二人ともじたばたと慌てふためくこともなく、自分の生を全うして、立派に覚悟を決めて彼岸の地へと旅立っていったのだ。
昨日、午後になって、急に風が強くなり、そして一瞬にして北風に乗って雪が降り始め、わずかな時間の間に辺りは白くなってしまった。今年の初雪だった。
(この十勝地方では、いつもの頃の初雪なのだか、全道的に気温が高めな日が続いていたから、道内各地での初雪が遅れて、特に、同じ昨日が初雪だった旭川では、平年より一月近く遅く去年よりは46日も遅い、記録破りの初雪になったとのことだ。)
私は、その降りしきる雪を、部屋の中から見ていた。
カラマツの葉が散り敷いた黄色い庭に、白い雪が積もっていく・・・。
久しぶりに見る、降りしきる雪。
そこを、”庭かけめぐり”たいような思いが溢れ来る一方で、もうしばらくすると、”コタツで丸くなる”ミャオもいない家に帰らなければならないという、寂しさと・・・。
確かなことは、雪が降るのが早くなろうが、遅くなろうが、もう冬になるということだ。