ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

大天井岳と雪のトラヴァース道

2012-11-12 19:00:49 | Weblog
 

 11月12日

  3時過ぎ、星空を撮りに行くと言っていた隣の若い男が起き上がり、外に出て行った。真夜中には風の音が強かったが、それも収まってきているようだった。夜明けまでには、まだ時間はある。
 一昨日北海道を出て、昨日この燕山荘(えんざんそう)の山小屋まで登ってきた私にとって、今日はこの山旅で一番大切な日だった。今日一日晴れてくれるなら、前後の日は小屋までの登り下りだけだから、天気が悪くても構わないとさえ思っていたのだ。
 それが昨日から晴れていて、そして今日もおそらくは晴れるだろう・・・私は寝返りを打って、体を縮めた。もう2時間ほど寝ていることができる。

 私の山登りは、いつも出かける決心をするまでが大変なのだ。行きたい山は決めているから、それで迷うことはないのだが、問題はいつ行くかなのだ。
 こうして年を取ってくると、無駄な山登りはしたくないのだ。天気が悪かったり、登山者で大混雑したりとかいう山には登りたくないのだ。
 若いうちには悪天候の登山もまた、もしもの時に備えての良い経験になるのだろうが、老い先短い、じじいになりつつあり私にとっては、いったいこれからどれほどあるかも分からない将来のためになど、そのための経験になどなるのだろうか。
 ただヒマだけは十分にある私は、晴れた日に行けばいいだけのことだ。

 年を取れば山は逃げていく。そこをごうつくばりじじいの根性で、いかに姑息(こそく)な手段を使い、なるべく楽に安全に山に登る手立てを考えるかなのだ。
 そうして山登りを楽しみ、いざお迎えが来た日には、これらの山の思い出を胸いっぱいにため込んで、満ち足りた思いで、地獄にでも下りて行っても構わない。

 ・・・ここは生前、この世で悪行を重ねてきた罪ある人々が引き回され登らされる地獄の山・・・、その前で私は閻魔大王(えんまだいおう)に申し述べるだろう。

 「私は、娑婆(しゃば)におりましたころから、数多くの登山の経験がありますゆえ、山登りは得手(えて)でありまして、むしろ、これは大王様の私への粋なるご配慮かと、感謝いたしております。」

 その地獄をも恐れぬ私の答えに、閻魔大王は思わず、カンラカラカラと大笑い。そして笑いを止めて、私の顔をじろりとにらみ、怒鳴りつけたのだ。

 「たわけ、ここをどこだと思っておる。地獄の中でも有名な針の山だぞ。おまえは生前、多くの女たちをゆえなく泣かせてきたな。その女たちの恨みによってここに送られてきたのだ。
 娑婆での、物見遊山(ものみゆさん)の経験がなんの役に立つと思っているのだ。ならば、これから続く針の山の難行苦行(なんぎょうくぎょう)をとくと味わってみるがよい。
 おまえが立っていても歩いていても座っていても、そこは針だらけという恐ろしい山なのだ。このたわけめが。」

 いやな夢を見ながら、時計のアラーム音で私は目が覚めた。
 今日は、針の山ならぬ雪で凍てついた山稜を歩いて行かなければならないのに、縁起(えんぎ)でもない。

 さてとりあえずご来光を迎えるために、冬山手袋に耳あて帽子、冬山用ジャケットの防寒スタイルで、外に出た。
 日の出前のまだ暗い空の中に、西の空の一線だけが、すでに赤く彩(いろど)られていた。小屋裏のヘリポート兼展望台にはもう三人ほどの人影があった。風は吹いていたが、次第に収まってきていた。

 そこから見ると、浅間山から八ヶ岳、富士山、南アルプスの山々が、日の出前の見事な茜色(あかねいろ)の空にシルエットとなって並んでいた。
 いつしか展望台の上は人々でいっぱいになっていた。そして浅間山と八ヶ岳の間から、朝日が昇ってくる。その輝かしきご来光に向かって、人々の声が上がる。

 三脚にカメラを構えていた人たちは、反対側のこの北アルプスの山々にカメラを向けていた。
 朝の赤い光が、今まで未明の薄暗い中に沈んでいた山々を鮮やかに映し出していく。一番高い穂高連峰や槍ヶ岳の頂きの辺りから次第に下へと降りていく。
 そして、これら名だたる山々の姿があまねくこのモルゲンロート(朝の赤い色、ドイツ語)に染められるころ・・・。

 なんという至福のひとときだろう。周りに人々がいることも忘れて、輝く山々を眺めていた。この時のために、私は山に登るのだ。
 何回もカメラのシャッターを押し続けて撮った写真、それぞれにそれほどの差はないし、ただ写しただけの写真だが、その一枚を上にあげてみた。
 (写真上 今日たどる大天井岳へと続く尾根の上に、右から槍ヶ岳、大喰岳、中岳、南岳と並んでいる。)

 厳冬期の冬山になる前のこの時期、いわゆる初冬期の雪山の姿を求めて、私はこのところ、内地遠征の山旅を繰り返している。そして、幸いにもそのほとんどで、朝夕の赤光に染まる素晴らしい山々の姿を見ることができたのだ。
 たとえば、天狗池経由南岳~槍ヶ岳、八方尾根から唐松岳、常念岳~蝶ヶ岳、立山連峰~剣御前など今でも目の前に浮かんでくる。
 もちろん、その他にも、地元の北海道の日高や大雪の山々、さらにもっと若いころから登っていた北・南・中央の日本アルプスや八ヶ岳の山々などの、その時その時に違う赤く染まった姿をいくらかは憶えてはいるけれど、しかし人間の記憶は、どうしても歳月とともに薄れていくものなのだ。
 記憶は新しいものほど、まだ鮮やかに残っている。

 ある登山家が、一番好きな山はと問われて、いつもこの前に登ってきたばかりの山だと答えたというが、その気持ちが正直なところだろう。
 事実、今回のこの登山も、山から下に降りてきた時は、山々のそれぞれの姿だけでなく、生々しい風の冷たさや雪の感触までもまだ憶えていたのだが、日がたつにつれわずかずつその記憶は薄らいでいってしまうのだ。
 それでもこうして写真を見ることによって、あの時の光景が再びいくらかはよみがえっては来るのだが、いずれにしても、時が私たちの記憶を追い越していくことだけは確かだ。
 だから私は、繰り返し、好きな山のベストな時の姿を求めて登りたくなるのだ。

 しかし一般的には、百名山を追い求めるとか、一つの山に登り続けるという登山の在り方もあるわけだし、人それぞれの思いによる登り方があってしかるべきなのだ。

 前にも書いたように、確かに深田久弥氏による『日本百名山』は、日本山岳書の中での名著の一つであり、彼の山を愛する深い思いから、いにしえの文献をひも解き調べ上げた上での、百名山の選定であって、大体において昔からの人々と山との結びつきに重きが置かれている。
 それはそれで十分に敬意を払うべきものだとは思うけれども、ただ私の場合には、自然が作り上げた山の姿形に最大の視点を置いての評価だから、それが百名山に選定されている山でも、例えばあまりにも標高が低かったり、山頂に人工物が乱立するような山は名山とは思えないし、あえて登りたいとも思わないのだ。

 それよりも、これまでに私が登った山でさえ、それぞれの季節ごとの衣をまとった姿を見てみたいと思うし、さらにはまだ登りたい山も日本中に幾つも残っているるのだ。
 さらに言えば、私が最も素晴らしい山の姿だと思うのは、もちろん雪に覆われている時の姿である。

 さて私は、こうして雪の山々の朝日に照ら出された姿を十分に堪能(たんのう)してから小屋に戻り、今朝も多くの登山者たちと一緒に朝食をすませた。
 そして、大天井岳(おてんしょうだけ、2922m)に向かってひとり出発することにした。
 カメラと温かいお茶と昼食とそれだけをデイパックに入れて行けば楽だとも思ったが、天気がいいとはいえ雪道だ、いざという時のためには、いろいろと緊急対応できるものを入れたザックを持って行くべきだと考えて、昨日から余り軽くはなっていないザックをそのまま背にして小屋を出た。

 ゆるやかに下っていく縦走路の雪道の上には、先行者たちのトレース(踏み跡)がついていて、靴跡やアイゼンの跡が残っていた。はっきりと道がわかる夏山に比べて、雪で道が隠されてしまう積雪期には、こうしたトレースがついていることはありがたいことなのだ。

 もっとも、今までよく登ってきた北海道の日高山脈の山々での、積雪期の登山では、もともと夏道もついていない所を登ることが多く、その場合は2万5千の地図をよく見て、雪崩(なだれ)の起きにくい尾根通しに雪庇(せっぴ)に気をつけながら、まっさらの深い雪をかき分けラッセルをして、あるいは春先の固雪(かたゆき)の頃はツボ足で、時には山スキーで登っていくしかないのだ。(’09.5.17~21、’10.4.28の項参照)
 しかしよく登られている内地の山では、誰かしらの歩いた跡があって、そうした苦労が軽減させられることが多いのは確かである。
 もっとも、足跡もない純白の処女雪の上をひとり歩いて行くという、爽快感はなくなるのだが。

 それにしてもなんという展望だろう。そよ吹く風の快晴の空の下に、ぐるりと白銀の峰々が並び立っている。
 小屋からは見えなかった、後立山(うしろたてやま)連峰の針ノ木岳(2821m)の姿が、立山(3015m)・剣(2999m)と燕岳(つばくろだけ、2763m)の間に見えてきた。

 道は比較的ゆるやかに尾根の右斜面に水平道として作られてはいるが、所々雪が多かったり滑りやすい所があったりで、30分ほど歩いた蛙岩(げえろいわ)の辺りで、先行者たちにならってアイゼンをつけることにした。
 しかしその後、何度もアイゼンが外れて、付け直さざるを得なかった。そのためにずいぶんと余分な時間をくってしまったのだ。
 問題は靴とアイゼンの相性が悪いのだ。この靴との組み合わせで前にも苦労したことがあるのに、それを分かったうえで持ってきた私が悪いのだ。

 この靴は、もう十数年前に有名登山用品店の通販バーゲンで買ったものだが、防水、断熱に優れた重トレッキング用のものらしく、靴底が分厚く幅広で、安定感があり、こうした初冬の山用に愛用しているのだが、いかんせんあまりアイゼン装着については考えていないらしくて、何とかフリースタイルのアイゼンをつけることができるのだが、ぴったりとは合わずに歩いているとどうしてもゆるみができてきて、さらには外れてしまうのだ。
 厳冬期や残雪期には、プラスティック・ブーツにワンタッチ・アイゼンの組み合わせで、全く問題なくやってきたのだが、やはりこの初冬期に合わせて新しい靴を買う必要があるだろう。(ちなみに私は厳冬期・残雪期用に2足、この初冬期用の1足、夏山用の3足という態勢である。)

 そうした足元のわずらわしさとは別に、上に着ているものはむしろ暑く感じるほどで、長袖下着に厚手の長袖シャツで十分であり、手袋さえも脱ぐほどだった。
 天気は全く申し分なく、何といっても周りを山々に囲まれて誰もいない山稜をひとり歩いて行くのは、気持ちが良かった。
 そのゆるやかな尾根道は、標高差100m余りの大下りの頭にさしかかり、前方の展望が開けて、山稜の先に目指す大天井岳(おてんしょうだけ、2922m)が立ちはだかっていた。(写真)

 

 
 その南面の大下りでは、雪がなく砂利が露出していたが、コル(鞍部)まで下った東面には吹き溜まりの雪が続いていた。
 登り返すと、再びゆるやかな水平道になり、アイゼンを直していると向こうから若者が一人さらにしばらくして二人がやってきた。話を聞くと、朝早くテント場を出て大天井岳まで行って戻るところで、今日中に下に降りると言っていた。
 そうなのだ、若者たちにとってはこの初冬の大天井岳へのコースは、一泊二日で十分なのだ。それにひきかえ、このぐうたらおじさんは、山小屋二泊でぬくぬくと過ごし、半日コースに丸一日をかけてのよたよた歩きなのだ。
 とはいえ、年相応に自分で楽しんでいればそれでいいじゃないかと、自らを慰めるのだ。何と言ってもこの天気と山々の姿だ・・・。

 その大天井岳が、もう大きな山塊となって眼前に立ちはだかるように近づいてきた。切通し岩のキレットになった鎖場(くさりば)を越えると、いよいよ北側の尾根に取りついてのジグザグの登りになる。改めてアイゼンを締めなおした。
 先ほど会った彼らのアイゼン跡がついている斜面を登って行く。クラストした斜面にアイゼンの爪が気持ちよく効いている。ピッケルも持ってきてはいたが、雪面が凍りついているわけではなく、まだストックで十分だった。

 急な岩礫(がんれき)の尾根をあえぎながらジグザグに登り続け、少し右に巻いて上がると頂上だった。12時少し前で、何と4時間以上もかかっていた。
 頂上には、テント装備の大きなザックの男が一人いた。彼は常念のテント場からやって来て、これからもう閉まっている下の大天荘(だいてんそう)の小屋に戻り、トラヴァースのまき道を経て下るとのことだった。
 私も下りはその道を取るつもりだったが、途中から見る限りわずか一人のものらしいトレースの足跡がついているだけだった。彼はすぐに下りて行った。

 それから40分近く、頂上には私ひとりだけだった。さすがに山の頂きだから、少し風はあったが、寒くはなかった。それよりも、このぐるりと見回す周囲の山々の大展望はどうだろう。それらはすべて、今までに私が登った山々ばかりだった。
 まずはこの山なみの南に常念岳(2857m)があり、眼下のニノ股谷はそのまま南下して梓川(あずさがわ)となり上高地へと回り込んでいて、その川の流れから立ち上がった穂高連峰が前穂(3090m)・奥穂(3190m)・北穂(3106m)と連なり、そして手前に槍ヶ岳(3180m)が北鎌尾根から天上沢への切れ込みを見せてそびえ立っている。(写真)

 

 その右手遠くには、加賀の白山(2702m)が見え、その手前に笠ヶ岳(2898m)、そして裏銀座の山々、双六岳(すごろくだけ、2860m)、三俣蓮華岳(みつまたれんげだけ、2841m)、鷲羽岳(わしばだけ、2924m)、水晶岳(2986m)、野口五郎岳(2924m)さらに立山・剣に針ノ木、鹿島槍、白馬と続き、その下に鮮やかな色の黒部湖が見える。(写真下)
 さらに富士山、南アルプス、八ヶ岳、浅間山、妙高・火打などの山々・・・。

 ちょうどお昼頃の光線だから、山々は平面的に見えて、写真としては陰影に乏しい感じになってしまうが、私は写真よりも何より、今の初冬の時期に北アルプスの山々に囲まれて、ただひとりでいることの、何物にも代えがたい満足感に浸っていた。
 
 ただ一面に広がる空、純白の雪に覆われた山々、それらの中に包まれて、私は今ここに生きているのだ・・・。
 その自然を畏怖(いふ)する思いが、いつしか神なるものの存在へと近づいていくような・・・。

 私は去りがたい気持ちで、頂上を後にした。
 雪がまだらに残るなだらかな尾根道を下って行くと、すぐに冬季閉鎖の山小屋大天荘に着く。
 そこは十字路になっていて、そのまま先へ行けば常念岳へと向かい、右にトラヴァース気味に下れば、喜作新道の続きである西岳から槍ヶ岳に向かう道となり、左にトラヴァースして山腹をまけば、先ほどの切通し岩上の尾根分岐へと戻ることができる。
 夏の時期に、その道は二度ほど通ったことがある。

 しかし、その入り口がわからない。先を行くはずの彼の足跡がついていないのだ。
 しばらく行ったり来たりしたが、心を決めて、ロープが張られて立ち入り禁止ふうになったところから、下りて行くことにした。傍には大きなケルンが二つあり、最後に通ったのはもう十年以上前になるが、確かそのケルンのそばを通ったはずだ。
 今ロープが張られているのは、おそらく冬季には雪崩(なだれ)の危険があるからだろう。
 しかし今、雪は深いところで1m位で、その上に乾いた新雪が降り積もっているというわけでもない。雪崩の心配はまずないだろうと覚悟を決めて、その東斜面の山腹を下りて行くことにした。

 始めのうちには、ずいぶん前のものらしい足跡がついていたが、すぐに吹き溜まりの斜面に消されてしまっていた。
 しっかりと雪山用のストックを雪面に差し込み、アイゼンを下まで踏み込んで効かせて、慎重に斜め下へと降りて行く。
 左上の雪の斜面をちらりと見て、なるべく急いでその雪に埋まった小さいルンゼを渡らなければならない。それが三カ所あり、やっとそこを抜けて、岩礫(がんれき)が見えている斜面に出た時は、ほっとした気持ちだった。

 短い距離だったけれど、それだけで太ももにきて、例のごとく足がつってしまった。それをなだめなだめゆっくりと降りて行く。 
 切通し岩上の尾根道分岐付近にも、彼の足跡はなかった。どこに行ったのだろう。
 ただ万一、道迷いや滑落したとしてもこの山の周りにはそう危険な所はないはずだし、ましてテント装備の彼のことだから、どこにでもビヴァーグ(緊急露営)できるはずだし、それほど心配することはないと思った。

 ただ自分のことだが、先ほどのトラヴァース斜面ですっかり体力を使い疲れた上に、それから時々足がつるようになってしまっていた。
 しかし幸いなことに、雲は増えてきていたが相変わらず穏やかな晴れの空が広がっていた。私は30分に一度は休み、腰を下ろしてゆっくりと周りの景色を眺めた後、再び立ち上がり、見た目には疲れてのろのろと歩いて行った。

 そして、もう夕暮れの空に変わる頃、4時半近くになって、私は小屋にたどり着いた。
 行く先を告げておいた小屋の人から、ずいぶん時間がかかりましたねと言われた。さもありなん。コースタイムで大体6時間、休みを入れて雪道を考えても7時間位の所を、何と8時間半もかかっていたのだ。
 それには途中での何度ものアイゼン付け直しに時間がかかったことと、大天荘分岐付近で行ったり来たり道を探し、雪のトラヴァース道を慎重に下ったことなどによるのだろうが。
 もっとも私としては、かかった時間の割には疲労困憊(ひろうこんぱい)とまでに疲れてはいなかったのだが。

 荷物を部屋に置いて、すぐにまた外に出て、夕映えの山の写真を撮ろうと思ったけれど、もう西から広がってきた高い雲がすっかり広がってきていて、日没の5時前後に赤く染まることはなかった。
 そして休日の昨日の混雑と比べれば、わずか12名だけというがらがらに空いた小屋の、二人区画の所をひとりで占領できて寝転がり、今日のデジカメ写真を見ては、ひとり思い返しニヒニヒとしていたところ、階段の方で音がして、大きなザックを抱えた一人の男がやってきた。
 時計を見ると5時半過ぎで、今頃着くなんてと思い顔を見ると、なんと大天井岳頂上で出会った彼だったのだ。
 遅くなってテントはあきらめ、小屋泊まりにしたということだった。

 彼の話を聞いて、どこに消えたのかという私が抱いていた疑問が解けたのだ。
 彼はあの後、私が無理して行ったロープが張られている所で引き返し、ひどく遠回りになるが地図に載っているもう一つの道へと、西岳方面への道へと下り、ぐるりと反転して、1mもの斜面の雪の道を苦労してラッセルしながら、尾根道分岐から切通し岩へと抜ける道に出たのだ。

 それは地図を見ればすぐに分かることだが、文章で書けば、つまり正三角錐(せいさんかくすい)を思い浮かべればいい。もちろん頂点が大天井岳の頂上である。
 その頂点から北側に引いて下りた線が私が登ってきた尾根道である。そして南東側に引いて下りた線が大天荘の分岐であり、私はその底辺の北西に向かう道を取って、尾根道分岐に戻ってきた。
 しかし彼は、大天荘分岐から、西へ向かう底辺をたどり、今度は120度反転して北東に向かい尾根道分岐に出たのだ。正三角形の二辺が他の一辺の二倍あることは言うまでもない。

 ここに、テレビ・ドラマのような山でのミステリーが解決して、私たちはお互いに納得し合ったのだ。
 つまり二人とも、地図には載っていないが冬道ルートである、頂上への直接の尾根道を素直に戻り、あるいはたどればよかったのだ。
 もちろんもっと雪が深くなる厳冬期なら、むしろ迷わず尾根ルートを行ったのだろうが、実は私があのトラヴァース道をたどったのは、何か雪の斜面にいい写真の被写体があるかもしれないと思っていたからであり、しかし実際は、慎重に下ることだけに気を取られて、カメラを構える余裕もなかったのだ。

 今日の稜線歩きは、穏やかな天気のもとだったからよかったものの、アイゼン不具合とともに反省するべきところの多い一日だった。
 古い話だけれども、反省ザルのポーズを取り、頭を下げる他はない。

 それにしても今の時期に、一日いい雪山歩きができたことに感謝したい。ありがとう、母さん、ミャオ。
 もう明日は、天気が崩れようとも問題ではない。ただ中房温泉に下るだけの、短い行程だけだからだ。

 いつも山小屋では眠れないのだが、今日は隣に誰もいないし、私は疲れもあってか、早々に眠りについた。もう羊も、ふたこぶラクダも出てこなかった・・・ただ今日見た、白い山々の姿だけが・・・。

(さらに、次回へと続く。お楽しみは、長く伸ばして思い返したいのだ。)

  
 


 

 

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