11月25日
前回書いたように、1週間ほど前に初雪が降り、その後も、うっすら積もるくらいの雪が降ったが、三日前には、今の時期としては少し多めの、20cmもの雪が積もった。
夜にかけて降り積もった雪は、さらにその日の午前中まで、細かいさざめ雪となって暗い空から舞い落ちていた。(写真上)
「・・・雪はアイルランド全土にわたっていた。それは暗い中央の平原のあらゆる地域の上に、木のない丘々の上に降り、アレンの沼地にひっそりと降り・・・。
それは吹き流され、ゆがんだ十字架や墓石の上に、小さな門の尖塔の上に、実を結ばないイバラの上に厚く積もっていた。
彼の魂は、全宇宙にひそやかに降り続く、そして来たるべき最期が降りくるのに似て、すべての生者と死者の上に、ひそやかに降り続く雪を聞きながら、ゆっくりと意識を失っていった。」
(ジェイムズ・ジョイス著 『ダブリン市民』”死者たち”最終章より)
1週間ほど前に病床にあった私は、半覚醒(かくせい)状態の中で、とりとめもない様々なことを思い浮かべたりを繰り返していた。その中の一つが、映画『ザ・デッド ”ダブリン市民”より』のラスト・シーンにかぶさって流れる、この原作の朗読の言葉だった。
(手元に映画のDVDもないし、本もないので、その時に聞いた正確な言葉はわからないが、ここでは、公開和訳”プロジェクト杉田玄白”のものをあげておいた。)
この映画の監督、ジョン・ヒューストン(1906~87)は、アメリカ映画の名匠の一人ではあるが、私にとっては、『マルタの鷹』(’41)『黄金』(’48)『アフリカの女王』(’51)『白鯨』(’56)『許されざる者』(’59)などで見てきたように、過去に活躍した監督であったから、1987年にこの映画が公開された時、それは監督の遺作ともなったのだが、様々な思いがよみがえってきてはぜひともその映画を見たいと思った。
そして、東京に立ち寄った時に、タイミングよく見ることができたが、それは期待にたがわぬ名作になっていた。はるかなる祖先の地、アイルランドへの思いと、さらには自分もたどるであろう死者たちへと続く道に思いを込めて・・・。
窓の外に降る雪を眺めながら、私もそうしてひそやかに降り続く雪を見ながら死んでいくのかと、思ったりもした。
しんしんと降りしきる雪・・・もう寒くもない、もうどこも痛くもない・・・ただ静かな雪の降る音を聞きながら・・・眠たくなっていくだけ・・・。
そうした、”死の舞踏(ぶとう)”の思いに駆られるままにいつしか眠り、再び目を覚ました時、一転して、雪原の彼方の空は晴れ渡っていた。(写真下)
これからこの十勝地方は、いつもの西高東低の冬型の気圧配置が続くようになり、冷え込むけれども、晴れた日が多くなるのだ。お天気屋の私にとって、何とおあつらえ向きの季節だろう。
病もいえて、元気になった私は、すぐに外に出たくなる。まずは表の道まで、50mほどの雪かきだ。今の時期の雪は、少し湿っていて、九州の雪に似ている。その仕事は、わずか30分ほどですんでしまった。
「いやー、たいへんだったねー。」「なあんもだー。」こうしてひとりごとを言うようになったのも、じじいになった証拠だ。
次の日は、薪(まき)割りだ。軒下に並べて乾燥させていた、一昨年に切り倒した直径20~30cmの胴切りのカラマツ丸太を10個ほど、斧(おの)で割っていく。ストーヴの長さに合わせて、少し長めにチェーンソーで切っているから、斧を上下数回ずつは振り下ろさなければ割れない。
もちろん、丸太を短くすれば割りやすいのはわかっているのだが、長さがちょうどいいからと変なところに意地を張って、わざわざ苦労して丸太を割りをして薪を作っているのだ。
しかし寄る年波には勝てず、いつかは短い丸太で割るようになるだろう。さらには、その斧でさえ持ち上げられなくなる日が・・・。
てやんでえー、こちとら伊達(だて)や酔狂(すいきょう)で、何十年もこんな山の中で暮らしてきたんじゃねえ。その時になりゃ、その時までのことよ。ぎりぎりまで仕事をやって、自分の家のこの林の中で、ぶっ倒れてしまえば、あとは野となれ山となれとくらあ。
と、生来の脳天気な私は、青空見上げてかようにうそぶいては、動き回るのだ。ついこないだまで、えらそうなゴタク並べて、死ぬの生きるのとわめいていたのはどこのどいつだい。はい、私です。
ともかく、今はただ、この一面の雪景色と青空があればいいのだ。
「 冬だ、冬だ、何処(どこ)もかも冬だ
見渡すかぎり冬だ
その中を僕はゆく
たった一人で・・・ 」(高村光太郎 『冬の詩』より)
私はさわやかな気分になって、ひたすらに丸太を割り続ける。冬をここで過ごすわけではないから、すでにある3カ月分くらいの他に、とりあえずでいいのだが、何よりこれは、なまった体の良い運動にもなる。
すっかり汗をかいて、家の中に戻る。ストーヴの熱気で暑いくらいだ。
下着を着かえて、ゆり椅子に座り、トゥーレックの弾くバッハのパルティータを聞きながら、外の雪景色を眺める。
これだけで十分じゃないか、とあらためて思うのだ。
「 ・・・事を知り、世を知れれば、願わず、わしらず、ただ静かなるを望み、憂(うれ)い無きを楽しみとす。
・・・それ三界はただ一つなり。心もし安からずば象馬七珍(ぞうばしっちん)もよしなく、宮殿楼閣(きゅうでんろうかく)も望みなし。今、さびしき住まい、一間(いっけん)の庵(いおり)、みづからこれをあいす。
・・・鳥は林をねがう。鳥にあらざればその心を知らず、閑居(かんきょ)の気味もまた同じ、住まずして誰かさとらむ。 」
(鴨長明 『方丈記』十三段より)
今朝、昨日の朝と二日続けてー10度まで冷え込んだ。日中もやっとプラスになるくらいの温度で、辺りは雪景色のままだ。
そんな中、窓辺に寄って夕暮れの空を眺めていた私の目の前を、一匹の小さな蛾がひらひらと飛んで行った。
もう外の気温は、マイナスになっているというのに。外には暖かい場所もなく、咲いている花などないというのに・・・。
”蛾にあらざれば、その心を知らず、冬の寒さの中、ひとり飛ばずして、誰かさとらむ。”