ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

落ち葉と新雪の北アルプス

2012-11-08 19:00:53 | Weblog
 

 11月8日

 五日ぶりに家に帰ってきた、一昨日も雨が降っていたが、さらに昨日は一日中、強い雨と風が吹き荒れていた。いつもの季節なら、道北方面での大雪になるところだが、今年はずっと気温が高めで経緯していて、季節はずれの大雨になったのだ。
 やっと雨が止んだ今朝、外に出てみると、至る所に水たまりができていて、庭の周りは、紅葉の落ち葉で埋めつくされていた。(写真)
 モミジの赤、カエデの黄色、さらには今が盛りのカラマツの黄金色の葉もかなり散り落ちていた。毎年楽しみにしている、わが家の周りの林の紅葉も、今年は十分には見ることができなかったのだ。(’11.10.30、’09.10.24の項参照)

 毎年変わらぬ、季節の錦綾(にしきあや)なす光景を、今年に限って見逃したのは残念ではあるが、しかし私はその代わりに、青空のもとに白く競い立つ、新雪の北アルプスの山々を見ることができたのだ。
 限られた時の中で、二つとも首尾よく同時に手に入れることなどむずかしいものだ。まして、二兎(にと)を追っていて、そのどちらとも得られないことの方が多いものなのだから、一つだけでも、それも飛び切りに美しい山の光景に出会えたたことに、私はただただ、感謝するばかりである。

 それは、三日間もの晴れの日が続いた、素晴らしい初冬の山旅だった。
 しかし、すべてが偶然に訪れたものではなかった。しばらく前から、私はいつものように、新雪の山々を眺めに行くべき日をうかがっていたのだ。
 10月24日、ネットのライブカメラで見ると槍ヶ岳が新雪に輝いていて、さらに白馬連峰も雪に覆われていた。そして次の日も天気が続いて、山の姿が映し出されていた。残念にも、それを予測できずに出かけなかった自分が情けなく思えた。
 ああこうして、何事にも慎重になっていき、多少のことでは重たい腰を上げなくなるから、年を取っていくのだ。

 しかし、その後も毎日ライブカメラや天気予報を見続けていたのだが、数日後の予報なのにもう天気予報の確率がAランクの晴れになっていて、それが3日間も続いていた。確率がAランクというのはよぽどの自信がないと出せない数値だ。
 もう行くしかない。ただ問題は、それが土曜日曜と重なっていることだ。

 つまり、山好きな日本の勤労者諸君にとっては、日ごろの刻苦勉励(こっくべんれい)の当然なるごほうびとしての、休日の好天なのであり、喜ぶべきところなのだろうが、一方、もはや隠居(いんきょ)の身であり、金はないが時間が自由に使えて、それだけにわがまま偏屈(へんくつ)なじじいである私の思いとしては、舌打ちせざるを得ない休日と天気のめぐり合わせだったのだ。
 それは、日ごろから土日の登山の混雑を避けて、静かな山歩きを楽しむ私にとっては、まさに悩ましい選択だった。
 しかし、様々な事情から行くことができる期間はもうあまりないし、ともかく天気が一番だと心を決めた。
 目的は、新雪の北アルプスの山々を眺めるために、燕岳(つばくろだけ、2763m)から大天井岳(おてんしょうだけ、2922m)まで行くことであった。

 すべての準備を整えて家を後にして、飛行機に乗り、電車、高速バスと乗り継いで松本に着き、そこで一晩泊まった。夕暮れの空に、雲に囲まれながらも常念岳の姿が見えていた。
 低気圧が去り、高気圧が張り出してきていたが、等圧線が密なままで、寒気が入り込みまだ風が強いのだ。しかし明日からの天気は回復して、明後日には高気圧が日本の中央部にやってくることだろう。私は、何の心配もなく眠りについた。

 翌日、早い電車で穂高駅に向かった。車窓からはまだ薄暗い中、朝霧の下に霜で凍りついた田畑が薄明るく見えていた。
 中房(なかふさ)温泉行のマイクロバスに乗ったのは、5人だけだった。連休だというのにこんなものなのかと、混雑の心配は杞憂(きゆう)に終わったのだと喜んでいた。
 そして途中の山間の道からは、期待通りに、青空の下に真っ白な山なみが見えていた。気分は高まってくる。

 しかし、終点近くの駐車場にはかなりの数のクルマが停まっていて、降り立った登山口(1450m)は三十人近い登山者でにぎわっていた。
 今では、多くの登山者がマイカーで来るようになったのだ。それは、私たちが北海道の山に登る時に、ほとんどが自分のクルマで行くのと同じことだ。
 道が良くなり、一家に一二台の車がある時代だからの、当然のことである。
 
 その昔、若い私が東京にいた頃、みんなが新宿発23:55の鈍行に乗り込んで北アルプスに向かっていた。あの頃と比べて、すっかり時代は変わったのだ。座席の下のあり得ない3等寝台と呼ばれた場所が、どれほどありがたい特等席のベッドになってくれたことか。
 年寄りはこうした昔話を自慢げにして、若者たちから嫌われるのだ。あーあ、”もの言えば唇寒し秋の風”だ。

 さて、7時半過ぎ、急なジグザグ道を登り始める。すぐにうっすらとササに雪が積もったカラマツ林の斜面になった。カラマツの葉はここでは、私の家の林と変わらないくらいに黄葉していて、青空に映えてきれいだった。
 前後には、にぎやかなグループや二三人のパーティーなどがいて、追い抜かれたり、追い抜いたりを繰り返す。
 途中には、30分間隔ぐらいに、丸太ベンチが置かれた休息ポイントがあって、皆が休んでいた。もう道通しに雪が積もっていて、昼間に溶けた雪が凍って滑りやすくなっていたから、第2ベンチでは、多くの人が靴に6本爪などの簡易アイゼンをつけていた。
 私は、冬用の10本爪を持ってきていたが、つける手間も面倒だしと、結局、そのまま最後まで登って行くことにした。

 いったんゆるやかな尾根道になったが、再び急な斜面の日陰の滑りやすい雪道になる。下りは大変だが、登りは危険な尾根道やガレ場ではない限り、この燕岳の合戦尾根(かっせんおね)のように比較的安全な道では、注意して登って行けばいいのだし、まだ土や岩の所もあるからやはりアイゼンなしの靴のままの方が楽なのだ。
 ともかく他の登山者に抜かれることの方が多かったが、まだ明日のこともあるからとゆっくりと歩きながら合戦小屋(かっせんごや)に着いた。ベンチには、先を登っていた男の人と、後から速足で登ってきた若い娘がいた。
 彼女は、明日は仕事があるから日帰りとのことだったが、さすがに若いからだろうが、北アルプスの初冬の山でも、この燕岳などはアプローチが良く、十分に日帰りができる山なのだ。

 今までも、木々の間から、真っ白になった大天井岳が見えていたが、少しずつそれが木々の上に見えるようになって見晴らしが開けてきた。
 右手には森林に覆われて雪の稜線が少しだけ続く餓鬼岳(がきだけ、2647m)と唐沢岳(からさわだけ、2642m)も見えてきて、振り返れば登山口傍から反対側にある有明山(2268m)がずっと下になっていた。
 30cmほど積もったゆるやかな雪道の先には、目指す燕山荘(えんざんそう)の山小屋が小さく見えてきて、そこから燕岳、北燕岳へとそれぞれのピークが連なっていた。(写真)

 

 そして小さな急斜面を登りきると、今や左手にはさえぎるものもなく大きく大天井岳と、その右手には槍ヶ岳が見えてきた。
 一登りして、さらに鎖場(くさりば)を過ぎると最後の小屋への登りになるが、息も脚も続かない。上の方からは、日帰り登山の若者たちが次々に下りてくる。
 彼らの元気さをうらやましく思うよりは、こうして山に来ている若者たちが多いことをうれしく思った。
 一時は中高年登山者だけになってしまうのかと思われた日本の山々に、山の愉しみを知った若者たちが増えてくるのは素晴らしいことだ。それぞれの年代を経て、自然や山を愛する人々の連なりが受け継がれていくのだ。

 さらに私を喜ばせたのは、西風を受けて少し雲をまとわりつかせながらも、槍ヶ岳(3180m)・奥穂高岳(3190m)・大天井岳(2922m)・常念岳(2857m)と続く雪の山なみが青空の下に広がっていたことだ。まさに、山に来てよかったと思う瞬間だ。
 
 滑りやすい溝状の道を登りきると、後は雪がついていない花崗岩の砂地の斜面だけだった。
 登り切って、東側の吹き溜まりの部分だけが雪に埋もれかかった燕山荘(2704m)に、ようやくのことで着いたのだ。

 コースタイム4時間10分位の所を、5時間もかけて登ってきたことになる。それは、アイゼンもつけずに滑らないようにゆっくりと登ってきたからでもあるだろうが、一方ではいつもの脚がつることもなかったし、それほど疲れてはいなかった。
 もし日帰り装備の、デイパックの荷物だけならもう少し早く登れただろうが、しかし10キロほどのザックくらいで、急坂でねをあげている私には、このくらいの時間がいいところだろう。

 この合戦尾根からの道は、あの鹿島槍ヶ岳(2889m)の赤岩尾根や裏銀座(うらぎんざ)コースの起点となる烏帽子岳(2628m)へのブナ立尾根とともに、北アルプス三大急登の一つと言われていて、私には二度目の久しぶりコースなのだが、さほどの登りとは思えなかった。
 むしろ広く日本アルプスの三大急登と考えれば、早月尾根からの剣岳(2999m)や笠新道からの笠ヶ岳(2898m)、黒戸尾根からの甲斐駒ヶ岳(2967m)の方が、時間も含めての急登と呼ぶにふさわしいように思える。

小屋に荷物を置いて、さっそく目の前に見える燕岳に向かうことにする。まだまだ日帰り組の連中も降りてきていた。
 燕岳は、特に際立った山容や高さやがあるわけではないのだけれども、この山の一帯に露出している花崗岩の形が、それぞれに芸術的なフォルムに見えて面白く、また夏にはその砂地の斜面にコマクサの大群落の花が咲き、手軽な北アルプス入門の山として親しまれているのだ。
 さらに、この燕岳を起点として、喜作新道(きさくしんどう)と呼ばれる道を南下して行き、大天井岳から西岳に至り、転じて東鎌尾根を経由して槍ヶ岳に至る縦走路は、昔から人気のあるコースとして、表銀座(おもてぎんざ)コースと呼ばれている。

 私は、この表銀座コースという名前に恐れをなして、そのコースをたどったことは一度しかなく、他に霞沢岳(かすみざわだけ、2646m)から唐沢岳までの常念山脈縦走の時に、この燕岳を経由しているので、今度で三度目でしかない。

 それでも、40分ほどの道の途中で何度も立ち止まり、周りの景色を楽しみながら写真を撮り、ゆるやかな尾根道を楽な空身(からみ)で歩いてゆくのは楽しかった。もう前後には登山者の姿もあまり見えなかった。(写真)

 

 風の強い頂上の岩陰には、一人がいるだけだった。
 そして今まで隠れていた、北燕岳から、剣ズリ、餓鬼岳へと続く山々が見えていたが、その背後の後立山(うしろたてやま)連峰に立山・剣、さらにこの表銀座コースと並行して長々と連なる裏銀座の山々の稜線には、雲がまとわりついていた。
 その山なみは、冬の季節風を止めて北海道の十勝平野に晴天の日をもたらす、あの日高山脈と同じ役目を果たしていて、だからこの燕岳周辺が晴れているのだろう。下の安曇野(あづみの)はもちろんのこと。

 小屋に戻って、一マス区切り4人の所にいっぱいの4人で寝ることになったのだが、それでも狭い布団一枚に一人だからまだいいが、混みあってきたら、そこに6人入りますからと小屋の人に言われた。
 結果、そのまま4人で良かったのだが、今の初冬の山の時期に開いている小屋が少ない中、この山小屋には連休だということもあってか、この日には何と80人近くもの人が泊まったのだ。
 私たちのマスの他の三人は、まだ30代位の若者たちだったが、それぞれの思いを抱いて一人で山に来ていて、思えば日ごろかかわる機会もない世界にいるそんな彼らと長い時間話して、なかなかに興味ぶかいものがあった。
 思えば、私は彼らと同じ年代の頃、東京を離れることを決意していたのだ。

 山小屋の良さは、そんなところにあるのかもしれない。今いる立場に関係なく、年代に関係なく、その知らない相手と話をして、何かを教えられ何かを伝えて、そのまま別れていくだけのことだが。
 東京にいた昔、街の銭湯に通っていたのだが、そこで出会ったおやじさんたちにどれだけ多くのことを教えられたことだろう。 
 裸の姿しか知らなかった人が、警察官だったり、有名店のコック(今ではシェフというらしいが)だったりと。
 数年前に『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』というベストセラーがあったが、意味合いは少し違うけれども、私の場合は『人生に必要な多くのことを街の銭湯で学んだ』ということになるのだろう。

 夕方、風の吹きつける寒い中、完全装備で外に出たが、夕焼けはあまり赤くならなった。しかし、槍・穂高連峰の山なみが、見事なシルエットになって夕暮れの闇の中に少しずつ溶け込んでいった。明日は晴れることだろう。

 私は、雪の尾根道をたどり大天井岳まで行くつもりだった。明日で休みは終わりだから、小屋に泊まっている人の殆んどは下りて行くらしかった。 明日、その雪の尾根道をただひとり歩いて行く・・・行く手には槍ヶ岳の雄姿が近づいてくる・・・。
 目を閉じていたが、いつものようになかなか眠りにつけなかった。
 
 尾根をたどって行くと、コブが一つ、先にまた一つ、また一つ・・・。一匹のヒツジではなく、白いふたこぶラクダだろうか・・・ああ眠れない。
 

 (この山旅は次回へと続く。)

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