ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

オニユリと『戦場にかける橋』

2012-08-26 17:20:58 | Weblog
 

 8月26日

 前回書いたように、北海道では珍しい、お盆過ぎての30度超えの暑い日が4日も続いた後、この4日ほどは、ようやく夏日から抜け出して25度以下の涼しい日に戻った。本来はこのくらいの温度なのに、今年はいつまでも暑かったと思ってしまう。それは、その年その年の自然現象や天候状態にはよく起こりうる誤差でしかないのに。

 その小さな誤差を、私たちは目前の大変化のごとくに、一喜一憂しながら受け取るのだ。去年と比べて、あるいは昔と比べてと・・・。(もっとも長いスパンの年代で比べれば、地球温暖化の傾向があるのだろうが。)
 ところが、私たち以上に、日々の天候の差を感じているだろう植物たちは、その差をものともせずに、1年という大きなくくりの中で、その四季の移ろいを敏感に感じながら生きているのだ。
 もうそろそろ芽を出すころだ。もう花を咲かせるころだ。もう葉を落とすころだと・・・。

 そうして、今年も家の道端にあるオニユリの花が開いたのだ。(写真)
 いつも決まって8月の下旬に、その大きくて鮮やかなな色合いの花を咲かせるオニユリ。私が球根を植えたわけではない。
 いつのころからか芽を出して、年ごとに大きくなり、今では私の背丈をはるかに超えて2m以上もの高さになり、ひとつの株から分かれて伸びた茎は10本もあり、それぞれに10から20ものつぼみをつけているのだ。
 4年前のこのブログの記事(’08.8.19)と比べてみても、年ごとに大きくなっているのが分かる。

 しかし今では、遠くから見れば、まるで大きな飾り提灯(ちょうちん)のようにも見えるこのオニユリのことが、逆に心配になってきた。
 ユリ科の花であり、球根があれば、宿根草のようにいつまでも花を咲かせてくれるのだろうが、しかしいったんその球根が衰え、病にかかってしまえば、消えてなくなるのも早いはずだ。
 たとえば数年前、庭の端の畑の片隅に、増えすぎたチューリップの球根を数十個ほど植え替えておいたのだが、それは一時的に増えた後、今では逆に元の半分ほどになってしまった。
 それは、花が咲いた後の球根を掘り上げて、小屋の中に貯蔵しておき、春に新たに植えなおすという作業をしなくなった、私の怠慢(たいまん)によるものでもあるのだが。
 ただ幸いにも、このオニユリはコオニユリと違って、茎にたくさんのムカゴがついているから、それを採って新たな場所に植えて発芽させ、育て上げていくように考えなければならない。 

 こうした植物や、花々の種の保存、種の継承ということを考えていると、つい我が身を振り返り思うこともある。しかし、それはたとえて言えば、見晴らしがいいだけの小石混じりの岩尾根に、ただひとり根づいた名もなき草のような生き方を、自ら好んで選んだ私なのだから、自業自得の結果でもあるのだ。
 後悔する言葉など、それは言わない約束でしょう、という声が聞こえてくる。

 子供のころ見るのが楽しみだった、あの日曜日の名物バラエティー番組『しゃぼん玉ホリデー』の中でのコントの一場面。
 ヴァイオリンが悲しく響き、貧しいあばら家でハナ肇(はじめ)扮する老いた父親が病床についていて、そこにザ・ピーナッツ扮する双子の娘が食事を運んでくる。

 「お父さん、おかゆができたわよ。」

 父親は不自由な手を揺らせながら、涙ながらに。
 「いつも、すまねーな。俺がこんな体になってしまって・・・。せめて、かあさんが生きていてくれたらなあ。」

 娘二人はやさしく言うのだ。
 「お父さん、それは言わない約束でしょう。」

 そこに、破れ障子(しょうじ)をがらりとあけて、小松政夫扮する悪役親分がやってきて、借金のかたに娘たちを引っ立てて行こうとする。
 そのドタバタの愁嘆場(しゅうたんば)に、何をカン違いしたのか植木等扮する一人の男が入ってきて、まあまあと両者の間に割って入り、その場を丸く収めようとする。
 がしかし、自分ひとりでしゃべりまくっているうちに、自分のカン違いだと気づいて、きょとんとしている人々の前で、頭を下げて言うのだ。

 「お呼びでない?お呼びでない。・・・こりゃまた、失礼しました。」

 その場にいた全員は、ハラヒリホレハレー・・・とか言いながら、皆ずっこけてしまうのだ。それで、終わり。

 今にして思えば、それは前回書いた『北の国から』とは別な意味で、日本人の心を映し出すようなシーンだったのだ。

 私は、このハナ肇率いるボードビリアン、クレージー・キャッツのコント・ギャグが大好きだった。
 今でも忘れられないのは、トイレに駆け込んできた男(植木等)が、ドアをノックして入ろうとするが、一つ二つと使用中で、三つ目四つ目もだめで・・・それを、なかなかの腕前のジャズ・ミュージシャンでもあったメンバーたちが、楽器で表現していくのだ。
 そして体をよじりこらえる、植木等の表情・・・まさに秀逸な自虐(じぎゃく)ネタの一場面だった。
 それは思えば、伝統ある西洋の道化師(どうけし)のパントマイムを思い起こさせるものでもあったのだ。

 しかし、その絶頂のクレージー・キャッツも、ひとり植木等だけが売れっ子となって溝ができ、さらに他のメンバーの離脱などもあって、ちぐはぐな状態になり、やがて、新興の同じボードビリアンの、ザ・ドリフターズの勢いに取って代わられることになったのだ。
 しかし、当時テレビのゴールデン帯の子供向け番組で、絶大な人気を誇ったこのドリフターズのコントに、私はあまりなじめなかった。
 それは一言でいえば、舞台装置の仕掛けで笑いを誘い、さらに悪いのは、ひとりの子をみんなでいじめて笑いを取ろうとするコントが多かったことである。
 さらに言えば、これは他のお笑い番組だったと思うが、『ナオコばあちゃんの縁側日記』とかいうコーナーで、毎回、その年を取って記憶があいまいになったおばあちゃんを、皆で馬鹿にするコント・シーンがあったことだ。

 私は、そのことが今日、深く陰湿に広がっている学校でのいじめ問題の、根底にある要因の一つであるかもしれないなどと言うつもりもないし、また年寄りをねらった振り込め詐欺の基には、年寄りを単なる都合の良い金づるとしか考えていない、若者たちがいるからであり、もちろん、それが単純に昔のお笑い番組による影響だなどとは言えるわけもない。
 そうなったのは家庭や親が悪い、学校が悪い、あるいは犯罪に手を染める若者が悪いというのは簡単だが、それでことが解決するわけでもない。
 ただこうした様々な映像画像文化に影響を受けて、表向きには見えない個人の深い心理の中ではぐくまれていく、現代人の道徳倫理観が、さらに今後ともまた様々に変化していくことだろう。

 私たちの時代は、強きをくじき弱きを助けるものこそが、男らしい英雄だった。そうした映画やテレビ番組を見て、本や雑誌を読んでいた。
 しかし、今の時代そうした態度をとれば、カッコつけてと物笑いのタネになるだけだ。何でもありの価値観多様化の時代、変わったことをする人こそがもてはやされる時代なのだ。
 それでも私は、前にもこのブログで書いた(’11.11.6の項参照)モンゴルの大草原に生きる子供たちの、あるいはブータンの小さな村に住む子供たちの、くったくのない笑顔にひかれるのだ。それはまた、少し前の時代の子供たちの笑顔であり、『北の国から』の純と蛍、『大草原の少女』のみゆきちゃんにもつながるものである。

 もう昔のことを言うのはやめよう、そんなことを考えるのは年寄りだけだ。世の中のむつかしい問題などは、それぞれの専門の方々に任せておけばいいことだ。
 私は、この荒れ果てた石ころだらけの高みの上で、しかし素晴らしい山脈(やまなみ)を見渡せる場所で、静かにひとりで生きていくことができればそれで十分なのだ。
 何を余分なことに悩み、余分な望みにとらわれることがあろうか。石の間に根を下ろし、自分ひとりだけで、雨風に打たれて、水の恵みを受け、また太陽の恵みを受けて、茎や葉を伸ばして生きていければそれだけでいい。
 私のすべてが枯れ果ててしまうその日その時まで、風が吹くのに任せて、呼吸のごとくに繰り返し・・・。

 オニユリの話から、今の自分のおぼつかない思いのままに、すっかり余分なことまで書きつづってしまった。それは、今の私の不安な心の反映なのだろう。つまり、最近、いつも真夜中にトイレに起きて、その前後に長い夢を二度見るようになってきたからだ。
 亡くなった母や、世話になったおじさん、もうずっと会っていない昔の友達、彼女たち、ミャオ・・・それぞれに若いころの顔かたちだが、後姿だったり、少し離れていたり・・・、亡くなった母がその前によく言っていた、毎晩、昔の人の夢を見るようになってと・・・。

 だめだ、夢の中の彼らの呼びかけに答えてはいけない。私には、まだやるべきことがいくつも残されている。そのすべてをとは言わないが、せめて半分くらいはぜひ実行したいと思う。
 誰に見てもらうつもりも、見せるつもりもない。ただ、自分で納得できることをやり遂げられれば、満足してやがてのその時も迎えられるだろう・・・。

 最近のニュースから一つ、イギリスで脳卒中に倒れて体の自由を奪われた人が、覚悟を決めて病院に尊厳死の処置を施すように求めたのだが、法律上のこともあって拒否されて、裁判に訴えたものの退けられて、そこで彼は食事をとることをやめ点滴を受けることも拒否して、死を選んだのだ。
 このことは、前にもふれた(3月31日の項)問題と全く同じであり、人間として生きることがテーマだった。

 病院のベットに縛り付けられて、チューブにつながれて苦痛の中で生きるよりも、人として生きるための死を選んだ、彼の生きるための勇気。
 私には、あのデイヴィッド・リーン監督の名作『戦場にかける橋』(1957年)の、誇りあるテーマ曲が、あの口笛のメロディーが聞こえてくるのだ。

 何という誇りあるイギリス男の生き方だろう。彼は、誰よりも強く生きることを望んだのだ。
 死ではない、誇りある生の道を歩いて行こうとしたのだ。

 あの口笛を吹きながら・・・聞こえてくる・・・ピィユ、ピィピィピィピィッピィッピィー・・・。