ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ライチョウと水平道

2012-08-05 19:07:52 | Weblog
 

 8月5日

 小雨が降っている。朝の外の気温は13度。この数日は、その前の30度前後もあった暑い日々から一転して、20度くらいまでしか上がらない肌寒い日が続いている。今日は、いつものフリースを着込んだだけではなく、ついに足に靴下もはいた。
 この寒さは、農業王国、十勝地方の農作物の生育には気がかりな点になるが、個人的にはありがたいことのほうが多い。暑さが苦手な私には、この寒いくらいの気温が一番体に合っているから、家の中にいても外にいても仕事がはかどるというものだ。といって大したことをしているわけではないのだが。

 この3日間で、ようやく全体の3分の1位の草刈を終えた。草刈り鎌と長い鎌を使い分けて、家に通じる道の両側を刈り払っでいく。
 いくら涼しいとはいえ、周りにはアブや蚊がいるから長袖、首巻タオルのスタイルで、10分ほど草刈りをしていれば汗が噴き出してくる。1時間半ほど、ひたすら鎌を動かした後で区切りをつけて休みにして、びしょ濡れになった衣類を脱いで外に干す。すっぽんぽんになると、さすがに汗が一気に乾くほどに肌寒い。

 家の中に入り、新しいパンツとTシャツに着かえて、オリンピックの映像を見ながら、スイカを食べる。
 全く、こたえられんのー。
 一仕事した満足感、汗を流した後の爽快感、口の中に入って行くスイカのおいしさ(それは決して、志村けんがスイカを食べる時の犬のような食べ方ではなく、一噛みごとに口の中に果汁があふれ喉がうるおうのを楽しみながら)、そしてテレビで日本選手の活躍を見て喜ぶ。
 まあ、それが人生というものだし、それだからこそ毎日はありがたいのだ。

 さて、午前中の仕事はそれだけにして(たったそれだけ)、次はパソコンの前に座り、登ってきた山々の写真を眺めては楽しむのだ。
 若い時の楽しみ方は、その瞬間に絶頂に達するような喜びにあふれ、あとはすぐに覚めてしまうのかもしれないが、年寄りの楽しみ方は、一つの喜びをねちねちともてあそび、心ゆくまで楽しむのだ。
 ローソク片手にムチを手に、なめまわすような目で、それが妄想だとしても、何という年寄りのいやらしさ、えげつなー。

 というふうに、私は前回からの南アルプスの山行記録を、まだまだ長々と書いていくつもりなのだ。日々少しずつ失われていく過去の思い出にしがみつくように、少しでも長くとどめておくようにと。

 さて私は、南アルプスは広河原から大樺沢雪渓を登り、足がつるという障害に見舞われながらも、なんとか北岳山荘にたどり着いたのだが、その翌日。
 未明、4時前から部屋の中では早立ちの人たちが動き始めていた。窓の外には星が輝いている。私も起きて、外に出た。目の前の薄明の空に、わずかなシルエットとなって北岳の姿が見えている。
 私は、昨夜考えた幾つかのルートの中から一番いいと思う道へと、つまり昨日登らなかった北岳に向かって歩き出した。

 最初の予定では、まだ晴れた日の景色を見ていない農鳥岳に登るつもりだった。しかし昨日、脚がつったことで、自分の脚力が心配になり、まずは脚の状態を試すべく昨日登れなかった北岳に登り、さらにあのトラバース道の晴れた日のお花畑を見て行くことにして、そこで、足がまだ痛みをひきずっているようなら、昨日のコースを戻って山を終えるしかないし、調子が良ければ、念願の塩見岳(3052m)に向かうべく熊ノ平の小屋まで行けばいいのだ。
 ここでは、そうした他の幾つかのコースを考えることができるのだ。山は計画通りに実行することが重要なのではなく、自分のその日の体力、天気等に合わせて、コースや行程を決めることの方が重要なのだ。
(後で触れるけれども、山小屋の完全予約制については、そうした側面から見ると問題となる点もあるのだが。)
 
 夜明け前の道は、まだ暗くてライトが必要だったが、険しい道でもなく頭にヘッド・ランプを取り付けるほどではなかった。次第に空が白み始めていき、その薄明の中から周囲に黒い山影が現れ始めた。
 静かに、あのブルックナーの交響曲の第一楽章の、トレモロ(弦楽器の小刻みな音の連続)の音が聞こえてきた。やがて岩稜の道の行く手に、山の端が赤く染め上げられていく。そこでは、山影で直接の日の出は見られなかったのだが、周りの山々が赤く染まり始めていたのだ。

 振り返る先に間ノ岳と農鳥岳、その左手に富士山、そして右手には仙丈ヶ岳に中央アルプスの山々・・・オーケストラが一斉に壮大な山の音を響かせている。
 教会の大伽藍(だいがらん)の中に響きあうパイプオルガンの音のように、山は夜明けを迎えたのだ。私は岩角に腰を下ろして、その山々の音を聞き姿を見つめていた。
 それらの山々の中でも、南東の広大に開けた中空の中に、ひとり富士山の姿だけが余りにも高く、一際鮮やかだった(写真上)。深田久弥が”偉大なる通俗”と呼んだあの富士山にも、いつか登らなければならないだろう。
 オーケストラの音の響きは次第におさまっていき、夜明けの赤い色はさわやかな朝色に変わっていった。周りには誰もいなくて、静かだった。

 立ち上がって、最後のガレ場から山稜に出て、北岳山頂へと歩いて行った。もうご来光の時間を終えていて、頂上(3192m)には二人しかいなかった。
 朝の澄んだ空気の中、展望は見事に開けていて、、この北岳の山体をぐるりとめぐる野呂川の谷を隔てた山々、鳳凰(ほうおう)三山(2840m)に甲斐駒ヶ岳(2967m)、仙丈ヶ岳(3033m)、そして農鳥岳(3026m)に間ノ岳(3189m)などの姿が素晴らしく、その後ろには目指す塩見岳が顔を出している。
 北側には遠く北アルプスに八ヶ岳、上信国境の山々に秩父なども見えている。

 脚の痛みは、筋肉痛があるものの、昨日のあのつるような痛みは出ていなかった。すぐに頂上を降りて、登って来た道を分岐まで戻り、昨日のトラバース道を再びたどって行く。
 朝日を浴びた花々は、生き生きとして見えた。もう一度、それぞれの花を撮り直したいとも思ったが、そんな時間はない。ただ目的の一つでもあった、お花畑を入れての間ノ岳の写真を撮ることができて(写真)、それは(芸術的な山岳写真からは程遠い)まさに絵葉書的なお絵かき写真の構図ではあったが、私はそれだけで幸せな気分になれた。

 

 小屋に戻り、置いていたザックを背にして今度は、間ノ岳へと向かう。もう殆んどの人がとっくに出た後だから、前後に離れてひとりずつ歩いているくらいで、静かな尾根道だった、中白根(3055m)の山頂では、もう間ノ岳を往復して戻る人たちがいてにぎやかだった。
 そこからゆるやかな稜線の登りが続き、後ろに北岳、前に間ノ岳山頂、そして左手に富士山の姿を眺めながら歩いて行った。
 
 所々に、ミヤマシオガマやハクサンイチゲなどの花が咲いていて、ふと左手の吹きさらしのザレ場の稜線を見ると、薄赤の小さな花の姿があった。
 形から見ると、北海道のキクバクワガタやヒメクワガタに似ているし、北アルプスでもよく見るミヤマクワガタにしても、クワガタの仲間はすべて薄紫色のはずだが。(この時に写真を撮って、後で調べてみると、何とこのミヤマクワガタは、南アルプスでは薄赤色をしているとのことだった。ちなみに、ミヤマクワガタという名前には、同名のクワガタ虫もある。)

 さらに稜線をたどった頂上直下の所では、三羽のヒナを連れたライチョウに出会った。人なれしていて、近づいてもすぐに逃げはしないけれども、ある程度の距離は必要なのだ、母鳥はヒナたちの動きに絶えず注意して、低く鳴いていた。(写真)

 

 間ノ岳山頂に着くと、南側の展望が大きく開けて、荒川三山(3141mの悪沢岳に荒川中岳、前岳)に塩見岳が見えている。
 しかしすぐ前にある農鳥岳の稜線には雲がかかり始めていた、もう朝のうちに北岳に登ってきたから、どのみちこれから農鳥岳に登るには遅すぎる。そこで間ノ岳から西農鳥岳との鞍部にある農鳥小屋方面に下りて行き、その手前から、右にこの間ノ岳のまき道になる水平道へと入って行った。
 
 最初は、岩くずのガレ場を下りそして登ると、後は上り下りの少ない、つまり快適な礫地(れきち)の水平道になっている。この道は、農鳥小屋と熊ノ平小屋とを結ぶ、間ノ岳のまき道なのだが、思ったほどに森林帯まで下るわけではなく、展望の開けた岩礫の山腹に沿って道が作られている。
 今回、ガスがかかり始めた農鳥岳に登らなかった代わりに、ぜひともこの道をたどりたいと思ったのだ。ずいぶん前から気になっていて、いつかは歩きたいと思っていたルートの一つに、今こうして歩いていることの幸せな気持ちを感じながら・・・。
 その2時間余りの行程の中で、向こうから来た単独行者に一人ずつ、二人に出会っただけで、同じ方向に人影はなく、実に静かな道だった。

 そのうえに谷川から風が吹き上げていて、木陰一つない斜面の割には、暑くはなかった。
 所々にチシマギキョウやタカネツメクサが咲いている道端に、何度も腰を下ろした。疲れたからではなく、ゆっくりと景色を眺めていたかったからだ。
 大井川東俣、最上流部三国沢右股の沢を隔ててせり上がる西農鳥岳(3051m)の迫力ある姿が素晴らしいし、右手には目指す塩見岳の姿も見えている。

 穏やかな気持ちで歩いていると、道端から一羽のライチョウが出てきた。先ほど出会ったメスではなく、単独の雄のライチョウだった。まるで道の先導をするように、私の前をいつまでも歩いて行く。
 もちろんライチョウからすれば、私から離れたくて先に歩いているのだろうが、その上飛ぶのはあまり得意ではないから、歩きやすいところを選んでつい道の所になってしまうのだ。50mほども一緒に歩いて、ようやくハイマツの下に潜り込んで行った。

 道がカール状の谷の形にそって大きく湾曲するあたりに、水が湧き出していた。手を入れると、切れるように冷たい。おそらくは雪渓の雪解け水の伏流水なのだろう。
 さらに行くと今度は、この沢の本流、つまり大井川源流である三国沢の左俣の流れの所に出た。
 南面に開けて左に西農鳥岳、右に遠く塩見岳が見えている(写真)。遠くでルリビタキとウグイスの声が聞こえている。後は沢の水の流れの音だけ・・・。

 

 そこでは、あのブルックナーの交響曲の続きの音が聞こえてきた。緩徐楽章の静かな音の流れ・・・。

 19世紀オーストリアの作曲家アントン・ブルックナー(1824~96)は、教会オルガニストとして、そして大学教授として実直な生活を送り、独身のままその生涯を終えた(’09.6.21の項参照)。
 彼の頭の中で鳴り響いていたのは、神の啓示でもあるオルガンの音と、同じく神の啓示でもある自然界の音だけだったのかもしれない。信じることの幸せ・・・。
 彼は0番と呼ばれるものも含めて、全部で10曲もの長大なる交響曲を作曲した。もちろんそれぞれに、はっきりとした違いのある交響曲なのだが、彼の交響曲を聞きなれていない人には、おそらくすべての10曲を区別することは難しいだろう。
 つまり極論すれば、その曲調からして、彼は一曲の交響曲を書いて、それぞれ新たに9曲の交響曲に編曲したと言えないこともないからだ。

 そんなブルックナーの音楽は別にして、もしできることなら、こんな所にテントを張って朝を迎えたいものだ。北海道の山のようにヒグマの影におびえることなく、安らかに・・・。

 さて、長い間そこで休んでいて、上空の雲も増えてきたので、後は小屋を目指して急ぐことにした。残雪のあるカール状のガレ場を渡り。ダケカンバの林のそばを抜けて少し登って行くと、再びハイマツ帯に入り、三国平に着いた。
 右手には間ノ岳から続いてきた尾根が三峰岳の岩峰となってそびえ立っている。あの岩峰からの分岐を北にたどれば仙塩尾根を経て仙丈ヶ岳へとつながっているのだ。

 ゆるやかなハイマツの尾根から、雪の重みで曲がったダケカンバの林に入り、下りきった所が崩壊地のある井川越えであり、その先の山腹の林の中に熊ノ平小屋はある。
 今日のコースタイム8時間の所をゆっくり歩いて休み、10時間かかっているが、そう疲れてはいないし、何より脚が昨日のように痛まなかったことがありがたかった。
 十数年前に来た時と同じように、小屋のそばには水が豊かに流れていて、濡れたタオルで汗ばんだ体をふいてさっぱりとした後、さらに明日に備えて、昨日と同じように再び脚の周りを濡れタオルで巻いて冷やすことにした。

 明日の行程は、塩見小屋までの7時間と考えていたのだが、同じ部屋に泊まった逆コースで来た人たちから、塩見小屋は完全予約制で予約しないと泊まれないと聞いたのだ。げっ!
 そこで泊まれなければ、その先の三伏峠小屋までさらに3時間も歩かなければならないのだ。体力が落ちているうえに脚を痛めた私には、余りにもつらい情報だった。もっとも明日小屋で聞くよりは、先に聞いていてよかったともいえるのだが。

 小屋の予約制については、ヨーロッパやアメリカの山小屋のように、それが当たり前に定着している所はともかく、日本の北アルプスや南アルプスのように、縦走トレッキングが主な登山スタイルである所では、緊急避難小屋の役割も兼ねていて、すべての山小屋が予約化されてホテル化されいくことには少なからずの違和感をおぼえてしまう。
 もちろん営業小屋を運営していく側からすれば、安定した客数で行き届いたサービスができるし、一枚の布団に三人などという宿泊者にとっても耐え難い大混雑などを避けることもできるのだ。
 
 つまりそれは、登山者のことを考えての処置かもしれないが、その日の天気の悪化や個々人の体調不良などに備えての大切な避難小屋、という意味合いはどうなるのかと考えてしまうのだ。
 また、予約をしたから、あるいはキャンセル料を取られるからと、無理をする場合が出てくるかもしれないし、それは、決められた日程通りに悪天候の中を行動した、あのトムラウシ山ツアー登山の遭難事件をあげるまでもないのだが。
 日程をきちんと守って行動することが大切なのか、その日の天気体力等にあわせて臨機応変に計画を変えることが必要なのか。

 そこで私なりの結論を出せば、それは答えにはならない不可能なことだと知ったうえで言いたいのだが、すべての山小屋を営業小屋ではなく、北海道や東北の山小屋のように避難小屋にして、管理人は置くとしても、食事寝具の提供をしない自炊小屋にするということだ。
 すべては登山者が、それぞれにザックに入れて運び上げてくるべきであり、それができない人は日帰りができる山だけにすることである。
 つまり、前回の北海道は大雪山の山旅(’12.7.2,9の項参照)や、一昨年の飯豊連峰縦走(’10.7.28~8.4の項参照)をあげるまでもないことだが。
 もっともそれは、何も本格的登山者だけのための選民意識からというわけではない。つまりそれが、本格的なクライマーやトレッカーとハイキング客を区別して、安易な登山や遭難を防ごうとする、欧米流の山登りに対する厳しい見方の一つにもなるからである。

 と、まあ言っては見たものの、すっかり体力が弱り、やっとのことで山を歩いている私は、営業小屋で二食付きの宿泊のお世話になってこそ、どうにか山旅を楽しむことができているのが現実だ。
 すみません、小屋の皆様方、前言をすべて取り消します。これからは事前によく調べて、予約することにしますから、どうぞ泊めてください。
 代官様、それを取られたら、もう私どもは生きていけません。後生ですからお助けください。
 その裏で、「越後屋、お前も悪よのう。いえいえ代官様あっての、この私ですから。ぐふふふふ・・・。」 とかいう会話などされていないから、念のため。

 ともかく明日は、念願の塩見岳だ。早立ちして、何としても10時間の山道を、三伏峠まで歩くしかないのだ。
 ああ、母さん、ミャオ様、どうかお助けください。

 (とここまで話を引っ張って、さらに次回へと続ける、年寄りのあくどさ。アインシュタインの舌、べろーん。)


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