ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

アツモリソウと烏帽子岳

2012-08-16 18:17:57 | Weblog
 

 8月16日

 猛暑続きの内地と比べて、この北海道の何と涼しいことか。今日は雨が降った後の曇り日ということもあって、最高気温がやっと20度を超えるくらいなのだ。
 昨日の朝の外の気温は12度、久しぶりに快晴の空が広がっていた。目の前に連なる日高山脈の、青いスカイラインがなつかしい気さえする。日中の気温も、太陽が照りつけているにもかかわらず、24度くらいまでしか上がらなかった。梢(こずえ)を揺らす風がさわやかに吹き渡っていった。
 小さな秋が、これで一つ二つ三つ・・・と、こうして夏が終わり、秋が近づいてくるのだ。

 あの心に残る南アルプスの山旅から、もう3週間もたってしまったのに、私は、その少しずつ色あせていく記憶を、その時の写真を見ながら思い起こしては、自分だけの絵巻物としてここに書きつづっている。あの時に、あの素晴らしい山々の頂にいたのだという、喜びを繰り返し思いながら・・・。

 前回からの続きは、これで四日目の話になる。南アルプスは広河原から入って、北岳、間ノ岳、塩見岳へと縦走してきた私は、三伏峠の小屋に泊まって、翌朝を迎えた。
 その日の行程は、登山口のバス停まで下りるだけの2時間ほどだから、時間は十分にある。まず、この二日食べていなかった、小屋での朝食をちゃんと食べることにした。
 早立ちしなければ、こうして温かいご飯に味噌汁をおいしくいただくことができるのだ。それぞれ、二杯ずつお代わりをして、がっつりと食べた。
 さらに、昨日の長丁場で心配していた脚の調子も、幾らかの筋肉痛はあるものの悪くはない。これなら、一登りして、南アルプスの山々をもう一度見ることができるだろう。幸いにも、今日も朝から晴れているし。

 日の出前に起きて、ご来光を見に行くという手もあったが、昨日、目的の塩見岳を心ゆくまで眺められたという満足感があって、もうそうしてまでもという、貪欲(どんよく)さはなくなっていたのだ。それでも時間がある限りは、歩きたい。

 競馬のために育てられた競走馬は、本能的に走るために生きているのであって、たとえ年を取ってレースから引退したとしても、落ち着き先の牧場で、変わることなく走り回っているはずだ。
 それは、海の魚のマグロたちも同じだ。彼らは、泳ぎ続けるべく作られた体で、一生休むことなく世界の海を周遊して回っている。そして、自分が泳げなくなった時が、彼らの終わりの時なのだ。その日までは、ただひたすらに泳ぐだけだ。
 私には、彼らと同じように、一生山を歩き回るべく定められた脚があるというわけではない。ただ、歩き着く先の何かを期待して、山に向かい歩きたくなるのだ。

 私は部屋の布団を片付けて、小屋を出た。峠から東に、さらに続く南アルプス主稜線の縦走路へと歩いて行く。
 十数年前、私はこの縦走路をたどって、次の烏帽子岳(2726m)から小河内岳(2801m)、そして荒川三山(3141m他)から赤石岳(3120m)、さらに兎岳(2818m)を経て聖岳(ひじりだけ、3013m)に登り、伊那谷側の易老渡(いろうと)へと下りたのだった。
 その三日間は素晴らしい晴天続きであり、念願の荒川三山、赤石、聖の巨峰群をそれぞれに目の前に眺めることができて、山登りの感激に浸ったものだった。
 その中でも、荒川三山側から、そして反対側の聖岳から眺めた赤石岳、そこに鎮座する巨大な山の姿こそ、まさに赤石山脈の盟主(めいしゅ)たるにふさわしかった。

 そんな青空の下での完璧な思い出があるから、何もまた鳥帽子岳からの眺めを繰り返すこともなかったのだが、初日での脚の痛みもいつしか忘れて、むしろ日ごとに快調になっていく自分の脚力に自信を持って、私は競馬の馬のごとくに、あるいはマグロのごとくに、その苦しさ以上に歩く楽しさを覚えて、こうして次の山を目指すことにしたのだ。

 峠から樹林帯の中を下って行くと、すぐに明るく開けた所に出た。逆光のシルエットになって塩見岳が見えている。
 周りに広がるのは、有名な三伏峠のお花畑である。ただし、まだ夜が明けたばかりで、山影の中にあり、多くの花々は花びらを閉じていた。それよりも驚いたのは、両側に続く背たけほどもある金網である。
 こんな所までもと思わずにはいられなかったが、それほどまでに害獣による植物類への食害が広がっているということだろう。
 こうした高山植物を食い荒らすのは、北海道でも問題になっているシカだけではなく、この南北アルプスなどでは、頂上付近にまで上がってくるサルの群れがいるのだ。
 昨日も塩見岳の頂上付近で、崖に咲く草花を食べている数匹のサルを見たし、北アルプスでは、行くたびにいつも一度はサルの群れに出会うほどである。

 それは、登山者が登山道を離れて草花の中に足を踏み入れた程度ではすまないほどの、深刻な事態を引き起こしているのだ。何しろ、せっかく花を咲かせた貴重な高山植物をむしり取ってしまうのだから。
 こうしたサルやシカの食害を防ぐ手立てはあるのだろうか。前にも書いたように、北海道の我が家の近くでも、シカやヒグマの食害に悩む農家の対策として、電気牧柵などが導入されている。
 同じように、このなだらかな山裾にある三伏峠のお花畑なら、こうして金網で囲ってサルやシカの侵入を防ぐこともできるだろうが、険しい山頂や稜線付近では、それもできない。
 あの塩見岳の東側の肩では、植生保持のためにネットで一面が覆いかぶされていたし、さらに北岳山荘付近でも道の両側に低いネットが張られていた。

 登山者が増えすぎたことによる、いわゆるオーバーユースの問題で、登山道付近のそれ以上の土壌流失を防ぎ、併せて周囲の植生回復のためにと、地面にネットが敷かれている例は、北アルプスの太郎兵衛平や丹沢の塔ノ岳や鳥取の大山などでの取り組みがよく知られている。 
 しかし、そうした工事によってすべての所が回復しているわけでもない。その間にも地球温暖化などと相まって、日本各地の山々で、こうした高山植物の植生地が荒らされ、いつしか裸地になり、やがては土壌流失して崩壊斜面になっていくのだ。
 私はそうした問題について詳しいわけでもないから、サルやシカが悪い、登山者が悪い、さらにはこんな地球環境にした人間自体が悪いなどと、単純に決めつけることもできずに、それを防ぐ方法も考えつかないから、ただの傍観者として哀しい思いで眺めているだけなのだが・・・。

 実は今回の、南アルプス縦走の山旅の中で、もちろん塩見岳を見るということが第一の目的であったのだが、他にも心ひそかに抱いている思いがあったのだ。それはもう一度、あのアツモリソウに出会いたいということであった。
 前にも書いたように、私は十数年前に同じコースを歩いたことがあり、その時は、吹きつける雲やガスの中で、殆んど山々の眺めを得ることができなかった。しかしその中で、山々の眺めにも劣らぬものを見つけて、飛び上がらんばかりに喜んだのだ。
 その時の思い出は、晴れ渡った日の山の頂上と同じくらいに、鮮やかな思い出となって、今も私の心に残っている。

 辺りが何も見えないガスの中、私は休もうと思って、登山道から離れた草むらのそばの石の上に腰を下ろした。そして辺りを見回した時に、ぼーっと霧でかすんだ緑の草ぐさの中に、何か場違いな鮮やかな色合いの一群を見たのだ。
 それは、数株にまとまった、アツモリソウ(ホテイアツモリソウ)の花だった。(写真)

 

 私は、それまでに、礼文島でレブンアツモリソウの薄黄色の花は見たことがあったが、その希少価値はともかく、それ以上に鮮やかな赤紫色の花を咲かせる、野生種のアツモリソウを見たのは初めてだった。それも、事前の期待もなく、偶然にも腰を下ろしたこんな所で・・・。
 思えばそれは、それまで誰に会うこともなく霧の山道をひとり黙々と歩き続けてきた私への、自然なる神の小さな思し召しの一つだったのかもしれない。
 あの鮮烈な出会いの時を思うと、私の胸は高まり、切ないほどの思いが込み上げてくるのだ。

 このアツモリソウとの出会いとは関係ないのだが、こうした時に思うのはあのデイヴィッド・リーン監督の1945年の名作『逢びき』の画面の背後に流れていた名曲、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の、有名な旋律である。
 互いの気持ちを抑えつつも燃え上っていく思い・・・。それは、私の若き日の幾つかの恋の始まりの時を思い起こさせた。しかし、その時の私は、霧がつつむ山の中にただひとり、花を見つめていただけなのだが・・・。

 そして今回、私は晴れた山道をたどりながら、まるで昔の恋人に会うかのように胸の高まりを覚えつつ、いそいそとその場所に近づいて行ったのだ。
 果たしてその場所には・・・しかし、そこにはただ一面に緑の草が茂っているだけだった。
 時間をかけて辺りを探したいとも思ったが、今日は時間に追われての長丁場の行程なのだ。私は、いさぎよくあきらめた。初恋の思い出が鮮烈であるほど、それはただ良き思い出として、私の胸の中にひそかにしまっておけばいいことなのだと・・・。
 塩見岳の素晴らしい姿を見て、さらに色鮮やかなアツモリソウにまた出会うなんて、余りにも虫が良すぎる。物事はいつも、幸運不運、五分五分なのだ。

 そして後日、山旅から戻って調べてみたところ、やはり動物たちの食害によって今は全滅状態とのことだったが、ただ気になるのはあのラン科の花や葉や球根を、彼らが食べるのだろうかと・・・。

 さて、三伏峠のお花畑の保護の問題から、いろいろと考えてしまった。先を急ごう。
 お花畑の上の展望台から、尾根道をたどりダケカンバの林の中に入る。上から降りてくる人たちがいた。恐らくご来光を見に頂上まで行ってきたのだろう。さらに上の所では、テント装備らしい大きなザックの人が道の傍で休んでいた。
 小さなコブに登ると、前方になだらかな山頂部とその手前の、おそらく山名の由来になっただろう烏帽子(えぼし)の形をした岩峰が見えていた。
 朝の涼しい空気の中での登りは、心地よくさえあった。その岩峰の崖状部分を左に巻いて、ハイマツの尾根に出ると展望が開けて、もうすぐそこが烏帽子岳の山頂だった。小屋からは45分ほどだった。誰もいなかった。
 あのブルックナーの『ロマンティック』の冒頭の、ホルンの音がまたもかすかに聞こえてきた。

 十数年前に、南の聖岳までの縦走を続けた時にも、同じ三伏峠の小屋に泊まり朝一番でこの烏帽子岳に登ったのだ。その時も、今日と同じように見事に晴れ渡っていた。そして同じように誰もいなかった。その時の思い出が、今日のことのように重なっている。
 北側正面には大きなシルエットになって、塩見岳があり、その左手に重なるように農鳥岳、そして間ノ岳、北岳と続き、甲斐駒と仙丈も見えている(写真上)。さらに遠くに北アルプスが続き、西側には中央アルプスの峰々が並んでいる。

 一転して南を見れば、逆光のシルエットとなって富士山が大きく、そしてこの尾根が続く先に小河内岳があり、その上に荒川三山が並び、わずかに赤石と聖が顔をのぞかせている。(写真下)

 

 前に見た時と全く同じ光景だとはいえ、さわやかな朝の空気の中、こうして山々の姿を眺めているのは気持ちがいいものだ。
 やがて登ってきたテント装備の同年輩の人と、少し話をして、彼は荒川岳まで行くのだと言っていたが、頂上を後にした。しかし、この晴れ渡った空に名残り惜しい気もして、途中で何度も立ち止まり、あたりの山々を見回しながら下りて行った。

 三伏峠のお花畑に戻ってくると、日の当たる斜面のシナノキンバイなどの花々が開いていてきれいだった。あのテント場にテントを張っていたらしい、男女の中学生たち、数十人が登ってきた。
 にぎやかな笑い声の彼らが通り過ぎるのを待って、峠までゆるやかに登り返し、そして小屋の前からは、鳥倉登山口に向かって下りて行くだけだった。

 小屋から塩見岳に向かう登山者たちも、あるいは私と同じように鳥倉に下りる人たちも、もうとっくに出発しており、森林帯の急な斜面にジグザグに作られた道では、時々登ってくる人たちにも出会ったが、静かだった。
 所々で、シラビソやダケカンバの樹林帯の木々が切れて、塩見岳や仙丈ヶ岳の姿が見えた。
 その展望地点を過ぎると、後はひたすら樹林帯の中の道を下って行くだけだった。途中で、冷たい水が出ている水場があった。所々で休んでいる人たちもいた。道はおおむね日陰になっていて、暑くはなかったのだが、それでも汗は流れるし、下るにつれて蒸し暑い空気も漂っていた。
 そして鳥倉林道登山口の広場に着いた。許可車両が数台停まっていて、その車の陰で、なるべく人様に見えないように、すっぽんぽんの姿になり、ぬれタオルで体中の汗を拭きとり、さっぱりした体で、ポロシャツとズボンに着かえた。

 やがて、日に2往復だけの、小型のバスがエンジン音を響かせて上がってきた。これから登ろうとする人々が十人余り下りた後、今度は下山する私たち数人が乗り込んだ。
 南アルプスの深い谷の山腹につけられた道を、バスはゆっくりと下りて行った。林道ゲートの駐車場とその先にまで、40台余りものクルマが停まっていた。それは最初の日の、夜叉神(やしゃじん)峠ゲート前と同じ光景だった。
 バスなどの交通の便があまりない、北海道の山はともかくとして、内地の山々でも、やはり今は自分の都合を考えて、クルマで行くのが主流になっているのだ。

 終点の高速道インターまで行くバスを、ひとつ前の伊那大島の駅で降りた。周りに店一つなかった。気温は33度くらいあり、すぐに汗が噴き出してきた。
 その駅舎で1時間近く待って、飯田線の電車に乗り、岡谷で乗り換えて出発点の甲府に戻り、そこで泊まって、翌日東京に出て飛行機に乗って北海道に戻った。

 降り立った帯広空港の温度は、33度だった。あの伊那大島での気温と同じだ。しかし、クルマを走らせる窓から入ってくる風は、内地のべとついた空気ではなく、暑いけれどもどこか違うさわやかな北の空気が感じられた。
 黄金色に色づいた小麦畑と、緑色の豆やビート畑、そして薄緑の穂が揺れるトウモロコシ畑が、彼方にまで広がっていた。私はやっと、この北海道に帰ってきたのだ。
 南アルプスの山旅の思い出を、後ろのトランクに入れてあるザックの中いっぱいに詰めて・・・。


 (以上4回にも分けて、この夏の南アルプスの山の思い出を書きつづってきたが、こうして思い出しながら書いていくことによって、あの時の喜びが再びよみがえり、それはより強い印象となって、私の記憶に残ることだろう。
 今年は、私にとって、オリンピックの年というよりも、南アルプスの年だったというべきなのかもしれない。
 ありがとう南アルプスの山々、ありがとうかあさん、ありがとうミャオ。)