ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

イワウメと白雲岳

2012-07-09 18:27:48 | Weblog
 

 7月9日

 前回からの続きである。といっても山に行った時からすでに2週間近くたっているから、その時の新鮮な感じのままというよりは、思い返しながら書いていくことになる。
 すべての出来事は、時の流れとともに、少しずつ断片化されていき、さらに無意識の中で取捨選択され、いくつかのものだけが思い出として残るのだろう。  
 あの時の眼前の風景と、それを見て感じた思いが連続して形作る出来事が、確かに事実としてあったのに、過ぎ去って行く月日や歳月は、その時の思いの映像フィルムの流れをズタズタに切って、わずかなコマ数の思い出だけしか残してはくれないのだ。
 
 亡くなった母への思い出、ミャオへの思い出、若き日の彼女たちへの思い出、今まで登ってきた山々への思い出・・・数多くの断片化されたそれらの思い出には、実はその背後にさらにおびただしい数にのぼる情景が、無意識下のうちにひそんでいるものなのだ。
 その一つは、日常の何でもない一瞬に、思いが途切れたその時に、全く関係ない情景が目の前に浮かびあがってきたりする。それは、外国の町の細い路地道だったり、東京の雑踏の一角だったり、沢登りの流れの中の岩の上だったり、岸から遠く離れた海の中に浮かんでいたり・・・。
 
 つまり、その出来事自体が、すでに偶然的なもののつながりであり、ある人はそれを運命的なものとか宿命的なものとして意識するのかもしれないが、さらに時がたてば、その出来事さえも色あせたレッテルを貼られた思い出の一つになっているだけなのだ。
 そう考えてくると、思い出は、時の残滓(ざんし)にすぎないのだけれども、しかし、それが幸せなひと時の思い出であったとしたら、寂しい人々は、その思い出を繰り返し咀嚼(そしゃく)しながらその時の情景を思い浮かべることだろう。自分が生き生きとしていたあのころを・・・。

 そして、その思い出をよみがえらせる確かな手段として、一枚の写真ほど有効なものはないだろう。(それは一枚の絵画、一編の映像にも言えることだが。)
 2週間ほど前の私の山旅も、今は思い出として思い返すものになってしまったが、語るべきことは前回と今回の合わせて6枚の写真だけで、もう十分なのかもしれない。青空と残雪と花々と・・・。


 さて、前回からの続きだが、私は山では、それが山小屋であろうが、ひとりっきりのテントの中であろうが、ぐっすりと眠れたためしがないのだ。私は、大きな図体をして怖ろしげな顔つきなのに、こと外で寝ることに関しては、耳がダンボ状態になり周りの音が気になって眠れないのだ。情けない。
 その夜もそうだった。久しぶりの登山なのに自分の脚力の限界まで歩き(といっても8時間位のものだったが)、その無理がたたって足がつり、痛みをこらえて眠るどころではなかったのだ。そうこうしているうちに、仕事熱心なテレビ・クルーの連中は、夜中にさらに未明にも小屋を出入りしていた。

 私は結局、2,3時間は眠っただろうが、それで十分だった。夜明け少し前に起きて、外に出た。快晴の空が広がっているが、昨日の下界での暑さ(旭川29度)のためだろうか、少し空気がよどんだ感じだった。
 気温は7度くらい。上にウインド・ブレーカーを着て手袋をして、昨日の大雪渓斜面の所まで行って、そこでちょうど4時ごろの日の出を待つことにした。
 雪面は所々固く凍っていて、その広い雪渓から吹き下ろしてくる冷気に、足踏みするほどだった。
 そして、見つめる先のトムラウシ方面の残雪の山々は、残念ながら期待したほどの朝日の赤い光にはならず、ほんのりと薄赤くなっただけだった。

 小屋に戻って朝食を作って食べ、荷物をまとめてザックを背に小屋を出た。すっかり日が高くなり、キバナシャクナゲとエゾコザクラがまばらに咲いている斜面の彼方に、いつものトムラウシ山が見えていた(写真上)。
 山では、晴れた日の朝ほど、心浮き立ち嬉しいことはない。昨日つった脚の痛みも、大したことはなく、すがすがしい朝の大気を吸いながら、斜面を登って行く。この辺りの雪渓が溶けると、いくつもの小さなお花畑ができるのだが、今はまだ雪の下だった。

 分岐点のコル(鞍部)にザックを置いて白雲岳(2230m)に向かう。誰もいない道を、それも全天の青空の下、ひとりで歩いて行くのは気持ちがいい。火口原の平坦地から、大きな岩塊斜面を斜め上に登って行く。
 ただいつものルートがすぐ上の残雪に被われていて、回り込んで登ると、最後は急な岩塊斜面になってしまい、息を切らして頂上に着いた。
 いつものことながら、旭岳(2290m)から間宮岳(2185m)、北海岳(2149m)に至る支尾根の残雪の縞模様が見事である(写真)。

 

 大雪山の中で、もっとも展望が素晴らしい山頂はといえば、やはりこの旭岳の姿を望む白雲岳の山頂だろう。他に旭岳を見るには当麻岳(2076m)から安足間岳(あんたろまだけ、2194m)などもいいし、さらにこの表大雪の山々とトムラウシの中間にある化雲岳(1954m)の岩塔の上からも絶景である。さらに雪に被われた晩秋から冬にかけては、あの旭岳のすぐ傍にある後旭岳(2216m)の頂からの眺めも忘れがたい。

 しばらくすると、小屋で一緒だった二人も登ってきた。退職後、北海道に移り住んできたという人と、子育てが終わりこれからはもっと山に登りたいという人で、そんな山好きな中高年3人で、周りの山々の話で盛り上がった。
 山頂は風もなく、素晴らしい快晴の空の下、ただ少しだけかすんでいて、芦別岳や日高山脈、阿寒の山々は目を凝らしてやっと分かる程度だったが、目の前にはいつも変わらずに、残雪縞模様の旭岳の姿があった。
 何と1時間半余りも頂上に居て、一足先に、今度は雪稜(せつりょう)を伝って下に降りた。
 振り返り、まだ頂上にいる二人の人影を見ながら、私は思った。できれば、ひとりっきりの方が良かったのだけれども、こうしてそれぞれ一人で来た山好きな人たちと話しながら頂上にいた時間も悪くはなかったのだと、それぞれの山へのスタンスがあり生き方があるのだから。

 分岐点に戻り、ザックを背に小泉岳へとゆるやかに登り返す。上からは、銀泉台や高原温泉を早立ちした人たちがやってくる。これでもう三日も続く快晴の日だもの、みんな天気のいい日に山に登りたいのだ。
 時間に余裕がある私は、途中で何度も立ち止まり写真を撮りながら下りて行った。途中の雪渓では、得意の尻セードで一気に滑り降りる。ヒャッホー。
 そして奥の平の登山道を歩いていた時、行きに見逃していた花を見つけた。それは岩のすき間に咲いたイワウメである(写真下)。

 それは、昨日も今日も、高根ヶ原や白雲岳への道の途中で一番良く見かけてきた花でもある。しかしそのほとんどは、稜線の砂礫地帯に多く、あの白雲岳分岐付近の周氷河地形の構造土には、見事な縞模様となって一株ごとに並んでいるのを見ることができる。
 それなのに、風衝(ふうしょう)地でもないこんな所の岩のすき間に一株だけで咲いているなんて。このイワウメは一見カーペット状のコケのようにも見えるが、びっしりと生えた葉の下には幹から伸びた枝がある。花は1,2cmほどで梅の花に似ているから名づけられたのだろう。
 昔からよく親しまれている梅の花にちなんで名づけられたものは、他にもいろいろあって、例えば水の中で咲くバイカモ(梅花藻)とか、ツルウメモドキとかをすぐに思いつく。
 ところで、このイワウメには桃色がかった花もあって、遠目には本来薄桃色のミネズオウと見間違えてしまうほどだ。

 さらに昨日スキーをしていた下の雪渓でも、尻セードで一気に滑り降り、コマクサ平ではわずか一日で、コマクサの花が大分開いていた。同じ道を往復しても、見どころは幾つもある。その度ごとに立ち止まってはカメラのシャッターを押した。

 デジカメのありがたいところは、私みたいな下手の横好きアマチュア・カメラマンが、芸術写真的な意図など一切考えずに、むやみやたらにシャッターを押して写真を撮り続けられることである。高いフィルム時代にはそうはいかなかった。
 今や8GのSDカードが1000円以下の値段で買えて、それでRAW画像でも約268枚、フルサイズのコンパクト・フラッシュでは少し値段は高くなるがそれでも200枚以上は撮れるし、画像を消してしまえば繰り返し使える。フィルム時代には考えられなかったことだ。
 まったく、カメラ、写真愛好家にとってはいい時代になってきたものだ。
 私は、死ぬまで山の写真を撮り続けたい。他にもきれいなものを撮りたいという思いはあるのだが、しょせん私には夢の写真。私には、高嶺の花ではない、こうした高山植物の花を撮っているのが似合っているのだ。年をとってからは、分相応に生きていることを楽しむこと、それでいいのだ。
 
 しかし若い時には、あえて冒険をして、限界を超える努力をしなければ、望むところへは行けない。それが低い可能性であっても、そのレートを上げることができるのは、99%の自分の意志の力と1%の幸運だけだ。
 そして結果、目指す所へたどり着けなかったとしても、そのために全力を出し切ったという矜持(きょうじ)だけは残るのだ。確かに私はそうして生きてきたのだという思いこそが、その心意気こそが・・・。

 「私の生涯は、時に争いもしたが、しり込みはしなかった。負けるのを承知でも、私は闘うのだ。・・・そして今、私は神の国に向かうだろう。すべてのものが奪われていく。しかし、私はただ一つ持っていくものがある。・・・それは、私の心意気だ。」

 シラノは策略のために深手を負い、報われることなく生涯愛し続けた従妹(いとこ)のロクサーヌの胸に抱かれて、今はの際(きわ)の言葉を伝えるのだ。
 余りにも不細工に大きな鼻のために、自分の好意を告げることもできずに、あふれる思いを感興豊かな詩として綴(つづ)っては、一転して我が身を戦場に投げ入れて戦ったあのシラノ・ド・ベルジュラック。彼は実在した(1619~1655)人物であり、当時のルイ王朝時代の剣の名手であり、詩人でもあり、哲学者でもあり物理学者でもあった。
 ただし、巨大な鼻とロクサーヌとの恋物語は、1899年に発表されたエドモン・ロスタンの五幕ものの戯曲(岩波文庫、光文社文庫)として、作られたものとのことである。
 その見た目にも奇妙な鼻の意味するところは、実は人間誰にしもある、自分の欠点、弱点を象徴化したものだろうが。
 他人ごとではないのだ。私は1カ月ほど前にNHK・BSで放映されたその映画を録画して見たのだ。

 『シラノ・ド・ベルジュラック』1990年、フランス映画。制作ルネ・クレマン(『禁じられた遊び』’52、『太陽がいっぱい』’60など)、監督ジャン・ポール・ラブノー(『プロバンスの恋』’95など)、主演のシラノにあのジェラール・ドパルデュー(『隣の女』『終電車』’81など多数)とロクサーヌ役にアンヌ・ブロシェ、『めぐり逢う朝』’91)。
 映画としては、時代衣装・背景が見事であり、とにかくドバルデューの独壇場(どくだんじょう)の熱演で見せてくれるが、ロクサーヌと恋人クリスチャン役がいまひとつであり、テンポの軽快さは今の若者が見るにはいいのだろうが、時代の重厚さは失われるのだ。しかし随所にちりばめられた、シラノの見事な詩の言葉、セリフに酔うべき映画だろう。

 話がすっかりそれてしまった。
 元に戻して、私は、写真を撮りながら、あの第一花苑(かえん)の雪渓のトラヴァース道を下りてきて、前回の写真と同じ、ニセイカ連峰を望む地点に戻ってきた。

 昨日の朝と同じように、青空が広がり、残雪の山なみが続き、新緑の木々が映えていた。
 恐らくこれからも、同じ道をたどって大雪の山々に登り続けることだろう。私の、小さな心意気として・・・。

 (参考:「ウィキペディア」他)