ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ウメとヴィヴァルディ

2012-07-15 20:47:26 | Weblog
 

 7月15日
 
 一週間前に、私はこの九州の家に帰ってきた。誰も迎えてはくれなかった。母もいないし、ミャオの鳴き声も聞こえなかった。
 もう二人ともいないのだ。母の部屋に母はいなくて、ベランダにもミャオはいないのだ。

 そして、わがままに生きてきた私だけが、今こうしてひとり家にいるのだ。二人の思い出のあとが余りにも多すぎる。
 そんな耐えがたい気持ちで、私は春に九州を離れて北海道に行ったのだ。しかし、今回幾つかの用事があって戻ってきてみると、そのつらい思いは幾分やわらいではきていたが、折に触れて自責の念とともに、今もよみがえってくるのだ・・・。
 ごめんね母さん、ごめんねミャオ。

 そんな思いのまま、用事をすませ家の仕事をすませて数日が過ぎた。そこで、大雨になったのだ。
 すさまじいほどの雨の降り方だった。テレビ・ニュースでは、九州中部から北部にかけて甚大(じんだい)な被害が出たと報じていた。
 ただ我が家は、その同じ山の中にあるとはいえ、なだらかな山裾の所にあって川からは離れているし、今回も幸いながら何の被害もなかったのだが。それにしても確かに、この三日間の雨の降り方は異常だった。

 ただ私は、それまでに草刈りや植木の剪定(せんてい)などの外での仕事を終わらせていたから、雨が降っていた時は一歩も外に出ずに、家の中での仕事をしていた。その一つは、ウメ・ジャム作りである。
 それは、今回この家に戻ってくる楽しみの一つでもあった。しかし残念ながら、ウメの実は、去年のあのおびただしい数の収穫から比べれば、今年は大変な不作であり、枝になっている実を見つけるにも苦労したくらいだ。
 それも考えてみれば当然のことであり、何も私の立ちションなどの肥料が少なかったというわけではなく、果実などの木によくある裏作(うらさく)の年だっただけのことなのだ。
 上の写真にあるように(傍には雨上がりのカタツムリが一匹)、今年は小さなザルかごに一杯だけの量しかなく、それに比べれば去年は大ザルに3回分ものジャムを作ったし(’11.7.7,12の項)、それでも捨てた量は、その倍くらいもあったのだから、まさに道の駅で売りに出しても良いほどだった。
 
 しかし、ありがたいことに今年のウメの実は大きさも去年と変わらず、アンズの色のような熟れ具合もちょうどいいころあいだった。
 まず、大きな鍋に水を入れ梅をそのまま煮る。そのやわらくなったウメを裏ごしして、それを今度はホーロー鍋に入れて、砂糖をたっぷり入れて煮る。できれば、甘さを抑えたいところだが、甘く煮詰めれば防腐効果にもなるのだ。
 そしてアクを取った後、煮沸(しゃふつ)消毒したビンに入れて固くふたを閉じれば、数年以上は持つだろう。

 ところでそれから、先ほど裏ごしして残ったタネの周りについた実と皮の部分は、捨てるには惜しい。だいたい果物類は、皮のすぐ下の辺りが栄養部分が豊富でおいしいのだ。
 そこでまだ熱さの残る、そのタネを一つずつ皮も一緒に手につかんで握り、ここで私の大きな鬼の手が役に立つ、にゅるりとタネだけを出して、残りの実と皮の部分を再びホーロー鍋に入れて、同じように砂糖で煮詰める。
 先ほどのオレンジ色のきれいなジャムとは別の、皮などでまだら色になった少しあやしげなジャムができる。しかし、こちらの方が、いかにも素材そのままのジャムという感じがするのだ。あわせて四つのビンに。
 どうだ、ワイルドだろう。鬼ちゃん製のジャムだぜー。

 それまでの、北海道での秋のコケモモやコクワのジャム作りを最近はしなくなって、代わりに我が工房では、去年から始めたこのウメ・ジャムにシフトしてしまったのだ。
 理由は二つ。一つには、秋の素材は、その場所にまで採りに行く手間がかかるのに、この梅の実は我が家の庭にあるのだ。そしてもう一つは、このウメ・ジャム自体が気に入ったからだ。
 最初は、クセがあるので使い道が分からず、お湯で薄めてホット・ウメジュース位にするしかないと思っていたのだが、朝食がパンの私は、余りあいそうもないそのジャムをつけて食べているうちに、すっかりその甘酸っぱい味に慣れてしまったのだ。
 
 そして、もともと母がいた時に通販で取り寄せていた南高梅のパンフレットには、風邪への抵抗力がつくとか書いてあったのだが、その通りにこのウメ・ジャムを一年を通して食べているせいか、私はまったく風邪をひかなくなったのだ。
 もっとも、それはもともとひどい風邪をひいたことのない、私の体質から来るものかもしれないのだが。それは俗に言う”バカと何とかは風邪をひかない”という言葉の通りでもあるのだが。
 都会に住んで、テレビに出てうそぶいているよりは、私の方がよほどワイルドな生活なのだ。

 ここまでずっと、私は音楽CDを聞きながらこの文章を書いている。それは、今回帰ってくる途中で、大きな町に立ち寄って買ってきた、例の廉価盤(れんかばん)CDである。

 「ヴィヴァルディ全集 10枚組 メンブラン・レーベル 1,775円」

 この箱物は、一年前くらい前から見かけてはいたのだが、何だヴィヴァルディかと思い余り買う気にもならなかったのだが、今回このセットものの裏の演奏者たちや録音年月を見て、聴いてみる気になったのだ。
 ビオンディにアレッサンドリーニ、コンチェルト・イタリアーノにイ・フィラルモニチなどだが、初めて見る名前も多い。しかし、録音が90年代から00年代にかけての、比較的新しいものばかりだし、ということは、現在ではもう当たり前になっている古楽器演奏によるものだろう。
 
 私たちの世代は、今とは違って現代楽器による演奏でバロック音楽を知ったのだ。イ・ムジチ合奏団、パイヤール室内O、アカデミー室内O、イ・ソリスティ・ヴェネティそれに半古楽のコレギウム・アウレウムなどである。
 しかしやがて、アーノンクール、ホグウッド、ピノック、レオンハルト、クィケン、ブリュッヘンなどの優れた古楽器指揮者たちが台頭してきて、その古い時代にふさわしい古楽器つまりピリオド楽器演奏の波は、この20年ほどでまたたく間に現代楽器によるバロック音楽演奏を駆逐(くちく)してしまったのだ。
 私たちは、今やその古楽器の音に、その半音低いピッチを守った演奏法にすっかり慣れてしまった。つまり昔よく聴いたヴィヴァルディを、今さら現代楽器演奏のレコードで聴きたいとは思わなくなったのだ。
 
 そしてこの10枚組の一枚200円にもならないセットもの(別の通販店では1,180円だとか!)だが、聴いてみて十分に満足できるものばかりだったのだ。このメンブラン・レーベルのプロデューサーはエライ。盤権が切れて安く買える良い演奏を選んで、このセットものを作ったのだ。
 他にも、同じメンブランの10枚セットものは、グレゴリオ聖歌集やシュナーベルのベートーヴェン・ピアノ・ソナタ全集など数点持っている。
 世の中には、二通りの人間がいる。安くて良いものを買って喜ぶ人間と、高いものを買って喜ぶ人間だ。
 
 さてイタリアのバロック時代の作曲家、ヴィヴァルディ(1678~1741)は、俗名”赤毛の司祭”と呼ばれ、ヴェネツィア(ヴェニス)のピエタ養育院(救貧院)付属女子音楽院の院長として、生徒である彼女たちに音楽を教え、さらに上流社会のサロンなどで演奏させては、自分たちの学校の運営資金としていたのだが、それはまた、彼女たちがそうして演奏していくことで、職業として将来も食べていけるようにと意図されていたのだろう。

 そんな彼女たちの演奏のために作曲されたヴィヴァルディの曲は、ぼう大な数にのぼり、恐らくいまだに完全なヴィヴァルディ全集は演奏録音されていないはずだ。
 つまりヴィヴァルディは、すて子やみなし子として育ってきた彼女たちに、分かりやすいやさしい楽曲を次から次へと作曲してきたのだが、それはもちろん当時の貴族社会でも喜ばれる様な曲でもあったのだ。
 そんな若い娘たちによるきらびやかな演奏会のさまを、あのジャン・ジャック・ルソーが『告白録』の中にも書いているほどである。
 しかしそんな彼の末路は確かではないが、零落(れいらく)して教え子の一人を連れてアルプスを越え、北に向かう旅の地で亡くなったとも言われている。
 
 しかしこのCDにあるのは、彼がその彼女たちの演奏のために書いたいずれも、鮮やかな演奏効果のあるものばかりであり、そこからは、音楽は楽しむためのものという、彼の生きた時代の音楽の響きが聞こえてきそうである。その裏に幾多の悲哀を込めて。
 (話はそれるけれども、去年の夏、ある人に例の屋久島登山(’11.6.17,20,25の項)の写真を見たいと言われて、バックにこのヴィヴァルディの曲を入れたスライド・ショーのDVDにして渡したのだが・・・。)

 ヴィヴァルディといえば、『四季』だけが余りにも有名だが、このセットには、他にも彼の数多くの楽器のための協奏曲が収められていて、初めて聴いた曲もあり、実に興味深かった。
 ただこのセットを全集と呼ぶには気になる所で、上にも書いたとおりに、余りにも彼の作品が多岐にわたりぼう大なために、要約集でさえも中途半端になりかねないほどであり、ただここに収められている協奏曲集や声楽集の他に、私としてはせめて室内楽のソナタ集の幾つかを入れてほしかった。

 それはヴィヴァルディというと、私がいつも最初に思う曲があるからだ。恐らくそれは、私がクラッシク音楽により深く興味を持ち始めたころに聴いた曲の一つで、それによって私のクラッシック音楽の趣味は決定的になったのだ。

 ”フルートと通奏低音のためのソナタ OP,13 『忠実な羊飼い』、ランパル(fl)、V・ラクロワ(hpsi)、エラート・レーベルの輸入盤レコード”

 残念ながらこの曲は後年、ヴィヴァルディの偽作(ぎさく)になってしまったのだが、そんなことはもうどうでもよいことだ。
 さらにこの演奏は現代楽器によるものなのだが、デジタル化されたCDの鋭い響きを聞くよりは、豊かな音響空間を実感できる輸入盤レコードで、その音色を心ゆくまで味わいたい。忠実な羊飼いの羊が、一匹、二匹・・・。


 それにしても、夜までかかってここまで書いてきたのだが、大雨の後なのに、何とむし暑いことだろう。
 今日の、JWOWのハンナではないけれど、ムシアツイと言いたくなるところだ。
 しかし、ここでは北海道と違って、ありがたいことに毎日風呂に入れるし、夜はクーラーをつけて寝ることもできるのだ。
 ハンナの笑顔を思い浮かべながら、ムシアツクナイ、スズシイカゼガ、フイテイル・・・、眠たくなってきた。

 (参考文献:『バロック音楽』皆川達夫 講談社現代新書、『名曲の森世界音楽全集』第1巻 ヴィヴァルディ 集英社)