ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(214)

2012-02-12 20:25:14 | Weblog


 2月12日

 寒いけれども、晴れて日が当たる所は暖かい。良い天気が二日も続いた。ワタシはいつもの飼い主との散歩の途中で、つい座り込んでしまった。飼い主はしびれを切らして帰ってしまった。それでいい。ワタシはしばらく、この冬の寒さの中の小さな陽だまりの中で、まどろんでいたいのだ。

 昔々、あるところに、二匹のノラネコが住んでいました。一匹のネコは、普通のノラネコで、それも年寄りのネコでした。もう一匹の方は、大きな体のふてぶてしい態度をしたネコでした。そのネコは、いつも年寄りのネコに対して、エラそうにがみがみがみがみ小言を言っていました。
 しかし年寄りネコは、その大きなネコがいつもどこからか二人分のエサを見つけては運んできてくれるので、言い合いになるのを避けて、黙って聞いていては、いつも下を向いてニャーと小さく鳴くばかりでした。

 そんなある日、家のそばで他のネコの鳴き声が聞こえて、次第に近づいてきました。年寄りネコは低く身構えて、うなり声をあげました。しかし、その白黒模様のネコは近くにある皿のエサの臭いにひかれたのでしょうか、忍び足でワタシの傍まで来ました。
 お互いのうなり声が、最高に高まったその一瞬、一緒にいる仲間の大ネコが出てきて、大声をあげて何かを投げつけました。そのノラネコは、一目散にはるか遠くまで逃げて行きました。

 ワタシは、その大ネコにニャーと鳴きかけました。するとその大ネコは、おーよしよしと言って、ワタシをなでてくれました。そうなんです。その大ネコは、飼い主だったのです。余り長い間、ワタシは他のネコを見たこともなく、つい一緒にいる飼い主をワタシの仲間のネコだと思いこんでいたのです。

 そういえば、前にも飼い主が、外国の誰かの言葉だとかいって話してくれたことがありました。

 『夢を長いあいだ見つめる者は、彼自身の影に似てくる。』(マラバールの諺、アンドレ・マルロー『王道』小松清訳 筑摩書房版より)
 
 (注: インド南西部マラバール地方では古くからコショウの栽培で有名)


 「今日は、冬場には珍しく、素晴らしい快晴の青空が、一日中続いていた。昨日も、少し雲はあったものの晴れていた。その前の日までは雪が降っていたから、雪の九重の山に行くにはいい日だった。しかし、私は行かなかった。
 休日の土曜日のうえに、下の長者原では、九州では珍しい雪像や氷像が並ぶ“氷まつり”が開かれていて、さらに近くにはスキー場もあるし、山も道も混んでいるだろうと思ったからだ。

 今日はさらに風も弱く、快晴の一日だったが、日曜日のうえに、雪も溶け始めているだろうからもともと行くつもりもなかったのだが、元来が貧乏性なうえに、変なところで自分を責めるタイプだから、この青空を見ては、あの雪山の景色を見そこなったのではと、悔むことしきりだった。
 思えば、先週も天気が良くなったのは土日だった。つまり、神様は、ぜいたくにもいつでもヒマな私なんかよりは、日ごろから汗水流して働いている勤労者諸子たちのことを考え、彼らの休日に合わせて、晴天の日をお恵みになったのだ。
 特に土日を山で過ごした人々にとっては、昨日の夕方の夕映えから今朝の朝焼けに至るまで、山上での素晴らしい景観を堪能(たんのう)することができたことだろう。

 昨日、私は、その夕映えに染まっていくだろう山々を思いながら居ても立ってもいられなくなり、せめてもとクルマを走らせて湯布院の町まで行き、ようやくそこで赤く染まっていく由布岳(1583m、1月2日の項参照)の姿を見ることができた。(写真)

 この夕映えの山の美しさは、雪がある時ならではのものだから、できるならば山の上で、その目指す山と対峙(たいじ)する形で見たいものだ。
 思い起こせば、たとえば中央アルプス千畳敷からの宝剣岳、八ヶ岳硫黄岳からの赤岳、北アルプス蝶ヶ岳からの穂高連峰、みくりが池からの立山、剣御前からの剣岳、八方尾根からの白馬三山、北海道は大雪山白雲岳からの旭岳、日高山脈カムイ岳からの幌尻岳、十勝幌尻岳からのカムイエクウチカウシ山、コイカクシュサツナイ岳からの1839峰、天狗のコルからのニペソツ山などの山々の姿が、脳裏をよぎっていく。

 しかし、この九重の山々はもとより、まだまだどうしても見てみたい夕映えの山は数限りなくある。生きている間にすべてを見られるはずもなく、ましてエベレストなどのヒマラヤの山々はもとよりのこと、マッキンリーやアンデスでさえ到底無理だろうが、あの若き日に見たヨーロッパ・アルプスの、マッターホルン、ユングフラウ、モンブランなどの夕日に染まる姿をせめてもう一度は見てみたいと思う。
 
 『神さま、わたしに星をとりにやらせて下さい。
  そういたしましたら、病気のわたしの心が、少しは静まるかもしれません・・・。
  ・・・・・・
  神さま、わたしはよろけながら歩いている、驢馬(ろば)のようなものです・・・。
  あなたが一度わたしたちに下さったものを、おとりあげになる時のことを考えると、
  怖ろしくなります。
  ・・・・・・
  (神さま)、わたしがあなたさまのために致したことを、
  少し返して下さることはできないでしょうか。
  そしてもしそれが、わたしの病気の心を治すことができるとお思いでしたら、
  神さま、わたしのために星を一つ下さることができないでしょうか。
  わたしにはそれが必要なのでございます。
  今夜わたしのこの冷たいうつろの、黒い心臓の上にのせて眠るために。』

(『ジャム詩集』堀口大学訳 新潮文庫 、フランシス・ジャムについては’08.7.8~13の項参照)

 しかし、現実のできごとは、こうした個人的な夢物語で作られていくのではない。もっと厳しく、しかも劇的なものだ。
 つまり、週末が休日である大多数の人たちたちが、偶然のめぐりあわせもあって晴天の日の雪山を楽しむことができたように、すべての物事は、繰り返される法則と、予測不能な偶然によって、既視(きし)感としてあったもののごとくに、結局は落ち着くところへと結論づけられていくのだ。
 私たちが今いるこの時代だけでなく、人類がこの地上に現れて以降のすべての人々はだれでも、それぞれに一生懸命に生きてきたのだ。ただ、今だからこそのその姿を、私たちは、自分たちの目の前に生き生きと見ることができるのだ。

 昨日、あるドキュメンタリ―番組が放送された。NHKスペシャル『魚の町は守れるか』密着、信用金庫200日。

 話は、このたびの巨大津波によって工場のすべてを流された、ある町の有名なフカヒレ製造業者の再起にあたって、再建資金を何とか調達したい業者側と、大きな負債を抱えた上に何の担保もないその業者に融資できるのかと悩む地元の信用金庫との関係が、ドキュメンタリーの映像を通して生々しく描かれていた。 
 町の復興には、まずもとからあった漁業関連の企業が復活することであり、そこから副次的に様々な町の産業に波及していくだろうということなのだが、その他に別の地元銀行や政府系金融機関との複雑な絡みもあって、終始、先を見とおせないまま事態は推移していくのだ。

 下手なドラマの比ではなく、その緊迫感あふれる映像が、事の重大さを私たち番組を見る者に感じさせてくれるし、芝居臭さの少ないドキュメンタリーの映像だからこそ、それだけ深く私たちの胸に響いてくるのだ。
 それは、ドラマにありがちな演技者が泣き叫ぶから、その場面が悲しく見えるというわけではない。むしろ、静かに感情を抑えているからこそ、その悲しみや思いの深さが伝わってくるのだ。

 たとえば小さなことなのだが、刑事ドラマや経済もののドラマで、主人公が担当部署に帰ってくると、部屋にいるみんながいっせいに注目して話を聞くなんてことは、現実の仕事場ではありえないことだ。それぞれ皆は、今手持ちの別な案件にかかわっていて、他の仕事に携わる人の話を聞いているヒマはないのだ。
 そんな誰もが日常的にそれぞれに忙しい、信用金庫の部屋の様子が映し出されていて、現実感があり、登場人物は、決して見栄えの良い俳優たちではなく、むしろ風采の上がらないようなオジさんオバさんたちばかりで、それだからこそドキュメンタリーならではの現実のスゴ味が出ていたのだ。

 そして、信用金庫の質素な応接室に呼び出された、業者側の二人、フカヒレ製造の品質に絶対の自信を持つ社長と、若い専務は、担当者から政府系金融機関からの融資決定を知らされる。若い専務は、その話を聞きながら、顔をうつむいて静かに涙をこぼしていた。それは思うに、今までの苦労と、これから何とかやっていけるのだという安堵感からだったのだろうが・・・。
 決して、ドラマにあるように、テーブルに突っ伏したり、担当者に抱きついたりして泣きはしないのだ。

 しかしその後さらに、今までその債務を抱えた業者を冷たくあしらっていた銀行が、政府系からの融資を知って、手のひらを返したように、こちらがメインバンクなのだからと迫ってくるなど、まるでドラマさながらの筋立てになっていくのだ。
 もちろん、このたびの大震災がらみの問題だけに、これは取材を始めた時点で、良い結果になるだろうという見通しもあったのだろうし、さらに制作し続けていく中で、業者側の悲劇に終わらせてはいけないという思いが、信金側にもあり、さらには政府系金融機関さえも動かしたのかもしれない。
 ただし、番組の最後に、ナレーターが話していたのは、大津波による被災企業3000社のうち融資が決まったのは、わずか200社にすぎないということ・・・。

 それはともかく、こうしたテレビ番組によって、今まで良くは知られていなかった、震災がらみの経済の社会の一面を浮かび上がらせたことで、一般の人々にもよく分かるようになり、そうしたことこそが、現代のマス・メディアの一媒体としてのテレビの使命にふさわしいものだ、と思われるのだけれども・・・。
 
 ひるがえって見るに、私は、近年のマス・メディアの報道ぶりにはいくらかの危惧の念をもっているのだが、特に下劣な言葉使いで大衆をあおりたて、ただ売れることだけが狙いの一部メディアには、もうただ情けないばかりである。
 規制をしろというのではない、もっと品格を持って論じてほしいと思うだけなのだが。自由と放任とは同じ意味ではないし、自由には、必ず責任があるものなのだ、自分に対しても、また他人に対しても。
 ほめることが人を育てるとまでは言わないけれども、一般大衆の代弁者とばかりに、すべての分野に悪口雑言の限りを尽くすことが、決して言論の自由なんかではないのだし、政治までもがその言動におびえて、すべての人々の不満に耳を貸さなければならず、何も決定できなくなりつつあるということは、まさしく衆愚(しゅうぐ)政治の始まりになるのではないのだろうか。
 思えば、民主政治の始まりともいわれる古代ギリシャの都市国家アテネでは、衆愚政治によってその勢力が衰えていくことになり、時を経て現代のギリシャでも、今ではその衆愚政治のつけを払わなければならない事態に陥っているし、古代ギリシャに続くあのローマ帝国が滅んだのも、一つにはこの衆愚政治があったからだともいわれているが。
 
 もっとも、なにもここで私が熱くなったところで、何の益もない無駄なことでもあるが、ただ時には、日ごろから思いためている”ものいわぬは腹ふくるる”ことを、このブログで書き連ねてみたくなるのは、負け犬の遠吠えというよりは、私自身のストレスをためないという、健康上の方針にも合うことなのだ。
 それはまた、もう長い間、誰かとじっくり話したことなどないからでもあるが。
 
 毎日ミャオとふたりだけで暮らしていると、上にあげた”マラバールの諺”ではないけれど、いつしか私の影には、耳が二つということにならねばよいが・・・。」