ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(204)

2011-12-04 21:54:27 | Weblog


12月4日 

 天気の悪い日が三日ほど続いた。ワタシはストーヴのある暖かい部屋で、一日のほとんどを寝て過ごした。

 時々、飼い主が部屋に出入りする。朝昼晩の三回、コタツの上で食事をするのだ。いい匂いがして、ワタシはニャーといって顔をあげる。すると飼い主は、またかという顔をして、ワタシのほうに自分の食べているドンブリ茶碗を差し出す。
 しかし、それは湯気が上がっていて熱そうで、とても猫舌のワタシには食べられない。さらに、もう一つの植物の入った小皿も差し出す。それも余分な液体がかかっていたりして、食べる気にもならず顔をそむける。
 すると、飼い主は何事かを言い、勝ち誇って見下すような眼でワタシを見る。

 あー、いやだいやだ。ワタシは人間のこうした態度がいやだ。まるで自分が支配者であることを誇り、ワタシを見下すように見るあの目つき。ただでさえ鬼瓦顔の上に、偉そうな”どや”顔だ。
 弱い者ほど、さらに自分より弱い者の前では、強いところをひけらかすものだ。飼い主は、めったなことでは暴力を振るわないけれども、態度による”どや”顔の威圧は毎度のことだ。
 ある時のこと、飼い主が読みかけの新聞を開いたまま、居眠りをしていて、たまたま目に入った記事の見出しに、パワー・ハラスメント、セクシュアル・ハラスメントの言葉が並んでいた。
 つまり、権力者、支配者側、あるいは性的優位に立つ側の立場からの、その部下や配下の者への威圧的強制は、立派な犯罪なのであって、その被害者側からの訴えが近年、著しく増えているというものだった。

 もちろん、飼い主はそうした案件に当てはまるほどワタシにひどい態度をとっているわけではない。ただ、ネコであるワタシを見下すような目つきが気になるのだ。ネコもまた、感情に敏感な生き物なのだから、それなりにデリケートなワタシの心を理解してほしいのだ。

 もっともそういえば、昔のことだが、この家の二人が旅行中に、私が部屋に閉じ込められるという事件(’08.1.20の項参照)があって、ようやく解放されたその後で、あのおばあさんがワタシをなでながら話してくれた。

 「悪かったね。知らないでお前を閉じ込めたりして、ごめんよ。オマエも大変な経験をしたと思うけれど、考えてみれば、私も若いころには大変な苦労を重ねてきたんだよ。あのテレビドラマの『おしん』みたいにね。
 それは、自分より目上の人には絶対服従という時代だったから、親や夫からぶたれたり、学校や勤め先での、先生、上司から暴力をふるわれても我慢しなければいけなかったの。特に女の人は弱い立場にあって、どれほど多くの女たちが、なにも言えずに泣き寝入りしていたことか。
 しかし、今になって思うと、その時はいろんな人から叱られて、ぶたれてもなにも言えずに耐えるしかなかったけれども、ただそれだけの悲しい思い出だけではなかったんだね。つまりね、その経験があったからこそ、それからは何事にも耐えられるという自信がついてきたんだよ。
 私がひとりで一生懸命働いて、あの子を育ててきたのも、そんなつらい時代の経験をくぐりぬけてきたからこそできたのだと思う。だから、オマエの今度のつらい経験も、きっと自分のためになるんだからね。」
 
 ワタシはおばあさんを見上げて、ニャーと鳴いた。すると、おばあさんは、おーよしよしとワタシをなでながら、庭のほうに目を向けて言った。「あの、バカ息子もオマエくらい素直だったらねえ。」
 庭のほうでは、そのバカ息子、今の飼い主が、立木に向かって小水をかけていた。


 「11月は記録的な暖かさだったそうだが、12月に入ると暦通りの寒さになってきた。しかし、今日は朝から晴れていて、風も収まり、気温も三日ぶりに13度近くまで上がった。ベランダで寝ているミャオにとっても、またいつも寒さは気にならないと豪語している私にとっても、やはり暖かいほうが何事につけ楽なことは確かだ。

 さて、先日の左官仕事の残りや庭仕事など色々とあるのだが、まだ片付けられずにいる。それは、手のひらの傷が治りきっていないからだ。2週間ほど前に、例のモミジの写真を撮りに、近くの山際を歩き回っている時に、急斜面で滑ってしまい、左手に持っていたカメラをかばった右手が、下の枯れ枝の上にいって、手のひらの小指側から中指近くまで、ブスリと刺さり、さらに手のひらの中央部にも一つとげ枝が刺さっていた。
 小指側から縦断して刺さったものは3cm近くもあり、引き抜くとすぐに血が噴き出してきた。手のひらのとげは家に戻ってツメ切りで引き抜いた。その後の傷の手当てはしたが、翌日になってもハレたまま熱を持っていたから、破傷風(はしょうふう)にかかるのが怖くて病院に行った。そこで、しっかり傷の手当てをしてもらい、注射を打たれて抗生物質の薬ももらった。

 その後、小指のほうからの深い傷は順調に治ってきたのだが、手のひらのほうがいつまでも盛り上がりハレたままで、痛みが取れない。ということは、恐らくとげ枝が中で折れて少し残っているのだろうか。また病院に行けば、今度は切開手術ということになり、しばらく右手が使えなくなるだろうし、それもイヤだった。
 それで、昔やった手法でやってみることにした。そのウミでハレ上がった所に、炎で焼いて消毒した針を差し込みウミを出した。薬をつけて、今は大分良くなっていて、なんとか手のひらを握れるるようになってきたのだが・・・。
 こうした一連の小さな出来事の中で、今更ながらに私は気づいたのだ。できるなら何でも自分ですませてしまいたいという私の性癖は、いったいどこからきたのだろうかと。

 それは良くも悪くも、私がひとりっ子であり、さらに子供のころから母と離れて暮らさざるを得なかった経験と結びついているのかもしれない。
 つまり、ある日突然、絶対的な庇護者(ひごしゃ)である母がいなくなり、私はよく知らない人だらけの、まるで敵対者ばかりの社会にひとり放り込まれたのだ。私は、他人の目を気にしてその中で何とかうまくやっていくしかなかったし、また何でもひとりで決めてひとりでやっていかねばならなかった。その思いが、子供心に強く植え付けられたのに違いない。
 それは私にとって、不幸なことだったのか、それとも幸いなことだったのか、それは今にして思えば、自分の考え方ひとつでどうにもとれるものではあったのだが。

 実はこんなことを書く気になったのは、先日久しぶりに、山岳書の名著の一つである『単独行』(ヤマケイ文庫)を読み終えたからでもある。この新たに出された文庫本は、地方ではなかなか見つけられず、あの秋の槍ヶ岳登山の後、東京に立ち寄ってようやく手にしたものだった。ずいぶん昔に別な出版社から出ていたその本を読んではいたのだが、今は手元に見つからず、改めて買い求めることにしたのだ。

 この本の著者である加藤文太郎(1905~1936)は、昭和初期のころ、それまで山案内人つき登山がほとんどだった時代に、その超人的な単独の登山スタイルで厳冬の山々に挑み、日本の山岳界に驚きと新風を巻き起こしたのだった。 
 たとえばその例をあげれば、当時勤めていたの会社の上司であった遠山氏の話が、この本の後記として載っているが、それは大正14年のことで、朝の5時に神戸の和田岬にあった会社の合宿所から須磨に向かい、六甲山を縦走して宝塚に下り、同じ道を戻って和田岬に戻ったのが、翌日の午前2時、つまり21時間で100キロ余りの山道を歩いたことになるのだ。普通の道でも1時間で5キロというのは、かなりの速足だし、それも標高932mもある六甲山の山道を上り下りしてなのだ。
 さらにもう一つ、昭和5年12月30日から翌年1月8日までの厳冬期に、それも二日間の雪による停滞があり、実質8日間で、高山本線猪谷(いのたに)駅から歩いて大多和峠を越え有峰に出て、薬師岳往復、黒部五郎岳、鷲羽岳、黒岳(水晶岳)往復、烏帽子小屋からブナ立尾根を下り大糸線の大町駅へと、北アルプスを縦断踏破しているのだ。
 それもテントも持たずに、冬季閉鎖の誰もいない粗末な山小屋に泊まり、そのうち一晩は雪の中でのビヴァークなのだ。

 さらに、この本の序文には、あの名アルピニストの藤木九三氏が知人から聞いた話を書いている。
 『・・・3月の穂高を目指して、横尾の岩小屋を出て山にかかると、なんだか雪の中に黒いものが横たわっている。縁起でもないと思いながら近寄ってみると、それは確かに人だとわかったが、てっきりまいっているものと思った瞬間、顔の頭布をとって、ああ夜が明けたかと言ってむくむく起き上がってきた。』
 もちろんそれが、ビヴァーク中の加藤文太郎だったのだ。

 こうして、地元の六甲山や、兵庫北部の氷ノ山(ひょうのせん)などでの長距離山行でトレーニングを重ねた彼は、ついには単独で冬の日本アルプスの山々を制覇していき、残ったヴァリエーション・ルートである、厳冬期の槍ヶ岳北鎌尾根に挑むことになり、ついにはその時にザイルを組んだ山仲間とともに遭難死したのだ。31歳という若さで。
 当時彼の遭難を伝える新聞の見出しには、『国宝級山の猛者(もさ)、槍で遭難』と書いてある。

 古今東西を問わず、早すぎる天才の死に関しては、いつももし生きていたならばと追想されることが多い。彼が生きていたならば、恐らく日本のヒマラヤ登山史を飾る一人になっただろうが、それにしても時代のめぐりあわせが悪い。というのは、この後日本は、中国、そしてアメリカとの長い戦争に突入していったのであり、彼も兵隊として召集されただろうから、その戦地から生きて戻れたかどうか・・・。
 それなら、今の時代に生まれていたならばと考えると、彼こそは日本人初の世界の8000m級の山14座登頂者になっただろうにとさえ思ってしまうのだ。

 そしてこの加藤文太郎のことについて書いていくと、併せて思い起こされるのが、奇しくも同郷の登山家であり冒険家でもあったあの植村直己(1941~1984)である。彼もまた、単独登頂の記録が多く、最後も単独で冬のアラスカはマッキンリー(6194m)に登頂しながら、その帰途に消息を絶っている。
 その彼の山での先輩でもある名クライマー、小西正継氏が植村との対談で言っている。
 『結局冬の(ヨーロッパ)アルプスなんていうのは体力と精神力が一番重要な決め手で、植ちゃんはその点飛び抜けている。冬の壁に何日ころがしておいても大丈夫って感じで。』(『植村直己挑戦を語る』文春新書)

 この二人の本や評論文を読んだ限りではあるが、その性質も似たところがあるように思われてならない。たとえて言えばまさに『剛毅朴訥(ごうきぼくとつ)仁(じん)に近し』ということになるのかもしれない。

 この二人の不世出(ふせいしゅつ)の登山家については、もう語りつくされていることだし、浅学非才のありふれた登山愛好家でしかない私が、今さらあれこれと書き連ねるまでもないこと。ただここで、ふれておきたいのは、その単独行者としての思いである。
 私の登山は、その90数パーセントまでが単独行であり、もちろん記録と呼べるほどのものは何もなく、この二人の登山家の足元にも及ばないけれども、ひとりでもくもくと歩いて行くという彼らのスタイルに、私はなぜか近しいものを感じるからである。
 それは心理学的な側面を踏まえて考えれば、もしかしたら単独行者の思いの一端を知ることができるかもしれない・・・。しかし話が長くなってしまった。続きは次回に書くことにする。」