ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(153)

2011-11-06 14:48:32 | Weblog


11月6日

 拝啓 ミャオ様
 
 昨日今日と肌寒い曇り空で、気温も10度を下回ったけれど、これでようやく平年並みになったわけであり、それまでは、毎日晴れて穏やかな晩秋の日々が続いていた。
 最低気温は2度から5度くらいで、最高気温は15度前後と、寒暖計を見なくてもわかるような、余り変化のない暖かい毎日が続いていた。10月からこの11月に入ったことも、家の周りの紅葉が散りゆくことでそれと気づくくらいなのだ。
 部屋の温度は、暖房を入れなくても15度くらいはあるから、どうしてもストーヴをつけなければというほどではない。部屋の寒さに弱い北海道の人に比べれば、幾らかは寒さに強い私としては、少し厚着をすればすむことだと思っている。とはいうものの、実は、このところ毎日ストーヴの薪(まき)に火をつけているのだ。
 それは薪が燃えているのを見る楽しみと、いつでも焼きいもを食べれるようになることと、さらにガスコンロを使わなくてもお湯を沸かせるようになることなどのためにと、さらにもう一つ、もうこの家にいられるのも残り少なくなってきて、今の時期のストーヴのある暮らしを、その名残を惜しむためでもあるからだ。

 母が九州の家にいた頃は、私は12月に入ってから帰っていた。母が亡くなり、それから続けて2年は、ここで冬を過ごした。しかし、冬の間、九州の家に私がいないことで、ひとり残されたミャオがいかに悲惨な毎日を送っていたか、それを私は春先に戻って初めて知った。それ以来、私は11月の終わり頃までには、ミャオのもとへ帰ることにしていた。
 しかし、今年のミャオの体調の変化を見て(6.30~7.27の項、9.3の項参照)、高齢化による介護の必要性を感じ、さらにもっと早めに帰ることにしたのだ。いくら近くに、エサをやってくれるおじさんがいるからとしても、年寄りネコのミャオには、とても冬の寒さは耐えられないだろう。
 見捨てるわけにはいかないのだ。それは今まで、わがままいっぱいに生きてきた私のできる、ほんのささやかなことでしかないのだが。


 だから、今のこの穏やかな小春日和の日々を、そしてやがては訪れるあの雪の降る季節へと思いをはせながら、私はどこにも出かけず、家に居て静かに暮らすことにしたのだ。ストーヴの薪のはじける音、小さく流れるチェンバロの音、窓辺に座り本を読むこと・・・ああ、今、これ以上の幸せがどこにあるだろうか。   
 ふと窓の外に目をやると、低い木の枝に、うす赤い腹を見せて、一羽のベニマシコがとまっていた。彼方には、青空の下に、うっすらと日高山脈の山なみが見えていた。
 
 思えば、山登りには、あの槍ヶ岳への山旅(10.16,22の項)以来どこにも行っていない。というより、今年は山行回数自体が減っているのだ。それだから、今まで足しげく通っていた、日高、大雪の山々へもすっかり行かなくなってしまった。そのわけはといえば幾つかあるのだが、簡単に言えば、私もまたミャオと同じように年をとってしまったからなのだ。
 それは、体力的な衰えというよりは、精神的な衰えなのだ。すべてが面倒になっていくこと。若い頃には、年寄りのだらしなさが目についてイヤに思えたのに、今や自分がその老齢へと向かいつつあり、同じ道を歩もうとしているのだ。
 そうならないためには、逆説的ではあるが、人目につかないように引きこもればいいのだ。鬼の住処(すみか)のようなこの家に、鬼瓦のような顔をした、むさいオヤジがひとり住んでいたところで、誰の迷惑にもならないだろう。それはまさに、健康な中高年のための、自分だけの天国創設のための引きこもりのすすめなのだ。

 ただしそうはいっても、山登り自体に飽きたというわけではない。今年の槍ヶ岳山行の計画を立てたように、まだまだ日本のいろいろな山々を見に行きたいし登りたい、ヨーロッパ・アルプス再訪も必ずや実現させたい。
 この北海道でも、いつもの年なら、すでに冬型季節配置のはしりが来ていて、強い北西の風に乗って雪が降り、旭川などではかなりの降雪があり、次の日に晴れれば、山の上では、風紋やエビノシッポ、シュカブラなどの冬の雪模様が見られるはずなのだ。
 ところが、今年の秋は始めに書いたように、北海道は気温が高く、いったん降った山の雪も残雪状態でしかなく、恐らくは中途半端な山の風景しか見られないだろう。
 それは、例えば、去年の美瑛岳(’10.10.23の項)、一昨年の十勝岳(’09.11.9の項)、さらにその前の年の旭岳(’08.10.24,26の項)などで、これ以上はない初冬の雪山の一大景観を目の当たりにしてきているから、なおさら気が進まないことになる。
 
 それだから、たいした雪も積もっていないだろう山々に、片道3時間以上もクルマを走らせて行く気にはならないのだ。それは今までに、もう十分なまでに、良い時の山々への思い出を持っている男の、実にゼイタクなそしてわがままな、山へ行かないことへの決断だったのだ。
 それはそれでよいとしても、家でただじっとしてはいられない。薪割りはもうこれ以上しなくてもいいのだが、さらに来年以降のためにと、林の中の木を切って回った。切り倒していた直径30cmもある丸太を、薪用にコマぎれに切ったり、邪魔になるミズナラなどの木を切ったりして、それらを幾つも運び出し汗をかいた。さらに、裏山の牧草地にも、度々散歩がてらに歩き回った。
 そこで、前にも書いたことのある、畑や牧草地を守るために張り巡らされた、あのシカ除け用の高いネット牧柵に、シカが一頭引っかかっていた。何度もネットに体当たりしたのだろう。角にネットが絡みついて、シカはそこに座り込み息絶えていた。後は昆虫や鳥や獣たちの巨大なエサ場になっていた。頭から上はきれいなまま残っていて、目を見開いてこちらを見ていた。
 
 それは、農作物への被害が大きい周りの農家だけでなく、このわが家の庭の植木でさえ、何本もシカにかじられて立ち枯れしてしまったほどだから、牧柵が作られたことに異論を唱えるつもりはないのだが、こうして目の前で、自分の意に反して命を絶たれた生き物の姿を見るのはつらいことだ。
 数年ほど前に、私のクルマにシカがぶつかった。バンパーがRV車用の頑丈なものだから、わずかな車体の被害ですんだのだが、その後でヨロヨロと歩いて道端の藪に消えて行ったシカは、友達の話では、どこかを骨折していて、もう自然の中では生きていけないだろうとのことだった。
 毎年北海道では、こうした動物たちとクルマや列車との衝突事故が何件も起きている。今年も、列車にはねられて死んだクマだけでなく、道に現れたクマをよけようとした車が路外に飛び出し助手席の同乗者が死んだりと、人間側の被害も多いのだ。
 とはいえ、それは、もともとあった自然界に進出してきた人間たちが悪いからだと、環境保護論者的に一方的に決めつけられる問題でもない。つまり、長い間定住して生活基盤が定まった中では、どちらももう他へ出て行くことなどできないからだ。それはあのパレスチナとイスラエルの関係に似て、どちらが良い悪いの問題ではなくなってしまうのだが・・・。

 先日、1週間ほど前に録画していた映画を一本見た。『天空の草原ナンサ』(2005年)。それは、ドイツの資本制作により、地元モンゴルの映画監督が、草原に暮らす遊牧民の一家の生活をドキュメンタリー風にまとめあげて作った映画であり、なかなかに素朴な詩情溢れる良い作品になっていた。

 移動住居のゲルに住む、若い夫婦と子供たちのもとに、町の小学校に寄宿していた長女であるナンサが学校休みで帰ってくる。周りには誰もいない広い平原の中で、一家は羊やヤクを飼い、自給自足に近い生活の毎日を送っている。ナンサは、まだ6歳だが立派な働き手の一人であり、馬に乗っては羊たちを追い、家の内外では、まだ幼い妹や弟たちの面倒も見なければならない。
 いつもその姉妹弟の3人だけで遊び、空を見上げては、雲の形が動物に似ていると笑い合うのだ。そんな時に、ナンサは洞窟(どうくつ)に隠れていた一匹の犬と出会い、ツォーホルと名づけて可愛がるのだが、父親はオオカミの群れに混じっていた犬かもしれないから家では飼えない、捨ててこいと言う。
 落ち込んだナンサを見て、母親は話しかける。「手のひらを噛(か)んでごらん。できないでしょう。思い通りにならないこともあるの。」
 やがて夏も終わり、彼らはその夏の場所を離れて、冬の居住地へと移動して行く。(その時のゲルの解体の仕方などを、順を追って撮影していて、チーズつくりなどとともに実に興味深いシーンだった。)そして、その牛車の車列の中から、まだヨチヨチ歩きの弟が転落して行方不明になる。周りにハゲタカが巣くう草原で、夏の居住地跡に残された弟とあの犬の運命はどうなるのか。

 この辺りのストーリーの設定で、なるほど映画のために作られたのだと分かるのだが、それまでの映画の流れはまるでドキュメンタリーとしか思えないようなシーンが続いていて、若い夫婦と小さな子供たちの何気ない会話や行動も、そのまま日常的な光景に見えるほどである。
 さらにあの中央アジアの広大なステップ帯に広がる、緑の草原と穏やかな草山の織り成す風景の素晴らしさ。
 西側先進国のドイツの制作サイドは、一方では、モンゴルの首都ウランバートルのマンホールで暮らす悲惨なストリートチルドレンのことも知っていたのに違いない、だからこそこの映画を制作したのだ。

 私が見たい映画は、こうした人間的なもの、それはヒューマン的なものだけではなく、人間の愛憎心理などを含めてのことだが、そうしたものをメッセージとして訴えかけてくる映画である。
 それだから、どこかの国の大々的に宣伝された、今流行りの映像合成技術を駆使して、観客うけをねらい、金を稼げるために作られた映画などを見たくはないのだ。昔から言われる映画の3S、スピード、スリル、セックスだけで大衆をあおり立てていく文明とは、一体何のためなのだろうか。

 今回のギリシャ危機に端を発した、ECの、ヨーロッパの、そして世界を巻き込んでの経済危機は、あらためて私たちに、その経済的な成り立ちの基盤が何であるか、高度文明の経済社会がどうして成り立っているのかを、警告の意味を含めて教えてくれたのだ。
 問題は、株式、債券などのように、実体のない明日の予測の数字へと、ありもしないものに値段をつけては、その売買によって架空の経済領域を広げたことにあるのだ。誰がそうしているのか、言うまでもないことだが。
 世界経済は、今までに何と狡猾(こうかつ)で巧みな仕組みを作り上げてきたことだろうか。それは上に書いた、自然界と人間との関係、あるいはパレスチナとイスラエルとの関係に似て、私たちは、今の世界では解決できない、巨大な陥穽(かんせい)の中にいるのかもしれない。

 映画『天空の草原ナンサ』を見て、聞こえてくるのは、青空の下のナンサの声、羊たちの声、静かに流れ来るホーミー(モンゴルの喉歌)の歌声である。
 
 ずいぶん昔のことだが、民放で数回ほど放映された『大草原の少女みゆきちゃん』という優れたドキュメンタリー番組があった。(調べてみると、それは私がこの家を建てて住み始めたころの1985年の、TBS制作になる番組であり、現在DVDでも発売中とのことだ。さらに、みゆきちゃんの父親である久保俊治さんは、最近『羆撃ち』というなかなか興味深い本を出している。)

 北海道は知床の南の山麓で、酪農業を営む両親の元に、長女として生まれたみゆきちゃんは、小さな妹の面倒を見ながら、牛の世話などの手伝いをしては、4キロもの道を毎日ひとりで歩いて小学校に通っていた。冬になって雪が降れば、まるで冬山のラッセルと同じ状態になり、あわせてヒグマも出るような山道だから、父親はみゆきちゃんに乗馬の訓練をして、馬に乗って学校に通わせるようにしたのだ。
 父親や母親の厳しくもやさしい思いと、たくましく明るく育っていくみゆきちゃんの姿を見て、私は何度涙を流したことか。(鬼瓦の目にも涙。)恐らく、あのころあの番組を見ていた日本中の人はみんな、わが娘を見るような思いで、みゆきちゃんを見ていたことだろう。

 今度、『天空の草原ナンサ』を見ていて、そのナンサの顔にみゆきちゃんの顔が重なって見えてきたのだ。そして、私が思ったのは、子供たちのかわいさや風景の素晴らしさや日々の出来事などではなく、ただ毎日の生活の中にある、生きていることの素晴らしさであった。

 私は、裏山の牧草地の中を歩いていた。牧柵のシカの所からはもう遠く離れていた。ゆるやかにうねる牧草地の向こうに黄色く色づいたカラマツの林が並び、広大に広がる秋の空に、ゆっくりと雲が流れていた。(写真)
 私は、立ち止まり、両手を広げた。私の両手の中にあって、さらのその私が包まれているものの中へ・・・。

 ミャオ、もうすぐにオマエのところへ戻るからね。

                         飼い主より 敬具