ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(201)

2011-11-13 18:21:33 | Weblog


11月13日

 ニャオン、ニャオーンと、ワタシは鳴き続けていた。
 数日前のことだ。誰かが家の中に入ってきて、今まで閉まっていたベランダのドアを開けて、二三度鳴いていた。その後、庭に下りてきて、あたりを歩き回っては、まだ鳴いていた。 
 ワタシは、ベランダに置いてあるネコ小屋には入らずに、その傍にあるカバーをかけられたマッサージチェアーの裏側に潜り込んでいた。ここなら、寒さもしのげるし、他のネコが簡単には入ってこられないからだ。
 ワタシは、最初は新たな外敵が侵入してきたのではないのかと、身を固くしてじっとしていた。しかし、何度も鳴いている男の声に、ワタシの心の中で何かかがよみがえってきて、はじけた。飼い主の声だ。
 庭のほうから、家の中に戻ってきた飼い主とワタシは、互いに鳴きかわしながらかけ寄り、ひしと抱き合い、ただオイオイと泣くばかりだった。

 というのは言い過ぎだが、人間たちの久しぶりの対面でいえばそういうふうになるのだろう。しかし、2カ月もの間、ひとり置いてゆかれたワタシからすれば、オーバーな表現でもなく、今までのつらい思いの日々から解放された瞬間でもあったのだ。
 ワタシはニャオニャオと鳴きながらも、皿いっぱいのミルクを飲み続けた。かはー、たまらない味だ。
 確かにおじさんは、毎日ちゃんとキャットフードのエサをくれたけれども、ミルクはくれなかった。

 ワタシたち動物は、年寄りになるにつれて、どうしてもカルシウムなどが不足しがちになる。骨粗鬆症(こつそしょうしょう)にならないためにも、その補給のためにもミルクは、有効な食品の一つなのだ。
 さらに加えて、ほんのり甘くまろやかな味が、何ともこの年寄りネコのワタシの口に合うのだ。

 そういえば昔のことだが、まだワタシが若くて一緒に住んでいたあのおばあちゃんが元気でいたころ、ワタシが包み紙の音に耳をたて何か食べているのならワタシにもと、鳴きながらおばあちゃんのそばに寄って行ったところ、おばあちゃんはワタシをなでながら話してくれたのだ。
 『私の田舎のおばあちゃんは、はちみつの入ったビンを隠していて、孫たちには決してやらずに、時々取り出しては一人でこっそりなめていたのを見たことがあるけれど、今になって分かるよ。私もこうして甘いものが欲しくなるんだからね。オマエには食べられないだろうがね。』

 本来、ワタシたちネコは、例えばクマたちみたいに甘いものが好きだというわけではないのだけれども、年をとってきてから、ますますこの牛乳の持つほのかな甘みを好むようになってきたのだ。だから、飼い主が帰ってきて、やはり一番うれしいのは、生魚もあるけれどやはりこの牛乳なのだ。

 そして、その日以来、ワタシはまた前のように、飼い主がそばにいてくれて、安全な家の中で、いつもの牛乳を飲んで生魚を食べて、時々優しい言葉をかけられながら体をなでてもらったり、という毎日を送っている。一年のうちに何度か繰り返される、ワタシの生活の劇的な変化、それをワタシは受け入れながら、今日まで生きてきたのだ。
 ある時、飼い主が、音程はずれのだみ声で小さく歌っていた、吉田タクローとかいう歌い手の歌のように・・・ワタシは今日まで生きてきました。時には誰かの力を借りて。そして明日からも、こうして生きていくだろうと。


 「私は、ずっと心配していた。この夏のことからいっても(6.30~7.27,9.3の項参照)、ミャオはひどく衰えているのではないのかと、あるいはもしや死んではいないだろうかと。
 そのことが気がかりで、いつもよりはさらに早めに帰ってきたのだ。寒がりのミャオは、昔ならば、あのポンプ小屋に行って暖かい配管にくっついて、冬の寒さもしのぐことはできただろうが、今では家の周りを歩き回るだけで、とても遠く離れたポンプ小屋まで行くこともできないし、途中には、ミャオが何度もやられて深手を負った他のノラネコたちががうろついているのだ。
 ミャオはただ、飼い主のいない家にいるしかないのだ。『イヌは人につき、ネコは人のいる家につく』と言われているが、この東北の大震災大津波で生き残ったイヌやネコたちは、それでも誰もいない家の中で、飼い主が来るのを待っていたのだ。
 そして、ミャオもまた、いつ帰ってくるともわからない飼い主の私を、手のひらの肉球を開いては数えて待っていたのだ。それもちゃんと毛布を敷いたネコ小屋にではなく、シートをかぶせたマッサージチェアーの物陰に隠れては、毎日夜を過ごしていたのだ。

 そこから出てきたミャオは、私といた時よりもかえって元気だったし、丸々と太っていた。毎日エサをやってくれていたおじさんには、ただただ感謝するほかはなく、いつもの鮭のトバ(干物)と花畑牧場のお菓子ぐらいのお土産では申し訳ないくらいだった。
 そのおじさんに聞くと、ミャオには、ただキャットフードをやっていただけだとのことだった。それはつまり、私といる時には、毎日生魚を食べミルクを飲み、時にカツオブシやノリを食べるくらいで、ほとんどキャットフードを食べてくれないのだが、実はキャットフードのほうが栄養バランスに優れていて、ミャオの体にはいいということなのだろうか。
 
 その上に、さらに予想外のことで嬉しかったことがある。夏にいた時に、今まで書いてきたように、あれほどあちこちにシッコをもらしていて、恐らく私が帰ってからのこの冬の間は、ミャオのシッコまみれの部屋で暮らすことになるだろうと覚悟して、ミャオのいるコタツのある部屋全体にシートを張って、その上にコタツを置き、毎日、シッコをもらすだろうコタツ布団や座布団を洗うほかはないと覚悟していたのに、つまり要介護老人との同居生活を覚悟していたのに・・・。
 ミャオはえらい、まだ一度も部屋でシッコはしていないのだ。前のように、ちゃんと一日2回は外に出て、トイレの用をすませているのだ。
 ということは、あの夏の狂乱シッコ状態は、他のネコに襲われひどい傷を負ったことによる、一時的な精神錯乱状態から来るものだったということなのだろうか。

 ともかく、ミャオが元気でいてくれたこと、さらには部屋でシッコをしていないことは、私にとっては実にありがたいことなのだが、それはそうなったで欲も出てしまう。つまりそれなら、もっと北海道にいてもよかったのではないかと。せめて、去年と同じあと10日くらい先に帰ってきてももよかったのではないのかと、そうすれば、初冬の装いの雪の大雪山・十勝連峰の山に行けたのにと。
 というのも、私が、十勝の家を離れた朝、前日からの寒波の襲来で、気温はマイナス4度まで下がり(それくらいで平年並みなのだが)、日高山脈の中央部は完全に白くなっていて、ライブカメラで見る大雪山・旭岳にも新たに雪が積もっていた。

 残念だが、物事はすべてが、うまく運ぶとは限らない。何はともあれミャオが元気でいたこと、それだけでも十分であり、感謝すべきことなのだ。そしてこれから、いいことも悪いことも含めて、ミャオと一緒に春までの長い日々の暮らしが始まるのだ。
 ここにいるからこそ、できることもいろいろとある。それらの日々に何をなすべきかを、しっかりと心に定めて・・・。」
 
 癒(いや)しの仏教詩人と言われた坂村真民(さかむらしんみん、1904~2006)の、詩の一節から。

 『 今 』
 「 大切なのは かつてでもなく これからでもなく
   一呼吸 一呼吸の 今である」

 (坂村真民詩集 大東出版社)