11月12日
暖かい秋の日が続いている。
いつもの年ならば、もう道内各地で初雪が降り、日本海側から道央にかけては20㎝30㎝の雪が積もっていることもあるというのに。
もちろん、この十勝地方は、北に大雪山系、西に日高山脈という二大高地に区切られているから、もともと初雪も遅く、年内にまだ雪が積もっていないこともあるくらいなのだが。
それにしても今年は暖かい。
このところ毎回書いている紅葉も、もうモミジやカエデの葉はほとんど散ってしまったものの、林内ではまだ残りの紅葉が見られるくらいであり、今は最後の黄葉である、ツツジやハマナス、そしてキタコブシの葉が散り始めたが、何よりもさらに秋の終わりを感じさせるのは、カラマツの落葉である。(写真上)
カラマツは落葉松とも書かれるから、その名の通りなのだが、薄緑から黄色、小麦色へと色を変え、ある時、晴れて少し風のある日に・・・。
さらさらと音を立てて、カラマツの落葉の時が始まるのだ。
まだ緑を残すササの葉のうえに、他の枯葉の上に、まるで小雨が降り始めた時のように、音を立てて降りしきるのだ。
そのカラマツの落葉を最後に、林の中はすべて見通しの良い、縦じま模様の世界になり、あとは雪が降るのを待つだけの、静寂の世界になる。
” 冬が又来て天と地とを清楚(せいそ)にする。
冬が洗い出すのは万物の木地。
天はやっぱり高く遠く
樹木は思い切って潔(きよ)らかだ。
・・・。”
(高村光太郎 詩集『猛獣篇』より「冬の言葉」 日本文学全集 集英社)
今は、冬のための支度をしなければいけないのだが、夏から秋にかけてのぐうたらに過ごした毎日がツケのようにたまっていて、あれこれとやらなければならないことが多く、あわただしい毎日を送っているのだ。
林内の伐採作業や薪づくりなどは一応の区切りはつけたのだが、まだまだ家の内外でいろいろな仕事がある。
まずは、キツツキ対策補修作業である。
キツツキの被害に関しては、前にも書いたことがあるが、今年はその被害箇所が、今になって気づいた所もあって数か所余りに及び、今までで最大の補修をやる羽目になってしまったのだ。
被害箇所は、丸太本体ではなく、今までと同じように、小屋裏と呼ばれる屋根のひさしが突き出た裏側の、羽目板を張った所である。(写真下、その一例として屋根の棟下の部分の被害箇所、長さ20㎝余り)
どうするのか。
問題は高さである。屋根の上まで6mあまり。
この春、九州の家で立てかけた2m余りの梯子から落ちて、ひどい傷を負い(4月23日の項参照)、北海道に戻ってくるのが遅れたほどだったのに、それより高い所に上がるなんて、とてもできない。
この家を建てたころには、このすべりやすいカラートタンの屋根の上に上がって、テレビ・アンテナを立てたり、一部補修のためのペンキ塗り直しをしたものだが、今ではとても無理だ。
冬雪が屋根に積もった時に、ひとりでに滑り落ちるように、普通よりはずっと傾斜をつけて専門の屋根屋さんにふいてもらったのだが。
確かに、それで冬にいた時にも、雪は見事にひとりでに滑り落ちてくれたのだが、今となっては年齢のせいで、傾斜のある高い所に上がるのが心配になって来たのだ。
それは山登りでもいえることだが、若い時に比べてバランス感覚が衰え鈍くなってきたと感じるからだ。
”君子危うきに近寄らず”の例えどおりに、というよりは、今ではもう高い所への恐怖心の方が強くなっているのだ。
しかし、今回のキツツキ被害部分の補修は、ハシゴをかけても届かない先にあり、そこから棒を伸ばしての作業をするにしてももうまくはいかないし、思い切ってその玄関上の小屋根に上ることにした。
反対側から太めのロープをかけて命綱として、ハシゴから屋根に移ってその上に立って、穴に断熱材を丸めて入れて、その上にコールタールを塗って固着させた。
そして、再び命綱をたぐってハシゴの上に移り、無事地上に降り立ったのだが、そんなことまでも書いてしまうほどに年寄りには危険な作業だったのだ。
もちろんこれが、最後ではないし、来年もまたキツツキ穴補修のために高い所での作業が必要になるだろうが。
しかし、この穴を突き叩いて掘って、その中にいる虫を食べようとした、オオアカゲラやアカゲラを責める気にはならないし、曲りなりとも日本野鳥の会に所属する私としては、ただ補修することしかできないのだ。
さらにこの小屋裏の穴は、実は家の中側の小屋裏(二階ロフトの屋根裏)にもかかわっていて、今回併せてこちらのすき間もふさぐことにしたのだ。
というのも、これまたしばらく前に書いたことだが、家の中にへビが出て、その原因としての棟の換気口穴をふさいだのだが、それだけでなく、こうしたキツツキたちのあけた穴からもヘビは侵入できると思ったからだ。(9月3日の項参照)
そして実際、二階ロフトの屋根裏のすき間からは、何とヘビの抜け殻が見つかって、間違いなくヘビたちがここを通っていたことが証明されたわけで、ともかく家の内側からのすき間も、同じように断熱材を詰め込んでふさぎはしたのだが、果たして今後どうなることやら。
アオダイショウだから、実害はないにしても、ヘビと同居というのはあまり気持ちのいい話ではない。
この家を建てた時には、予算が十分になく、すべてを節約したものだから、細かい部分まで行き届かずに、簡単な仕上げのままで、例えば、羽目板を張りつけただけで(本来は”あいじゃくり”加工された屋根板などを使うべきところ)、隙間の多い屋根裏になり、ハエも侵入してくるし、先日苦労してとりあえず作り直した自作の天窓のように、やはり金をかけて施行しておかなければ、結局は後になって問題が出てくるものなのだ。
しかし、基礎と丸太組み自体に問題があるわけではなく、今までの何度かあった大きな地震にも耐えてはいるから、素人大工としての自分の仕事は、まあまあなものだったと思っているのだが。
さて、今週もまた例の『ポツンと一軒家』(テレビ朝日系列)を、全部ではないが見てしまったのだけれど、そのうちの二つの話には、またまた考えさせられて見入ってしまった。
満州で軍人だった父親のもとに生まれ、今年75歳になるというそのおやじさんは、終戦後まだ2歳の子供のころに何も憶えていないというが、家族ともども日本に引き上げてきたのだが、親の故郷の群馬の山の中の家はなくなっていて、ただそこに在ったみすぼらしい作業小屋で一家は暮らすことになったという。
その後、父親が木挽(こび)き職人の手を借りて周りの木を切り倒し、自分で家を建てたのだが、今ではその父親も亡くなってしまい、一人になった母親を下の町に連れてきて面倒を見ているけれども、この家は母親や兄弟たちの愛着があるから、自分が週に一度はやって来て手入れをし続けているのだと言った。
彼は、死んだ父親が写っている満州時代の写真を見せてくれたが、生きている間に父親がその写真を自分に見せてくれたことはなく、戦争の話をすることもなかったという。
思うのは、東京から戻って来た兄の肺結核がうつり、家族に追い出されるように、満州にまで行った私の母親が、私に当時のことを断片的に話したことはあっても、とうとう最後まで詳しい話はしなかったように・・・。
さらにもう一つ、山形県の山奥で、150年前に建てられたという古い”曲がり屋”の形を残す、今どき珍しいかやぶき屋根の家に暮らす老夫婦の話で、そのおばあさんの方は脚が悪くなり、家事全般のことを含めて今年89歳になるおじいさんがやっているとのことだったが、そのおじいさんの今一番の仕事は、昔牛を飼っていたころの名残である、ブロック造りのサイロ(干し草倉庫)の解体作業にあるとのことで、小さなハンマー一丁だけで、そのサイロの壁を少しずつ壊していた。
前回書いた、あの解体屋さんの重機なら1時間もかからないだろう建物を、おじいさんは何日もかかってハンマーで叩いていたのだ。その横には同じように、独力で壊したという、昔の牛舎の土間だけが残されていた。
「自分が作ったものは、自分でカタをつけておかねばな。」と彼は言うのだが。
余談ながら、この番組は今、高視聴率をあげているそうだが、もちろん若い層にウケているわけではなく、私たち中高年のおやじさんおじいさんたちに人気があるのだろうことは分かるのだが、今回見ていてつくづく感じたのは、この『ポツンと一軒家』に住む人たちのすべてに言えることかもしれないのだが、それぞれの生き方と家族の歴史が、まさに典型的な”日本人の原風景”とつながっているからなのだろう。
おばあさんが、ぽつりと言った一言・・・”命と意地だよ”。
そうなのだ。
何があっても、誰もが生きていくのは、そうした思いがあるからであり、誰もがこれからも生きて行こうと思うのは、まさに誰にでもある、そうした思いがあるからこそなのである。
庭の、ハマナスの灌木(かんぼく)が黄葉して、そこに赤い実が二つ残っていた。(写真下)
秋が、逝きます・・・。