ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ハイ・プレッシャー

2018-11-19 21:33:48 | Weblog




 11月19日

 数日前、九州に戻ってきた。
 天気予報では、その日は全国的に晴れのマークが多くついていて、久しぶりに飛行機からの眺めを楽しめるはずだったのだが、結果的には、すべての地上の眺めを楽しめるほどの天気にはならなかった。
 それは、高気圧に覆われていたとは言っても、所によっては、その位置が少し南にずれていて、その等圧線のやや混んだあたりから、冷たい空気が入り込んでいて、雲ができて地表を覆っていたからだ。

 まずは、十勝帯広空港を離陸した飛行機の窓から、雪のついた日高山脈の山々を見るのを楽しみにしていたのだが、残念ながら中央部の山々の稜線には雲がかかっていて、ようやく南日高あたりですっきりと晴れてきて、楽古岳(1472m)をはじめとする山々が、まだほとんど雪はついてはいないものの、見事に彫琢(ちょうたく)されたレリーフ模型のように見えていた。
 地理学マニアとしては、こうして微に入り細に入り稜線谷筋に刻み込まれた、立体地形図の景観ほど興奮するものはないのだ。
 ”そんなものを見て喜んでいるなんて、ヘンタイ!だ”とのそしりを免れないかもしれないのだが、大体が世の中の愛好家、好事家(こうずか)と呼ばれる人たちには、多かれ少なかれ、そうしたヘンタイ気質が存在するものであり、それだけにマニアという言葉のほうがふさわしいのかもしれない。
 若いころには、自分の興味がいろいろと際限なくふくらんでいき、自分は一つのことに集中できないで、心移りしがちな落ち着きのない人間だと思っていたのだが、こうして年を取ってきて、ひとりの時間を自由に使えるようになってくると、むしろ退屈どころか、若いころからあれこれ首を突っ込んで少しでも調べては学んでいたことが、あの小さく小分けされて入れてある、昔の漢方薬の箪笥(たんす)のように、今となっては、その時々でその引き出しを選んで開けて、自分で楽しむことができるようになって、人生を味わい尽くすべく生きるには、これもまた一つの方策だったのかと思うのだが。

 前にもここで取り上げたことがあるが、あのトーマス・マンが書いた大作『魔の山』で、若い主人公が結核療養のために訪れたサナトリュウム(療養施設)で、当時もてはやされていたいわゆる”百科全書派”の博識な男に出会い、狭い閉ざされた空間、社会だけでなく、世の中には様々な価値観を持った人々がいるわけだから、若いうちにそうした経験を積むべきだと教えられ諭(さと)されていたのを思い出す。

 もちろん私は、今どき流行りもしない”百科全書派”の弁護などをするつもりはなく、ただそうした広く浅い知識を持っていることが、残りの人生をより豊かなものにしてくれるかもしれないと思っただけのことで、まともに考えれば、生涯ひとつのことに向かい、人間社会のために何事かの寄与をした人のほうが、はるかに有意義の人生を送ったことになるのだろうが、何の成果も残さずに、自分のうちだけで人生を送った人も、自ら納得できていれば、これもまたその人にとっては十分に満足できる人生だったのだろうと思うのだが。
 すべての人が満足できるような生き方はないし、またすべての人が不幸せな人生を送るわけでもない。
 つまりは、それぞれの人生のそれぞれの感じ方や評価の仕方にあり、それを何事もいい方向に進むためのものだと考えるほうが、解決できないことを悪い方向へと関連付けて気に病むよりは、はるかにいいことのように思えるのだ。
 もちろんそこには、それはただ、人生での大きな問題をいつも避けて通っているだけのことで、何の問題解決にもならないと批判する人もいるだろうが。 
 それでは、そういう人が真剣に悩んだ末に、いつも最上の解決策を生み出してきただろうか。
 つまるところは、いつも堂々巡りの心配事が増えただけではなかったのか。
 つまり時には、自分の中にある多くの引き出しを見比べながら、時の流れに任せていくのもいいことではないのかと思うのだ。

 今までもこのブログでたびたび取り上げてきた、貝原益軒(かいばらえきけん、1630~1714)の『養生訓(ようじょうくん)』からの一節である。

” 養生の術はまず心気を養うべし。心を和(やわらか)にし、気を平らかにし。怒りと慾とをおさえ、うれい思いを少なくし、心を苦しめず、気をそこなわず、これ心気を養う要道なり。” 

(『養生訓』貝原益軒 石川謙校訂 岩波文庫)

 さて、いつものように話がそれてしまったが、さらに飛行機からの眺めの話を続けよう。
 飛行機は太平洋上に出て、東北地方上空に入り南下していくのだが、確かに太平洋側内陸部には雲が切れているところもあるのだが、ほとんどは西側日本海側から押し寄せる雲に覆われていて、山々は全く見えなかった。 
 特に、この秋の遠征登山で登った栗駒山(くりこまやま、1627m、10月1日、8日の項参照)、をしげしげと眺めて見たかったという思いがあっただけに残念だった。
 しかし、東北の山が見えなかった代わりに、英語名の”ハイ・プレッシャー”そのままに、高気圧の中心に近い関東から中部地方にかけては、申し分なく晴れていて、機長がこんな見通しのきく日はめったにないと話していたというほどの晴れ方だった。
 那須の山々を横に見て、関東地方に入るころから、行く手前方には、関東平野の果てに、ひとり高く、白い雪を頂いた富士山が見えていた。 
 さらにその右手奥には、所々雪に白く輝く北アルプスの峰々さえも連なってた。
 富士山は、羽田空港に降りたその滑走路からも、見ることができた。
 となるとこの天気なら、乗り換えての九州便の飛行機からは、間近に富士山や南アルプスを見ることができるはずだ。

 しかし、たまたま接続便が途切れていて出発時間も遅れて、待ち時間が2時間半、さらにバス便も接続が悪く1時間半の待ち時間があり、都合4時間近くを待つ羽目になったが、まあそれも私に本を読む時間を与えてくれたと思えばいいのだが、都合12時間にも及ぶ長旅は、年寄りにはつらいものだった。
 ともかくそうこうしているうちに飛行機は飛び立って、東京湾を半回転した後、すぐに待望の富士山上空に。
 しかし、飛行機はほぼ富士山の真上よりの航路を取っていて、中腰になって窓ギリギリにカメラを構えて、やっとファンインダーの中に富士山の姿をとらえられた。(冒頭の写真) 
 いつもはもう少し甲府側に寄って飛んでいるから、もっと優美な姿の山の全体像を見ることができるのだが、今回はほぼ真上だから、お鉢火口から周囲になだれ落ちるカラマツの黄葉のすそ野や、周りから押し寄せる雲がその裾野の辺りまで押し寄せて、その先には行けない気象学的な景観も眺められて、これはこれでいつもの眺めと違い、実に素晴らしかった。
 ただ惜しむらくは、窓ガラスのふちのぎりぎりで画質が悪くなり、もう少し北側に寄っていれば、窓の中央で見られたのにと思うが。

 そして今度は、反対側の南アルプスの眺めだが、あいにく飛行機は満席に近く右窓側の席は空いていなくて、仕方なく飛行機最後尾にある小さな非常用ののぞき窓から写真を撮ることになって、位置的には悪くはなかったのだが、何しろ小さな窓を通して撮るものだから、画質が格段に落ちてしまった。
 それでも、白根山脈を縦位置に、手前から広河内岳(2895m)、西農鳥岳(3026m)、農鳥岳(3050m)、間ノ岳(3189m)、北岳(3193m)、そしてそれらの山々とT字型に相対する早川尾根の最奥に、一人離れて甲斐駒ヶ岳(2967m)が大きいが、その山頂付近が白く見えるのは、雪ではなくて花崗岩の砂利であり、北岳と間ノ岳山頂付近が少し白いのは雪である。(写真下)





 飛行機の窓からの景色は、少しずつではあるが,かなりの速さで変わっていく。
 音速まではいかないまでも、800km/h位のスピードは出しているはずだから、山が見え始めたらすぐにシャッターを押し続けなけれならない、写真のうまい下手の技術は別としても。

 そして白根山脈と並行して、南アルプス脊梁(せきりょう)の山々が連なっている。
 中央部のなだらかな尾根の中では、塩見岳(3047m)がひとり高く、やがて南アルプス中南部の巨人たちが見えてくる。(写真下)




 左に荒川岳前岳(3068m)と中岳(3083m)、右に悪沢岳(わるさわだけ、3141m)。
 何度も言うことだが、沢や谷筋に沿って一部氷蝕され浸食され彫琢された壮年期地形の山肌は、見ていて飽きることはない。

 さらに伊那谷を隔てて、中央アルプスの山々が並び、こうして飛行機からの眺めの至福のひとときが終わるのだ。
 その先に高い山はないが、夕方近い伊勢湾や大阪湾の照り返しを眺めながら、最後の大きな島である九州に舞い下りて行く。
 もうあと何回こうした景色を見られることだろうか、日本列島縦断の飛行機からの眺め。
 いつも言うことだが、北アルプス中央部を横断する飛行機乗って、もう一度、厳冬期の山々を見てみたいのだが。
 その昔、母を連れて東北を旅したとき、乗り継ぎが大阪伊丹空港になり、そこからの便で北アルプスの山々を見たことがあったのだが、その日は早春の快晴の日で、眼下に純白の山々がうち重なり続いていた光景は、忘れられないものだった。
 あの眺めをもう一度と思うのだが。

 さて帰ってきた九州は、北海道と変わらずに、意外に寒かった。
 埋もれるほどに降り積もった落ち葉をかき集めて燃やし、昔はそこに、すぐに飼い猫のミャオが寄ってきて、一緒にたき火で温まったものだが。
 さらに、あちこちの生垣などの剪定(世んてい)などをしなければならない。
 まだまだ枯葉があちこちにたまっているし、こうした庭仕事だけでも今月いっぱいはかかるだろう。
 小さな庭だけれど、長い間放置していた私が悪いのだが、毎年北海道と往復しながら、小さいとはいえ、二軒の家を二度手間をかけてとも思うが、何事もそれだけの価値があると思うし、それだから、相応の仕事が増えるというだけのことだが。
 しかしそれでいい、もう長年続けてきたこの一年のサイクルを繰り返すことが、今の私の人生なのだから。
 
 ほとんどが落葉している庭の木々の中で、一本だけ、まだそれほど大きくはないモミジの木があり、その鮮烈な紅葉がひときわ目を引く・・・ありがとね。

 めったに風邪をひかない私が、とうとう風邪をひいてしまった。このブログ書くのも一苦労で。
 原因は、数日前、人々で混雑する羽田空港ビルに、2時間半もいたこと。そして帰ってきた家の庭の掃除などで大汗をかいて、体を冷やしてしまったためなのだろうが。
 セキは出ないのだが、あまりに鼻風邪がひどく、体もだるいので、仕方なくそう簡単には服用しない風邪薬を飲むことにした。
 そこで手持ちの風邪薬をと取り出してみると、有効期限は8年前に切れていて、缶詰などならば数年過ぎていたくらいでは、開けて食べてしまうのだが、さすがに8年前の飲み薬は・・・ムリ。
 今夜もこの風邪の症状で眠れないだろうが、明日、町の薬屋に行かなければ。あーあ、年取ってからの病気はツライ。