ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(109)

2010-07-30 19:43:36 | Weblog

7月30日

 拝啓 ミャオ様

 北海道では、はっきりしない天気が続いている。気温は朝の20度位から、昼間の最高でも27度位までだから、あの本州の酷暑続きの毎日と比べれば、さほど暑くはないのだが、どこかむしむしとして、余り外には出たくない。
 1週間ほど留守にしていて、すっかり雑草が生い茂った庭の草取り、草刈をやらなければいけないのだが、思えば、コレステロールでべたついた栄養たっぷりの血を持った生き物である、私を待ち構えている、あのアブや蚊たちがいるのだから、とてもその仕事のためだけに出る気にはならない。
 それでも、トイレのためには外に出る。そして、用足しをしていると、その生身の部分にさえ襲い掛かってくるのだ。まったく、油断もスキもあったもんじゃない。友達の一人が、はれ上がって大きくなっていいじゃないかというが、そういう冗談は若い時だけにしてほしい。

 ということもあって、今はただ、登ってきたばかりのあの飯豊(いいで)の山々の余韻に浸っているだけだ。あーあ、大変だったけれども、行って良かったなあと。

 さて、ことの始まりを書くには、飛行機、新幹線と乗り継いで新潟駅に着いた時からだ。改札口には、あの全国展開している有名な登山用品店の方が、ガス・バーナー用のボンベを手に、待っていてくれたのだ。
 何とありがたいことだろう。ただ頭を下げて、お礼を言うばかりだった。

 飛行機に乗って、山登りに出かける時、危険物であるボンベはもちろん持っていけない。飛行機を降りた後、どこかの店で買い求めるしかない。しかし今回、登山口に行くまでの間、何度かの乗り換え時間がいずれもギリギリで、買いに行くための十分な時間がないのだ。
 思い余って、その新潟の店に電話してみた。応対に出てくれた人は、普通はそんなことはやらないのだけれど、今回だけはということで、私の無理な願いを聞いてくれたのだ。
 たかだか数百円の品物一点のために、炎天下の道を自転車を走らせて届けてくれたのだ。
 私たちは、いつも自分一人の力だけで生きているのではない、当たり前のことだけれど、いつもこうして思い知らされるのだ。

 その後、さらに電車とタクシーを乗り継いで、新潟は胎内(たいない)市の山奥にある宿に泊った(安くて良い宿だった)。朝一番の、乗り合いタクシーで登山口まで運んでもらい、そこからいよいよ歩き始めた。
 すぐに、ブナ林が広がっていて、私は思わず立ち尽くしてしまった。ブナは、北海道の南部から、九州にいたるまで見ることのできる木なのだが、いわゆる群生して林になっているのを見たのは初めてだったからだ。

 同じ乗り合いタクシーに乗った二人は、もう先の方へと登って行った。まあ、あせることはない。今日の行程は、杁差(えぶりさし)小屋までなのだから。そのうえ、4日間もの山旅の第一日目なのだから、先のことを考えて、ゆっくりと登ろう。
 この、足の松尾根は、飯豊主稜線上の大石山に上がるまでの標高差が、1100mほどだから、それほど急な尾根ではないのだが、途中、急登、急下降の二つのコブなどもあり、結構な距離がある。
 しかし、快晴の空の下、両側の深い谷から立ち上がる、左右の尾根は、雨や雪に彫琢(ちょうたく)されいて、なかなかに高度感に溢れて見事だった。(前回写真参照)

 尾根上には、ヒメコマツやブナの木が生えていて、東に向い登って行く道での、良い日陰になっていたが、時々、低い潅木や草付きの道に出ると、いっぱいの太陽が照りつけてきた。
 やがて、標高が上がってくるに従い、暑い日差しを浴びている時間が長くなってきた。予備を含めて5日分もの食料を詰め込んだ、20kgほどのザックの重さがこたえてきて、1時間に一回の休みが、30分、15分ごとになり、そのたびごとに水を飲んで、1Lの水筒の水が残り少なくくなってきた。

 稜線に上がる、最後の大石山(1567m)へのゆるやかな登りでさえ、次の一歩がなかなか出なかった。顔は熱病ではれているかのようで、ただ足元の道を、うつろな瞳で見ているだけだった。
 そしてようやく、その従走路の北斜面の草原に倒れこんだ。なんと5時間もかかっていた。
 彼方には、目指す杁差岳(えぶりさしだけ、1636m)が悠然とそびえ立ち、今や上空には雲が増えて、時々その頂上を隠していた。そこへ行くには、まずここから下り、杁差岳の前に衛兵のごとくに立ちはだかる、鉾立(ほこたて)峰(1573m)を越えて行かなければならないのだ。

 何とか気を取り直して、鞍部(あんぶ)にまで下り、そこからは両側がササの、ジグザクになった暑い道を登りはじめ、やがて途中で足を止めて、ザックを投げ出し、ササヤブの中に入り込んだ。
 ササをかき分けていくと、開けて雪渓の斜面が見えた。滑らないように近づいて、硬い雪の上に座り込んだ。夏の暑さに耐え切れずに、クマたちが雪渓の上に腹ばいになるように。

 白いきれいな所の雪を掘って、口に入れ、からになりかけていた水筒に詰め込んだ。ようやく生き返った気がした。
 恐らくは、熱中症一歩手前の段階にいたのだろう。もう長い間、北海道に住んでいて、その涼しい夏に慣れていた私の体は、この炎天下の暑さに対応できなかったのだ。

 それまで、夏の北アルプスなどにも度々、遠征していたのだが、これほどの暑さを感じたことはなかった。考えてみれば、高度が上がるにつれて気温が下がるという、気温の低減率(100mごとに、-0.6度下がる)から言っても、3000mの北アルプスと2000mの飯豊連峰とでは、6度もの気温の差があるのだ。
 そのうえ、後で知ったのだが、その頃本州では、梅雨明けの晴れの天気の中、連日35度を越える猛暑日が続いていたのだ。

 そうして一息ついた後、再び暑いジグザグの道に戻り、何とか鉾立峰に上がりゆっくり休んだ後、さらに下って登り返し、ニッコウキスゲの群落の中、杁差岳直下にある山小屋への緩やかな道を、よたよたとたどって行った。
 結局7時間半もかかって着いた、無人の避難小屋には、朝、同じ乗り合いタクシーに乗っていた若い彼がいた。下の雪渓の水場で汲んできたという冷たい水を飲ませてもらいながら、話を聞くと、彼は1時間半ほど前に着いたとのことだった。
 あーあ、年は取りたくないものだ。

 その後、夕方の4時くらいまでに、さらに4人の登山者たちがやってきた。若者たちから、私と同年代の人まで、全員が単独行者たちであり、本当に山が好きな人たちだった。
 それぞれに、違う所から来て、同じ小屋で一緒に泊り、その間、皆で和気あいあいに山の話をして、翌日またそれぞれに一人ずつ、出発して行っただけのことだ、お互いの名前も年も仕事も知らないまま。しかし、皆、いい山男たちだった。

 夕方にかけて、あれほど広がっていた雲もおさまり晴れてきて、快晴の空になり、ニッコウキスゲの咲く斜面の彼方に、南に続く飯豊主稜線の山々がくっきりと見えてきた。(写真、左は飯豊本山、中央は地神山からの主稜線)
 さらに、日本海に夕日が沈んでゆき、北側には鳥海(ちょうかい)、朝日、蔵王、吾妻(あづま)などの東北の名山たちのシルエットが見えていた。

 明日も晴れるだろう。しかし、暑さのために、一日目からバテバテになった私には、とてもこれからの長い行程を歩き続けていく自信はなかった。明日の自分の体調を見て、悪ければ、今日登ってきた道を引き返すしかないと思った。
 それでもいいと思うほどに、この杁差岳からの眺めは素晴らしく、ツアー客たちもいない、山仲間たちだけのこの避難小屋の居心地の良さとあいまって、私は、それだけでも飯豊の山の良さを知ったことになるのだからと、自分に言い聞かせていた。
 あちこちからいびきが聞こえてくる小屋の中で、私は、寝苦しさのために寝袋の中から足を出して、満ち足りた思いと不安な思いの中で、何度も寝返りを打ち、いつしかまどろんでいった。

 次回へと続く。

                      飼い主より 敬具