ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(105)

2010-07-06 22:58:43 | Weblog



7月6日

 拝啓 ミャオ様

 ミャオを九州に置いたまま、この家に戻ってきてから2週間ほどになる。最初の一週間は草刈りに精を出し、次の一週間は、雨の合間に少しずつ草取りをしている。
 というのも、ここは林の中にある家だから、蚊やアブが襲ってくる中での草刈りと草取りは、この家に住む限りはやらなければならない、永遠に私に課せられた仕事でもある。
 冬にもここにいる時には、その草取りのかわりに、あの雪かきの仕事がある。それは、ぐうたらに暮らす私に神様が与えてくれた、日課の戒(いまし)めのごとき仕事なのだ。

 しかし、私の家の周りに生えるその草たちにしてみれば、つまりササ、ヨモギ、セイタカアワダチソウ、タンポポ、オオバコ、スイバ、ハコベ、クローバー、牧草などは、それぞれに生きるために、成長し続け、生い茂っているのに、私はそれを無情にも刈り払い引き抜いていく。
 自分の好みや都合のために、ある時は他者を保護してやり、ある時は排除する。前にも書いたことがあるけれど、それは動物行動学や遺伝子論的にもいわれていることだが、生き物はすべて、まずは自分のためだけに生きているからだ。
 しかし、前回にもあげた夏目漱石の『草枕』に書いてあるように、それでは余りにも孤独で息苦しいから、時にはやさしく他者を思いやる気持ちになるのだろう。
 それは、私のわがままな行動の向こうにいる、哀れなミャオへの思いでもある。

 1週間ほど曇りや雨の日が続いた後、昨日、午後になってからようやく青空が広がった。しかし、その青空は、少しかすんで湿っぽく、まだ26度くらいの気温だけれど、蒸し暑く感じられた。
 いつもなら、今の時期の北海道には、北からのオホーツク海高気圧が張り出していて、この十勝や釧路などの道東では、朝夕霧がかかっていても、日中は爽やかな風の吹き渡る青空が広がっているはずなのに。
 毎日、そんな梅雨のような湿度の高いじめじめとした天気の空模様が続けば、いつしか自分の心までが曇ってきてしまう。

 それだから、わずかばかりではあったが、昨日の久しぶりの晴れ間は嬉しかった。家の周りの木々や草花が、明るく輝いていた。まだ湿気の高い感じが残っていたが、ともかく草取りの仕事もあったし、何よりも久しぶりの青空の下で、外に出ていたかった。
 まず日陰になった部分の草取りをして、その後、日が当たり暑くなってくると、林の中の小道の草刈りをした。一汗かいて、戻ってくると、前回に写真を載せた、あのムシトリナデシコの花の周りに、一匹の蝶が飛んでいた。

 それは、一昨年にも撮ったミヤマカラスアゲハである(’08.5.28の項)。何度見ても、満開になったムシトリナデシコの花にとまる蝶の姿は美しい。
 私は、またしても写真を撮るべく、家の中からカメラを持って戻ってきた。しかし、私の動く気配を察してか、そのチョウは高く舞い上がり、何度か舞い戻り近づいたが、花にとまることなくその後遠くへと飛んで行った。
 私は、日陰になった玄関に腰を下ろし、汗をふいた。少し風が吹いてきて、見上げる青空の下に木々の葉が揺れていた。久しぶりの日に照らされ、明るい陰影をつけて輝く草花たちの姿は、昨日までの曇り空の下の風景とは違って見えた。

 その時、林の中から、とっくに繁殖期を過ぎたはずのエゾハルゼミが一匹鳴き始め、やがてすぐに鳴きやんだ。そして、別の蝶がヒラヒラと舞い降りてきて、ムシトリナデシコの花にとまった。
 コヒョウモンだった(写真)。花と同じ暖色系の明るい羽の色、その今を盛りに咲く二つの色合いは、まさに彼らの生きているしるしだった。
 私が何枚か写真を撮った後、その蝶は飛び去っていった。

 コヒョウモンは、本州では中部の山間部に行かないと見られないが、北海道では、比較的どこでも見られる蝶のひとつである。写真に撮ったものは、鮮やかな緋色からして、たぶんオスのコヒョウモンだろうが、この家の庭でさえ毎年見られるものだ。
 先日、大雪山で、希少種のウスバキチョウやダイセツタカネヒカゲなど、百数十匹を捕まえた愛好家が摘発されていた。それほどの数がいなくなれば、今までよく見かけたことのある大雪のあの稜線辺りでは、これから行ったとしても、もう見ることができないだろう。
 蝶は、飛んでいるからこそ、自然の草花の中にいるからこそ、生き生きとして美しいのに。人は、自分の手に入らない美しいものだから、憧れ続け、目を輝かせて、星に祈るのだ。

 「 神様、わたしに星をとりにやらせて下さい、
   そういたしましたら病気のわたしの心が
   少しは静まるかもしれません・・・ 」
   (『ジャム詩集』 堀口大学訳 新潮文庫)

 そうして熱望する思いこそが、夢になり、詩となって、人々の心を空の高みへと舞い上げる。誰も本当に、星をとることなどできはしないと分かっていて。
 もし星をとった時には、夢は粉々のかけらに砕け散ってしまうはず。子供の頃、絵本を読んだことのある人なら誰でも知っていることだ。
 彼らは、たくさんの蝶を捕まえて、他の人たちの夢を壊し、恐らくは後になって、自分の夢をも壊したことに気づくだろう。

 確かに私は、草を引き抜き草刈りをする。そして、腕にとまった蚊を、ピシャリと叩きつぶすだろう。私は、キリストの教えを守って、叩かれた右の頬(ほお)の次に左の頬まで差し出すようなことはしないだろうし、究極の仏の教えのたとえにあるように、飢えたトラを救うために自分の体を投げ出すこともできない。
 
 つまり、前にNHK・教育で放送された、あのハーバード大学サンデル教授の講義にあったように(6月22日の項参照)、現代の”正義”とは、社会の中の様々な人々の立場や関係を考えた上で、決められることなのだ。
 私がこの夏に叩きつぶすであろう150匹の蚊と、大雪山の希少種の蝶、150匹とを比べるまでもないことだ。


 こんな話はもうやめよう、いつもの年寄りの説教グセにしかならないからだ。そして、ただ心静かに、バッハの音楽でも聴くことにしよう。
 そこで思い出したバッハの曲について、二つの話。

 一つは、数日前に、NHK・教育で放送された「バッハの夕べ」である。それは、一年前の東京での演奏会の録画であり、フルートはベルリン・フィル首席奏者のエマニュエル・パユ、チェンバロは今ではもう古楽演奏界の大家の一人になったトレヴァー・ピノック、そしてチェロはオランダ古楽界で活躍するジョナサン・マンソンであり、バッハのフルート・ソナタの数曲を中心にしたプログラムだった。

 名手パユのフルートの巧みさはもとより、通奏低音部を落ち着いて支える、ピノック、マンソンとのアンサンブルを十分楽しむことができた。そしてそれぞれの、ソロ演奏の中で、マンソンは「無伴奏チェロ組曲」の中の第一番ト長調を演奏した。
 それは最近の若い奏者たちにありがちな、バッハの舞曲楽節を際だたせるために強弱のテンポをつけたり、技術を強調したりという自己主張を感じさせるものではなかった。
 彼は、バッハの意図したであろうテンポを守り、淡々としかしひたすらにチェロを弾き続けた。単調さの中に浮かび上がってきたのは、誠実な生の深遠のひと時だった。

 もう一つは、この前ミャオのいる九州に戻った時、その際にCD店に立ち寄って買った、マリー=クレール・アランの3度目の録音、『バッハ・オルガン曲全集』(ERATO 14枚組)である。
 レコードの時代から、彼女のオルガン曲は聴いているし、CDも5枚ほど持っていたが、その重複も覚悟して買ったのだが、しかし、それだけのことはあった。
 同じオルガン全集として、あの有名なヴァルヒャのCD(ARCHIV 12枚組)も持っているし、他にも単発物として、レオンハルトやコープマンのものなどいろいろと聴くいてはきたのだが、この年になって改めて聴きなおしたアランのオルガンの響きは、どこか懐かしく、静かに私の心の中に響き渡った。
 そうだったのだ、私の居たい場所は、と今にして気づくように・・・。

 ミャオ、私もオマエと同じようにに少しずつ、年をとっているのかもしれないね。

                      飼い主より 敬具