ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(106)

2010-07-10 19:56:48 | Weblog



7月10日

 拝啓 ミャオ様

 朝早くは、あたり一面に霧がかかり、やがてその霧は取れても、雲が垂れ込めたまま、日中薄日が差しても、晴れ間は見えず、午後にかけて再び雲が厚くなり、夕方にはまた霧がかかり、夜になる。
 そんな毎日が続いた後、今日は一日中、音を立てて雨が降っている。もうずいぶん長い間、山に行っていない。一月近くにもなる、辛いことだ。 
 こちらに戻ってきて、すぐの三日間は天気が良かった。とりわけ、あの最初の一日は、年に何度もないような、素晴らしく空気の澄んだ快晴の日だった(6月26日の項)のに。
 いまさら言っても仕方のないことだが、私は、その日、草刈をしていた。ひとり残してきた、ミャオの境遇に気兼ねして、山に行きたい気持ちを抑え、やせ我慢(がまん)して、自分に言い聞かせるように、草刈り仕事に励んだのだ。
 しかし、その後なんと2週間も、はっきりしない天気の日が続いている。人生には、そんなめぐり合わせの悪い時がよくあるものだ。

 そして昨日、相変わらずの曇り空の蒸し暑い日に、買い物と気晴らしをかねて、近くの大きな町に行ってきた。100円ショップで数点を買い、スーパーでは食料品をあれこれ買い、ついでに銭湯に行ってゆっくりと汗を流し、いい気分になった。クルマの窓を開けて風を入れながら走り、家に向かった。
 大きな街ではないから、ほんの数分走れば、すぐに郊外に出る。辺りには、広大な十勝平野の風景が広がっている。
 あいにくの曇り空のために、日高山脈の山々が見えないのは残念だけれども、四方に区切られて、それぞれに少しずつ緑の色合いが違う、畑の風景が続いていく。
 びっしりと濃い緑に被われたビート(砂糖大根)畑、そして緑のデントコーン(飼料用トウモロコシ)畑、少し明るい緑色の豆畑、二番牧草の刈り取りが終わり黄緑色になった牧草畑、さらに黄色から黄金色に変わろうとしている収穫前の小麦畑、そして彩り鮮やかに、紫(メイクイーン)や白い(ベニマルなど)花の色が広がるジャガイモ畑・・・。
 街中に住んでいれば便利なことが多く、田舎に住んでいれば不便なことも多い、もちろんその反対のこともあり、どちらが優れているなどとは言えないのだろうが、ただ私は、こうして田舎にいることで、幸せな気分になるというだけのことだ。

 いつしか、あの『北の国から』の「愛のテーマ」のメロディーが口笛となって出てくる。隣に愛する人でも座っていれば、言うことはないのだが。(ニャーオ、おおミャオか。でも、そういったってオマエはクルマが嫌いじゃないか。)
 もっとも、ふと見たバックミラーに映るおのれの顔に、現実に戻ってしまう。中年のがんこオヤジ、鬼瓦熊三(おにがわらくまぞう)の情けない顔など見たくもないのに、なぜにこの世には、鏡などというものがあるのだ。
 まあ、馬鹿な人間ほど夢を見たがるものだから、仕方がないのだと言い聞かせ、次いで口を出たのは、よくは覚えていない昔の演歌の一節・・・。

 「・・・曲げてなるかよ、くじけちゃならぬ。どうせこの世はいっぽんどっこ(一本独鈷)。・・・敵は百万、味方はひとり。なんの世間は、怖くはないが・・・」
 と切れ切れに、その歌を思い出した。メロディーは覚えているのだが、歌詞はあやふやだ。それでもいい気分で口ずさみつつ家に帰ってきた。
 確か、子供の頃に聞いた歌で、村田英雄の『人生劇場』に似ているが違う。歌手は、畠山何とかだったはず。インターネットはありがたいもので、昔なら調べようもないものまで間単に、探し出してくれる。

 『出世街道』(星野哲郎作詞、市川昭介作曲、畠山みどり歌)
 「やるぞ見ておれ、口には出さず、腹におさめた一途な夢を、・・・」、と最初からの歌詞が書いてある。そして3番の歌詞にも、聞き覚えがある。
 「他人(ひと)に好かれて、いい子になって、
  落ちていくときゃ独りじゃないか・・・」

 私は、その前日に、録画していたあの4月の『歌舞伎座さよなら公演』の、出し物などを見たばかりだった。それらのことも関係していて、ふと思いついたのだ。日本人の心情の一つには、この”やせ我慢”があるのではないのかと。

 あの『万葉集』の時代から、長い歴史の混乱の中で、運命的に思えるほどに繰り返されて来た悲惨な出来事、それに悲しみ耐え忍ぶ人々の思いは、その合間にあった平和の時代な中では、個人的な物語として、悲劇的に増幅され、営々として受け継がれてきたのではないのか。
 よく言えば整然として我慢強く、悪く言えば、サディスティックで、自己犠牲的な国民性として。
 
 私たち中高年の世代は、子供の時代から、すでに戦後のアメリカ文化の氾濫(はんらん)の中にあったとはいえ、当時のラジオはもとより、放送され始めたテレビからも、まだ日本文化の色濃いもの、当時の流行歌(演歌などとは言わなかった)や民謡、そして浪花節(なにわぶし)に、講談(こうだん)などが流れていて、それを聞いて育ってきたのだ。
 そんな歌など日ごろ歌わないはずなのに、ふと口をついて出るほどに、日本人としての自分の心が覚えていたのだ。もちろんそれは、流行歌などだけに留まらない。紙芝居に貸本に、そしてたまに見る映画に、さらにいつも聞かされていた、周りの大人たちの話に、知らず知らずのうちに、日本人としての心の元になるものを蓄えていったのかもしれない。
 人は環境を作り、環境は人を作るのだ。
 
 さて今の時代でも、そんな日本人としての私たちの心、日本人としての心のありようを教えてくれるものの一つが、伝統大衆芸能として昔の時代から続いてきた、歌舞伎なのである。
 一週間前に、NHK・BSで、あの4月の「歌舞伎座さよなら公演」での演目の二つが、放送された。(去年11月の『仮名手本忠臣蔵』公演については、3月27日の項参照。)

 一つは、『実録先代萩(じつろくせんだいはぎ)』であり、元々はあの仙台藩お家騒動を基に書かれた『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』が、明治時代に書き改められたものとのことだが、中村芝翫(しかん)、松本幸四郎、中村橋之助の顔ぶれはともかく、やはり乳母の浅岡役の芝翫と(自分の孫でもある)子役二人の愁嘆場(しゅうたんば)が見せ場になっている。
 それは、歌舞伎の話のテーマの一つである自己犠牲、つまり他人事(ひとごと)とは思えないよくある出来事での、つらいやせ我慢の場でもあるのだ。

 しかし何よりも見ものだったのは、次の、あの歌舞伎十八番のうちの一つとして有名な『助六』、つまり『助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)』である。
 この市川團十郎(だんじゅうろう)のお家芸でもある”助六”の周りに集まった、今をときめく豪華な役者たちの面々、花魁揚巻(おいらん、あげまき)の坂東玉三郎、花魁白玉に中村福助、ひげの意休(いきゅう)に市川左團次、くわんぺら門兵衛に片岡仁左衛門、白酒売りに尾上菊五郎、かつぎ役の坂東三津五郎、通人に中村勘三郎などなど、全く二度と見られぬような顔合わせであり、ただただ、彼らを見ているだけでも楽しかった。

 白血病という大病を克服して復帰したばかりの、十二代團十郎の元気な姿を見られたのは嬉しかったが、あの三大テノールの一人、ホセ・カレーラスが同じ病から復帰した時のように、やはり病後の影は隠せない。少し酷なようで申し訳ないが、そのすぐ後に新橋演舞場、五月大歌舞伎公演で、同じ”助六”を演じたという、次の團十郎を継ぐ市川海老蔵(えびぞう)の、若々しく切れの良い演技だったらとさえ思った。(海老蔵はここでは、なんと口上役を務めていた。)
 とは言っても、さすがに團十郎、じっくりと型にはいる姿は見事であり、さらにいつ見ても姿かたちが群を抜く、あの玉三郎の揚巻との、意休を相手の場面での、二人の型を決めた立ち姿は、さすが、これぞ十八番歌舞伎だと思わせるものだった(写真)。

 物語は、あの鎌倉時代の曽我兄弟の仇討ち物語と、江戸時代の吉原での話を結びつけるという、時代を超えたものだが、歌舞伎には良くあることだ。重要なのは、人の情けと心意気を描いた話の推移なのだから。
 助六、実は曽我五郎は、島原の遊郭(ゆうかく)三浦屋の揚巻と互いに思い合う仲になりながら、客の集まる吉原で、そんな客たちを相手にけんかを売り、刀を抜かせては、源氏の宝刀を探していた。そこに、白酒売りに身を変えた兄の曽我十郎や、侍姿を装って兄弟の身を案じる母などがやってくるのだが、その日もしつこく揚巻に言い寄っていた意休に、悪態をついてはついに刀を抜かせて、それが探していた宝刀であることを知る。
 今回の『助六』は、ここまでの一幕ものになっているだが、この後、意休を殺して刀を奪い返し、揚巻と伴に逃げて、大きな用水桶に入るという、いわゆる「水入りの場」があり、若い海老蔵の公演ではそこまであったそうだ。

 ともあれ、この公演に何の文句をつけることがあろう、團十郎、左團次、菊五郎、仁左衛門、三津五郎、勘三郎などそれぞれの一門を率いる名優たちの芸を、その芸風を比べながら、見ることのできる楽しみ。できることなら、私も何度か行ったことのある、あの歌舞伎座の空間の中で、彼らの声の響き、所作(しょさ)の雰囲気をも感じてみたかった。
 しかし、テレビで見ると、この時の観客たちの異常なまでの盛り上がりと、繰り返される拍手は、どう受け取ったらよいのか、あのオペラの時のブラボーと同じように、素直に興奮を伝えたものだとは思うのだが・・・。

 この二つの歌舞伎の後に、時間が余っていたからとでもいうように、あの近松門左衛門の人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)、『用明天皇職人鑑(ようめいてんのうしょくにんかがみ)』の、三段目の「鐘入りの段」だけが放映されていた。
 この作品は、実は1年前に、ここでも三味線を弾いている鶴澤清治の手によって、200年ぶりに復活公演されたものということだった。この三段目のクライマックス、女がその姿を大蛇に変えて、その人形の動きと浄瑠璃の語りに三味線他が、風雲急を告げて演じ合う様の見事さ・・・。

 この時の公演を、全段を通して見たいと思うのは、私だけではないだろう。日本の誇る古典、それを基にして演じられてきた、古典芸能をよく知りたいと思うこと・・・。

 我々はどこへ行くのか、と問われても答えられない。しかし我々はどこから来たのかと、その源を探ることなら、幾らかではあるが知ることはできるのだ・・・。

 もっとも、ミャオにとっては、自分の出自(しゅつじ)なんてことよりは、今の自分が、どう毎日を生きるかだけが問題なのだろうが。ごめんね、いい加減な飼い主で。

                      飼い主より 敬具