7月28日
拝啓 ミャオ様
二週間近くもの間、連絡もせずにいて申し訳ない。九州の暑さの中で、ぐったりとして寝ているだろうミャオのことを思うと、少しは気がひけるのだが、今年もまた、本州遠征の山旅に出かけてきた。
ミャオのように、半ノラになって、ただ生きていくために苦労しているのと、私のように自分の楽しみのために苦労するのとは、エライ違いがある。
それなのに、弁解がましく聞こえるかも知れないけれど、私の山登りの楽しみは、単なる快楽を求めての容易(たやす)い道楽ではなく、大いなる困苦を経てようやくたどり着けるものなのだ。
それは、あのベートーヴェンの有名な言葉、「苦悩をつきぬけて歓喜にいたる」ほどではないにしろ、少し言葉で飾って言えば、幾たびとなく繰り返し行われてきた、大自然の聖地への巡礼の旅だとも言えるだろう。
古代の拝火教(はいかきょう、ゾロアスター教)ならぬ、拝山教にとりつかれた長年の信者として、その歩みを止めるわけには行かないのだ。
生き物は普通には、本能的に自分自身を守るとき以外は、死ぬかもしれないような危険な行動をあえて冒(おか)すことはしないものだ。
しかしその理屈と本能を越えて、生き物たちはまるで運命に操られるがごとくに、逢魔ヶ時(おうまがとき)に魅せられたように、危険な道に入り込んでゆく時がある。
その入り口は、決してまがまがしい恐怖に彩(いろど)られたものではなく、むしろ、苦痛と陶酔のはざ間に見られるような、静かな単調な景色の中にあるのかもしれない。
というのは、この度の山登りの最初の日に、私の意識はもうろうとなり、薄く開けた目の先には、もう何も見ていなかったのかもしれない。情けないことに、暑さの中で、それほどまでに疲れ果ててしまっていたのだ。
さてすっかり前置きが長くなったけれど、今回、私は新潟、山形、福島の県境に位置する、飯豊(いいで)連峰に登ってきた。(写真、足の松尾根の登りより二つ峰1642m)
もう何年もの間、山への交通の便が良くなる7月の頃に、本州の山への遠征登山をしている。
それは、東京にいた若いころから、何度も日本アルプスなどの山々に登っていたのだが、その後、北海道に移り住んでからも、もちろん北海道の山々に関する愛情は変わらないのだが、それと同じように、かつて登った北、南、中央のアルプスや八ヶ岳などの山々の姿を、再度見たくなってきたからだ。
私は、あのやさしい言葉で山に登る楽しみを書きまとめた、深田久弥氏の『日本百名山』は、日本の山岳文学の優れた一冊であると思っている。
その温かい人柄を映し出しているような、彼の文章を求めて、何冊もの古書を買い求めたこともある。
しかし、彼の選定した日本の百名山は、人とのかかわりや歴史に重きが置かれていて、逆に人とのかかわりが少ない山にこそ、その価値を認めたい私とでは、その点で大きく異なっている。
つまり私は、その秀(ひい)でた山の姿かたちはもとより、注目すべき植生や、より深い自然の中にある山々こそが、名山たる資格があると思っているのだ。
中高年登山者の間でのブームだといわれている百名山、あるいは二百名山のすべてを踏破することを目的にするくらいなら、自分の好きな山々に季節やルートを変えて、繰り返し登った方がましだ。
もちろん私も、選ばれた殆んどの山は、確かに百名山にふさわしい姿かたちをしていると思っているし、何冊もの山の写真集や案内書を見ては、いつかはそれらの幾つかには登ってみたいと思っている。
そんな山々の中で、私が元気で生きている間に、どうしても登っておきたいと強く思っていた山が、東北南部の飯豊山だったのだ。
私は、いつもの夏の本州遠征登山のために、二ヵ月前の安い飛行機切符を買っておく。そうやって、すでに決められた期日の中で、問題はいつも天気ということになる。その時に、都合良く晴れてくれるとは限らないからだ。
つまり、どの山域に向かうかは、幾つかの計画を立てておいて、夏の高気圧の張り出しと週間予報を見て、ぎりぎりの前日になって決めるのだが、それでも前年(’09.7.29の項)のように、さらに行く先を変えることさえあるのだ。
それは、山は晴れた時に登らないと、一番大事な周りの大自然の景色が見えないし、その山の何たるかも分からないからだ。つまりは、私なりにその山への評価をする上で、失礼にあたるというものだ。
もうずっと前から、飯豊山には登りたいと思っていた。2000m前後にすぎないという標高の割には、名にしおう豪雪地帯ゆえに、残雪多き山であり、数多くの高山植物の花畑が点在し、おおらかに広がり連なる山々の写真を見るにつけ、どうしても行きたいという思いはふくらむばかりだった。
山に登る三日前の、梅雨明け宣言は嬉しくもあり、心配でもあった。つまり、梅雨明け十日の好天と言われてはいるが、いつまで天気がもつかは分からない。案の定、週間天気では、数日後の週末には崩れる予報になっていた。
それなら、高気圧の張り出しにより近い南アルプスに行くか、前の日まで、考えていた。その日の朝、天気が崩れる予報が一日伸びていた。
決めた。『サイ(さいころ)は投げられた。』のだ。あの敵対する元老院のあるローマへと向かうべく、ルビコン川を渡る、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)と同じ心境だったのだ。
それは、大げさな決断だと笑われるかもしれない。人々は、ありふれたことわざのように、繰り返し私をさとし言うだろう。「山は逃げないから、また次に行けばいい」と。
そうではない。時は足早に過ぎ去るし、山はいつの間にか、自分の手の届かない所に逃げていく。その一瞬の光陰の価値を知ることが、生きている今の自分を知ることなのだ。
「 命、短し、恋せよ乙女(おとめ)
朱(あか)き唇、褪(あ)せぬ間に
熱き血潮の、冷えぬ間に
明日の月日は、ないものを 」
『ゴンドラの唄』(大正4年)、松井須磨子歌・吉井勇作詞・中山晋平作曲。 (この松井須磨子の歌は、東京で働いていた時の仕事に関係して、原盤のものを聞いたことがある。さらに、1952年の黒澤明監督の映画、『生きる』のラスト・シーンで、名優、志村喬(しむらたかし)によって印象深く歌われていた。同じ歌でも、時代と歌い方でこれほどに意味合いが違ってくるくるものか。)
さて次回からは、この4日間の飯豊山縦走についての話を書くつもりだ。
この暑さの中、どうかミャオも元気でいてくれ。
飼い主より 敬具