90歳を超えてなお知的な好奇心が旺盛な孤老がいる。古今東西の哲学思想、歴史や宗教に造詣が深い。ひとたび語り始めると口調はあくまで熱く、発する言葉にはよどみがない。まるで私のようだと揶揄するひともいる。しかし私はこの歳になって、ひとが抱く観念や知識の蓄積、すなわち知性の働きそのものに懐疑的になってしまった。目下ヒュームの力を借りながら知性の働きについて探求中だ。むしろ古老の対極にいる身だといわざるをえない。
孤老によれば、人は哲学、宗教、倫理等に通暁することによって知の高みに達することができる。その高みに達するために日々思索・読書せよということだ。入滅の際に「万物は移りゆくものだ。日々精進せよ。」と弟子たちに言い残した釈迦のごとく禁欲的なのだ。読むことに理由などない。楽しいから自由に読んでいる。哲学や思想関係の本を読むことが多いのは結果であって原因ではない。だから孤老と私、彼此の依って立つ読書の意義がまったく異なっている。
孤老によれば、人は哲学、宗教、倫理等に通暁することによって知の高みに達することができる。その高みに達するために日々思索・読書せよということだ。入滅の際に「万物は移りゆくものだ。日々精進せよ。」と弟子たちに言い残した釈迦のごとく禁欲的なのだ。読むことに理由などない。楽しいから自由に読んでいる。哲学や思想関係の本を読むことが多いのは結果であって原因ではない。だから孤老と私、彼此の依って立つ読書の意義がまったく異なっている。