昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

毛蟹釣り

2004-05-04 18:30:51 | じゃこしか爺さんの想い出話
 樺太の最北に位置する場所でも、五月になると海の水もすっかり温んで来る。私ら子ども等の遊び場所は、それまでの山や川遊びから海岸に移動する。これからの話は私たち家族が住んでいた樺太最大手の炭砿街を、終戦時父(在郷軍人)が行方不明となり、病弱な母と私たち弟妹が止む無くその街を離れ、母の姉たちが住む海岸町に移り住んだ時のことである。
 海水が大分温くなったからと云っても、海水浴にはまだまだ無理で、水際の辺りを棒切れを手に走り回って、チャンバラの真似事をしたり、遠浅に足を入れ逃げ遅れた「ツブ貝」などを捕らえた。そんな遊びの中でも一番なのが、毛蟹釣りである。この海岸町の裏山には小規模ながら炭砿が在ったから、戦後になっても石炭積み出し用の桟橋が残っていた。其処も当然子どもたちの遊び場とされていたが、危険な場所として濫りに近寄る事は停められていた。しかし小学生の高学年とも成れば、一々誰もそんなことは気には留めない。風が落ちて海の凪ぐ午後になると、「ミガキ鰊」の頭を結わい付けた荒縄を手にした子ども達が、桟橋の先端部分に集まって来る。そして思いも思いの場所を陣取り、歩み板の隙間からその餌の付けた荒縄を海中に繰り出すのである。大きく潮が引いて海面の静かな時には、海中が見渡せ岩の隙間や桟橋の脚注の隙間に巣食っている毛蟹がのそのそと用心深げに出て来て、荒縄の先の「鰊の頭」にしがみ付くのが見られる事がある。しっかりと抱き付いた頃合を見計らって吊り上げるのだが、水中ではともかく水面から離れる時のタイミングが一番難しい。どんなに大物だと喜んでいても、水際で餌を離されて仕舞っては全く水の泡・・泣くに泣けない気持となる。小さい子は大抵ベソを掻く始末となる。海中が手に取るように判るような凪の日は何時も有るわけでないので、海面が波立って居たり海水が濁って何も見え無い時は、目くら滅法投げ込み手先に来る感触を頼るより他に手は無い。それでも長時間飽きずに粘って居ると、それなりの収穫が見込まれる。それらを持ち寄って海岸の砂浜に集まり、流木の陰に焚き火を起こし焼き上げた毛蟹を仲間で均等に食べるのである。この遊びはこの後も暫らくは続くのである。