「ムネの薬師」と呼ばれる薬師堂がある。
旧五ケ谷村の一つである奈良市米谷町、上ノ坊寿福寺境内より上にある墓地よりさらに階段を登ったところに建つ。
名阪国道の福住より下った高峰SAよりさらに下れば左側に見える建物がある。
それが現在地の薬師堂である。
名阪国道が計画されて工事が始まった。
元々あった地に名阪国道ができる。
そこは山の上の「峯」にあったことから「ミネの薬師」。
いつしか訛って「ムネの薬師」と呼ばれるようになった。
移転余儀なくされた薬師堂は工事地区から外されて現在地に移されたのは昭和39年。
その際に古い堂は壊して、新しく鉄骨製の堂を現在地に新築移設された。
その地を教えてくださったのは上ノ坊寿福寺のご住職であった。
2月4日に行われるオコナイ行事を取材いたしたくこの地を訪れていた。
場を知ってから2年も経った。
ようやく拝見できる米谷町の薬師堂に手水鉢がある。
古いように思えたのでじっくり拝見したら刻印が見られた。
刻印文字は「天明元年(1781)九月 奉寄進 壽福寺 施主 中畑村」であった。
米谷村と隣村の中畑村と関係する手水鉢である。
住職の話しによれば中畑村には寺院がなかった。
それが理由かどうかわからないが、米谷村には上ノ坊だけでなく中ノ坊もあった。
その中ノ坊の僧が関係しているのかもしれない、ということだ。
かつての寿福寺は米谷領の北端の不動の滝辺りにあった。
ところが安政の大地震<安政元年(1854)十一月四日から五日にかけて発生した東海並びに南海地震>によって発生した大山崩れによって現在地に移された。
最盛期には28坊もあったが、次第に衰退し、明治時代はかろうじて上之坊、中之坊、下之坊、新坊、蔵之坊が残った。
寿福寺の旧本尊は、木造薬師如来坐像であるが、別に薬師堂を設けたことによって安置したと伝わる。
そういうことから寿福寺からみれば薬師堂は奥の院である。
本尊台座に高さ14.5cmの十羅刹女立像が並ぶ。
その姿が美しくシャッターを押した。
米谷町のオコナイ行事は平成6年に発刊された『五ケ谷村史』に行事詳細が掲載されている。
一部省略、補正文を書いておく。
「塗香が一同に廻され手足を拭う。導師によって神名帳が読まれ、薬師悔過の読経がなされる。読経の途中に導師の“ダンジョウ(ランジョウとも)”の掛け声で参加者が一斉に柳の棒で叩く。これを2回行う。ダンジョウは“薬師さんは聞こえないから”するといい、以前はもっと大きな柳の木を使い、太鼓や竹筒を法螺貝の代わりに吹くこともやったという。読経が終わると参加者は“ゼニ カネ コメ”といいながら、牛玉宝印を手のひらに3回押してもらう。ミヤモリは、供え物として、柿、蜜柑、野菜、果物を用意する。また、酒肴として八寸の重箱に煮物を詰めてもってくる」とあった。
こうしたオコナイ行事は旧五ケ谷村の各村にあった。
興隆寺町は「オコナイ・弓のマトウチ」、南椿尾町も「オコナイ」をしていたが、現在、唯一所作を継承されてきたのが米谷町の「オコナイ」である。
「五ケ谷村史」に北椿尾町も「オコナイ」があると書かれていたが、作法もなく、3人のトーヤが籾種と般若心経祈祷札を用意して神職が祈祷する春の祈年祭に転じている。
『五ケ谷村史』に続きのオコナイ記事がある。
「二月四日。すでに述べたように、現在は小字ショコンデ付近にあるムネの薬師で行われる修二会の行事。当日は十一人衆、氏子総代、檀徒総代、町役員などが参加し、上ノ坊住職が導師となって行う。『定式』には“正月薬師堂御祈禱ノ定”として御供の“花餅”のことなどが記されている」と書いてあった。
『定式』とは、安政六年(1859)十一月、それ以前の宝暦六年(1756)書写本である『宮本定式之事 米谷村 社入中』のことである。
上ノ坊の僧の荻英記が安政六年に書き留めた『定式』の翻刻はたいへん貴重な史料となるだけに、“花餅”など薬師さんのオコナイ「修正会」のありかたを以下に記しておく。
一.正月元日之覚
先明神の御供米ニ 座衆壱人ニ餅米壱合ヅヽま(※ま)つめる也
一.三社鎮守之御膳ハ 餅五まいヅヽ柿壱串ヅヽひし壱ツ こう類也
右ハ神主より調備る也 牛王ハ鳥居一まい 三社三まい備る
一.御酒ハ本ともに拾六囚也 本ニあたつたる人
あわのひし大一ツ餅五枚柿壱串出すべし 本の人ハみき
代ハかヽらず 豆五合 くろめ百目大根二本是三色ハ
拾六人して出すべし
一.花餅(けひやう=けひょう)ハ座衆壱人ならば二枚 弐人あるいゑ(※え)にハ三枚備べし
一.社僧座頭御祈禱の御布施花餅弐拾壱まい渡す
しやくぢやう(※錫杖)の御布施社僧壱人ニ花餅三枚ツヽ渡す
月役分に牛王 根一まいヅヽ遣わす 以上
一.正月薬師堂御祈禱之定
先花餅(けひやう=けひょう))ハ座衆壱人に三枚ツヽ備べなり 同日鎮守様江
右花餅の内弐壱枚備べし又鎮守江牛王 根壱まいツヽ備べし
鎮守の分は神主江納也 正月三ケ日六日十四日鎮守 燈明ハ神主より備べし
一.社僧座頭御祈禱の役也 先牛王 根 壱まいツヽ薬師江備べし
是ハ社僧座頭江納 しやくぢやう(※錫杖)布施三枚ツヽ社僧江渡
月役ぶんに牛王 根壱まいツヽ渡 拾壱人の社人懐餅(ふところもち)三枚ツヽ渡
月役にも三枚ツヽ渡 拾壱人の社人大根二本ツヽ持参すべし
右之花餅の残りハ御祈禱の布施也
一.鎮守諸神の御酒代ハ座衆壱人ニ米壱合ツヽ出すべしなり
一.社僧座頭より茶の子に座衆壱人ニたうふ(※豆腐)一切 かき弐ツツヽ引ク次ニ茶を出す 以上
また、『五ケ谷村史』に、この薬師さんのオコナイに神仏混淆と思われる神社行事の記事もあった。
神事の場は村の鎮守社の白山比咩神社。
「2月1日の小正月行事。オッサンと呼ばれる上ノ坊住職も参る。宮司は神前で祈祷し、オッサンは拝殿で神名帳と般若心経を読む。十一人衆、氏子総代、佐多人(助侈人とも)が参加する。ミヤモリが漆の木を7本供える。祭典が終わると参列者は“ゼニ カネ コメ”といいながら、手のひらに牛玉宝印を押してもらう。お参りの人には“米谷宮”と書かれたゴオサン(牛王札)を配る」とある。
『定式』に登場している社僧は現在の上ノ坊寿福寺住職。
神主が村神主で、座頭はおそらく社僧とも、と考えられる。
一同が集まるころから年当番の佐多人が動く。
お花を飾って、お供えも調える。
そして、ローソクに火を点けていた。
定刻時間になるころに集まってきた宮座十一人衆。
氏子総代や助侈人ら、大勢の村人で薬師堂が満席になった。
この日に参集された19人は薬師さんに手を合わせてから席に着く。
その席の前に設えた幅広い板がある。
板に置いた棒もある。
その数、ざっと30本くらいもあるが、揃えたのは21本だったようだ。
この棒は祈祷中に住職が発声される「ランジョー」の掛け声を合図に目の前にある板をバンバン叩く棒である。
板を叩く道具はフジの木。
漆の木がなくてフジの木に切り替えたという人もおれば、漆の木に負けて被れる人もおったのでフジの木に替えたという証言もある。
しかも、だ。
かつては柳の木でしていたという証言もある。
上ノ坊寿福寺のT住職の話しによれば、柳の木はしなって痛いからフジの木の替えたというのである。
前述したように平成6年に発刊された『五ケ谷村史』では「一斉に柳の棒で叩く」である。
史料ならびに証言から考えるに、材は「柳」→「漆」→「藤」に移った可能性も考えられるが・・信憑性は不明としておこう。
祭壇には予め印刷されたごーさん札を束にして積んでいた。
字体は実に綺麗な機械印字のようだ。
中央の文字は「壽福寺」。
上ノ坊寿福寺である。
左側は「寶」に「印」であろう。
右は「牛」に寶印型紋様にあしらった「王」。
つまりは上ノ坊寿福寺でご祈祷されるゴオウサンの(牛王)札である。
牛王の宝印も朱肉入れは虫喰いが激しい穴ぼこだらけ。
その状態で古さがわかる。
かつてごーさんの書は版木で刷っていたが、今ではパソコン印刷になった。
昔から使っていた版木は朱肉入れと同様に虫食いが激しかった。
版木を刷っても文字がわかり難いからと云って、住職のお兄さんが版木を作った。
いつしかそれも使わなくなって、文字は綺麗な機械印字になったと住職が話す。
牛王は前述した『定式』に数回表記されている「牛王」のことである。
このお札は『五ケ谷村史』に写真が掲載されている。
一部を切り取って紹介しておこう。
本来であれば内陣の板の間を叩くの「縁叩き」であろうが、現在は「板叩き」の作法。
長老らがいうには子供のころから板叩きだったという。
長年の歴史を刻んできたかのように思える風合いの叩き板である。
また、ある人が云うには、その昔は廊下を叩いていたそうだ。
廊下とはお堂の回廊であろう。
その音は村中に聞こえてくるほど大きかったという。
米谷の薬師さんは白い眼をしておられる。
音で聞き分けるから「ランジョウ」があるという。
線香をくゆらした住職はご本尊の前に座った。
チーンとおりんが鳴る。
これより始まる作法は十一面悔過法要と同じ作法であると仰る。
鈴も振ってチリーン、チリーンと静かに響く音色が堂内に残響する。
数珠などの法具をもって行う作法。
続いて錫杖経に移る。
ご真言を唱えて、次に神名帳の読み上げ。
明治四拾壱年二月廿九日寫 和州 上之坊住職の記しがある『當村社修正月勧請證誠護法諸神名帳』に沿って読みあげる神々は、大梵天王、釋天王、四大天王、日月五星、二十八宿、閻魔法王、五道大神、大山府君、五頭天王、武塔天神・・・・金峯山大菩薩、那智大菩薩、熊野大菩薩、八幡大菩薩、但馬大菩薩、住吉大菩薩・・・・大明神・・・日本国中御座一万三千余所ノ大明神・・・・。
神名帳の読み上げが始まってから7分後のことである。
「ランジョゥーーーー」のお声が出たら、堂内におられる全員がフジの木を手にして板を叩きつける。
カタカタカタカタ・・・・。
連打する音が堂内に響く。
住職は読み上げると同時に神名帳の巻物を仕舞われる。
チーンとおりんを打って、1回目の「ランジョウ」が終われば般若心経に移る。
「ぶっせつまーかー・・・・はんにゃーしんぎょぅー」。
一つ呼吸をおいて「ランジョゥーーーー」のお声が出たら、フジの木を手にして板を叩きつける。
連打する音、カタカタカタカタ・・・・音が堂内に響く。
心経が唱えられてから数分後のことである。
叩き終わればピタッと音が消える。
静けさを取り戻したかのようなところにオリンがチーン。
「ランジョー」をすることによって村から悪霊を追いだしたのである。
束にしていたごーさん札は香炉にあててご祈祷をする。
そして唱えるご真言はオンコロコロ・・・・・なむだいしへんじょ-こんごー。
役目を終えた「ランジョー」叩きのフジの木は佐多人(助侈人とも)によって回収される。
こうして法会を終えたらお堂に板を敷いたままにして直会に移る。
用意ができたら大鍋で炊いたイモダイコを配るのも佐多人の役目。
しゃもじで掬ったドロイモにダイコン、ニンジンは自家製料理。
カワラケのような小皿に盛るのも難しい。
零さずに席に着いている村人に配っていく。
お神酒も注がれて直会はじめ。
みなさん、「今日はごくろうさまでした」と挨拶を受けて、一同は「いただきます」。
直会中に配られたのはつるし柿。
白い粉がふいているから、甘くて美味しい。
これも自家製である。
ヒラテンも入っているイモダイコの出汁が美味すぎる。
皆の口に合う美味な味のイモダイコ。
大鍋でたいたんは美味しいとお代わりは何度も頼まれる。
お神酒もあるから要望はあっちこちらで声があがる。
それから30分も経ったころだったろうか。
突然のごとく佐多人が動き出した。
ごーさんの朱印とベンガラ入りの朱肉を手にして席につく村人、一人ずつ座席の前に寄ってくる。
朱印を手に寄っていけば、手のひらを拡げて行為を待つ。
すると、「ゼニ」、「カネ」、「コメ」と云いながらてのひらに朱印を3回押す。
県内事例の朱印押しは額押しばかりであるが、ここ米谷町では手のひら押しであった。
『五ケ谷村史』に書いてあった太鼓叩きに竹筒吹きの貝吹きは見られなかった。
時期はいつなのかわからないが廃絶したようだ。
ちなみに四日前の2月1日は白山比咩神社で行われる「小正月」があったという。
その場においてもごーさん札が祈祷される。
前述した『五ケ谷村史』の2月1日の「小正月行事」である。
宮司は神前で祈祷し、住職は拝殿で神名帳を読みあげ、般若心経を唱える。
十一人衆、氏子総代、佐多人(助侈人とも)が参加する神事である。
ミヤモリは漆の木を7本供えると聞いている。
祭典が終わってからに薬師堂で行われた“ゼニ カネ コメ”の作法もする。
このときのごーさん札の文字は中央に「米谷宮」を配置しているという。
「寿福寺」を書かれたごーさん札の2枚で一対。
両方が揃って漆の木に挟んだ。
挟むところはT字型に割いた部分に、である。
種蒔(苗代)と田植えの両方に立てるというから、それぞれがどちらかになるようだ。
薬師さんのオコナイ取材を終えて車に戻る。
上ノ坊より下ったところに建つ民家の門屋。
節分につきもののヒイラギがあったが、イワシの頭はどこへ行ったやら、である。
(H29. 2. 4 EOS40D撮影)
旧五ケ谷村の一つである奈良市米谷町、上ノ坊寿福寺境内より上にある墓地よりさらに階段を登ったところに建つ。
名阪国道の福住より下った高峰SAよりさらに下れば左側に見える建物がある。
それが現在地の薬師堂である。
名阪国道が計画されて工事が始まった。
元々あった地に名阪国道ができる。
そこは山の上の「峯」にあったことから「ミネの薬師」。
いつしか訛って「ムネの薬師」と呼ばれるようになった。
移転余儀なくされた薬師堂は工事地区から外されて現在地に移されたのは昭和39年。
その際に古い堂は壊して、新しく鉄骨製の堂を現在地に新築移設された。
その地を教えてくださったのは上ノ坊寿福寺のご住職であった。
2月4日に行われるオコナイ行事を取材いたしたくこの地を訪れていた。
場を知ってから2年も経った。
ようやく拝見できる米谷町の薬師堂に手水鉢がある。
古いように思えたのでじっくり拝見したら刻印が見られた。
刻印文字は「天明元年(1781)九月 奉寄進 壽福寺 施主 中畑村」であった。
米谷村と隣村の中畑村と関係する手水鉢である。
住職の話しによれば中畑村には寺院がなかった。
それが理由かどうかわからないが、米谷村には上ノ坊だけでなく中ノ坊もあった。
その中ノ坊の僧が関係しているのかもしれない、ということだ。
かつての寿福寺は米谷領の北端の不動の滝辺りにあった。
ところが安政の大地震<安政元年(1854)十一月四日から五日にかけて発生した東海並びに南海地震>によって発生した大山崩れによって現在地に移された。
最盛期には28坊もあったが、次第に衰退し、明治時代はかろうじて上之坊、中之坊、下之坊、新坊、蔵之坊が残った。
寿福寺の旧本尊は、木造薬師如来坐像であるが、別に薬師堂を設けたことによって安置したと伝わる。
そういうことから寿福寺からみれば薬師堂は奥の院である。
本尊台座に高さ14.5cmの十羅刹女立像が並ぶ。
その姿が美しくシャッターを押した。
米谷町のオコナイ行事は平成6年に発刊された『五ケ谷村史』に行事詳細が掲載されている。
一部省略、補正文を書いておく。
「塗香が一同に廻され手足を拭う。導師によって神名帳が読まれ、薬師悔過の読経がなされる。読経の途中に導師の“ダンジョウ(ランジョウとも)”の掛け声で参加者が一斉に柳の棒で叩く。これを2回行う。ダンジョウは“薬師さんは聞こえないから”するといい、以前はもっと大きな柳の木を使い、太鼓や竹筒を法螺貝の代わりに吹くこともやったという。読経が終わると参加者は“ゼニ カネ コメ”といいながら、牛玉宝印を手のひらに3回押してもらう。ミヤモリは、供え物として、柿、蜜柑、野菜、果物を用意する。また、酒肴として八寸の重箱に煮物を詰めてもってくる」とあった。
こうしたオコナイ行事は旧五ケ谷村の各村にあった。
興隆寺町は「オコナイ・弓のマトウチ」、南椿尾町も「オコナイ」をしていたが、現在、唯一所作を継承されてきたのが米谷町の「オコナイ」である。
「五ケ谷村史」に北椿尾町も「オコナイ」があると書かれていたが、作法もなく、3人のトーヤが籾種と般若心経祈祷札を用意して神職が祈祷する春の祈年祭に転じている。
『五ケ谷村史』に続きのオコナイ記事がある。
「二月四日。すでに述べたように、現在は小字ショコンデ付近にあるムネの薬師で行われる修二会の行事。当日は十一人衆、氏子総代、檀徒総代、町役員などが参加し、上ノ坊住職が導師となって行う。『定式』には“正月薬師堂御祈禱ノ定”として御供の“花餅”のことなどが記されている」と書いてあった。
『定式』とは、安政六年(1859)十一月、それ以前の宝暦六年(1756)書写本である『宮本定式之事 米谷村 社入中』のことである。
上ノ坊の僧の荻英記が安政六年に書き留めた『定式』の翻刻はたいへん貴重な史料となるだけに、“花餅”など薬師さんのオコナイ「修正会」のありかたを以下に記しておく。
一.正月元日之覚
先明神の御供米ニ 座衆壱人ニ餅米壱合ヅヽま(※ま)つめる也
一.三社鎮守之御膳ハ 餅五まいヅヽ柿壱串ヅヽひし壱ツ こう類也
右ハ神主より調備る也 牛王ハ鳥居一まい 三社三まい備る
一.御酒ハ本ともに拾六囚也 本ニあたつたる人
あわのひし大一ツ餅五枚柿壱串出すべし 本の人ハみき
代ハかヽらず 豆五合 くろめ百目大根二本是三色ハ
拾六人して出すべし
一.花餅(けひやう=けひょう)ハ座衆壱人ならば二枚 弐人あるいゑ(※え)にハ三枚備べし
一.社僧座頭御祈禱の御布施花餅弐拾壱まい渡す
しやくぢやう(※錫杖)の御布施社僧壱人ニ花餅三枚ツヽ渡す
月役分に牛王 根一まいヅヽ遣わす 以上
一.正月薬師堂御祈禱之定
先花餅(けひやう=けひょう))ハ座衆壱人に三枚ツヽ備べなり 同日鎮守様江
右花餅の内弐壱枚備べし又鎮守江牛王 根壱まいツヽ備べし
鎮守の分は神主江納也 正月三ケ日六日十四日鎮守 燈明ハ神主より備べし
一.社僧座頭御祈禱の役也 先牛王 根 壱まいツヽ薬師江備べし
是ハ社僧座頭江納 しやくぢやう(※錫杖)布施三枚ツヽ社僧江渡
月役ぶんに牛王 根壱まいツヽ渡 拾壱人の社人懐餅(ふところもち)三枚ツヽ渡
月役にも三枚ツヽ渡 拾壱人の社人大根二本ツヽ持参すべし
右之花餅の残りハ御祈禱の布施也
一.鎮守諸神の御酒代ハ座衆壱人ニ米壱合ツヽ出すべしなり
一.社僧座頭より茶の子に座衆壱人ニたうふ(※豆腐)一切 かき弐ツツヽ引ク次ニ茶を出す 以上
また、『五ケ谷村史』に、この薬師さんのオコナイに神仏混淆と思われる神社行事の記事もあった。
神事の場は村の鎮守社の白山比咩神社。
「2月1日の小正月行事。オッサンと呼ばれる上ノ坊住職も参る。宮司は神前で祈祷し、オッサンは拝殿で神名帳と般若心経を読む。十一人衆、氏子総代、佐多人(助侈人とも)が参加する。ミヤモリが漆の木を7本供える。祭典が終わると参列者は“ゼニ カネ コメ”といいながら、手のひらに牛玉宝印を押してもらう。お参りの人には“米谷宮”と書かれたゴオサン(牛王札)を配る」とある。
『定式』に登場している社僧は現在の上ノ坊寿福寺住職。
神主が村神主で、座頭はおそらく社僧とも、と考えられる。
一同が集まるころから年当番の佐多人が動く。
お花を飾って、お供えも調える。
そして、ローソクに火を点けていた。
定刻時間になるころに集まってきた宮座十一人衆。
氏子総代や助侈人ら、大勢の村人で薬師堂が満席になった。
この日に参集された19人は薬師さんに手を合わせてから席に着く。
その席の前に設えた幅広い板がある。
板に置いた棒もある。
その数、ざっと30本くらいもあるが、揃えたのは21本だったようだ。
この棒は祈祷中に住職が発声される「ランジョー」の掛け声を合図に目の前にある板をバンバン叩く棒である。
板を叩く道具はフジの木。
漆の木がなくてフジの木に切り替えたという人もおれば、漆の木に負けて被れる人もおったのでフジの木に替えたという証言もある。
しかも、だ。
かつては柳の木でしていたという証言もある。
上ノ坊寿福寺のT住職の話しによれば、柳の木はしなって痛いからフジの木の替えたというのである。
前述したように平成6年に発刊された『五ケ谷村史』では「一斉に柳の棒で叩く」である。
史料ならびに証言から考えるに、材は「柳」→「漆」→「藤」に移った可能性も考えられるが・・信憑性は不明としておこう。
祭壇には予め印刷されたごーさん札を束にして積んでいた。
字体は実に綺麗な機械印字のようだ。
中央の文字は「壽福寺」。
上ノ坊寿福寺である。
左側は「寶」に「印」であろう。
右は「牛」に寶印型紋様にあしらった「王」。
つまりは上ノ坊寿福寺でご祈祷されるゴオウサンの(牛王)札である。
牛王の宝印も朱肉入れは虫喰いが激しい穴ぼこだらけ。
その状態で古さがわかる。
かつてごーさんの書は版木で刷っていたが、今ではパソコン印刷になった。
昔から使っていた版木は朱肉入れと同様に虫食いが激しかった。
版木を刷っても文字がわかり難いからと云って、住職のお兄さんが版木を作った。
いつしかそれも使わなくなって、文字は綺麗な機械印字になったと住職が話す。
牛王は前述した『定式』に数回表記されている「牛王」のことである。
このお札は『五ケ谷村史』に写真が掲載されている。
一部を切り取って紹介しておこう。
本来であれば内陣の板の間を叩くの「縁叩き」であろうが、現在は「板叩き」の作法。
長老らがいうには子供のころから板叩きだったという。
長年の歴史を刻んできたかのように思える風合いの叩き板である。
また、ある人が云うには、その昔は廊下を叩いていたそうだ。
廊下とはお堂の回廊であろう。
その音は村中に聞こえてくるほど大きかったという。
米谷の薬師さんは白い眼をしておられる。
音で聞き分けるから「ランジョウ」があるという。
線香をくゆらした住職はご本尊の前に座った。
チーンとおりんが鳴る。
これより始まる作法は十一面悔過法要と同じ作法であると仰る。
鈴も振ってチリーン、チリーンと静かに響く音色が堂内に残響する。
数珠などの法具をもって行う作法。
続いて錫杖経に移る。
ご真言を唱えて、次に神名帳の読み上げ。
明治四拾壱年二月廿九日寫 和州 上之坊住職の記しがある『當村社修正月勧請證誠護法諸神名帳』に沿って読みあげる神々は、大梵天王、釋天王、四大天王、日月五星、二十八宿、閻魔法王、五道大神、大山府君、五頭天王、武塔天神・・・・金峯山大菩薩、那智大菩薩、熊野大菩薩、八幡大菩薩、但馬大菩薩、住吉大菩薩・・・・大明神・・・日本国中御座一万三千余所ノ大明神・・・・。
神名帳の読み上げが始まってから7分後のことである。
「ランジョゥーーーー」のお声が出たら、堂内におられる全員がフジの木を手にして板を叩きつける。
カタカタカタカタ・・・・。
連打する音が堂内に響く。
住職は読み上げると同時に神名帳の巻物を仕舞われる。
チーンとおりんを打って、1回目の「ランジョウ」が終われば般若心経に移る。
「ぶっせつまーかー・・・・はんにゃーしんぎょぅー」。
一つ呼吸をおいて「ランジョゥーーーー」のお声が出たら、フジの木を手にして板を叩きつける。
連打する音、カタカタカタカタ・・・・音が堂内に響く。
心経が唱えられてから数分後のことである。
叩き終わればピタッと音が消える。
静けさを取り戻したかのようなところにオリンがチーン。
「ランジョー」をすることによって村から悪霊を追いだしたのである。
束にしていたごーさん札は香炉にあててご祈祷をする。
そして唱えるご真言はオンコロコロ・・・・・なむだいしへんじょ-こんごー。
役目を終えた「ランジョー」叩きのフジの木は佐多人(助侈人とも)によって回収される。
こうして法会を終えたらお堂に板を敷いたままにして直会に移る。
用意ができたら大鍋で炊いたイモダイコを配るのも佐多人の役目。
しゃもじで掬ったドロイモにダイコン、ニンジンは自家製料理。
カワラケのような小皿に盛るのも難しい。
零さずに席に着いている村人に配っていく。
お神酒も注がれて直会はじめ。
みなさん、「今日はごくろうさまでした」と挨拶を受けて、一同は「いただきます」。
直会中に配られたのはつるし柿。
白い粉がふいているから、甘くて美味しい。
これも自家製である。
ヒラテンも入っているイモダイコの出汁が美味すぎる。
皆の口に合う美味な味のイモダイコ。
大鍋でたいたんは美味しいとお代わりは何度も頼まれる。
お神酒もあるから要望はあっちこちらで声があがる。
それから30分も経ったころだったろうか。
突然のごとく佐多人が動き出した。
ごーさんの朱印とベンガラ入りの朱肉を手にして席につく村人、一人ずつ座席の前に寄ってくる。
朱印を手に寄っていけば、手のひらを拡げて行為を待つ。
すると、「ゼニ」、「カネ」、「コメ」と云いながらてのひらに朱印を3回押す。
県内事例の朱印押しは額押しばかりであるが、ここ米谷町では手のひら押しであった。
『五ケ谷村史』に書いてあった太鼓叩きに竹筒吹きの貝吹きは見られなかった。
時期はいつなのかわからないが廃絶したようだ。
ちなみに四日前の2月1日は白山比咩神社で行われる「小正月」があったという。
その場においてもごーさん札が祈祷される。
前述した『五ケ谷村史』の2月1日の「小正月行事」である。
宮司は神前で祈祷し、住職は拝殿で神名帳を読みあげ、般若心経を唱える。
十一人衆、氏子総代、佐多人(助侈人とも)が参加する神事である。
ミヤモリは漆の木を7本供えると聞いている。
祭典が終わってからに薬師堂で行われた“ゼニ カネ コメ”の作法もする。
このときのごーさん札の文字は中央に「米谷宮」を配置しているという。
「寿福寺」を書かれたごーさん札の2枚で一対。
両方が揃って漆の木に挟んだ。
挟むところはT字型に割いた部分に、である。
種蒔(苗代)と田植えの両方に立てるというから、それぞれがどちらかになるようだ。
薬師さんのオコナイ取材を終えて車に戻る。
上ノ坊より下ったところに建つ民家の門屋。
節分につきもののヒイラギがあったが、イワシの頭はどこへ行ったやら、である。
(H29. 2. 4 EOS40D撮影)