私は初老男である。
「初老」を自認するようになってしばらくなる。
その「初老の自覚」は、当たり前ではあるが単に「歳を取った」だけではない。
問題なのは「歳を取っただけの初老人」が、少なからず居ることなのだが。。。。
今回はその話でなく「あるテレビ番組」内での「ある人物の発言」にひっかかった。
チャンネルをカシャカシャと変えながらだったから、元ネタが何だったのは分からないのであるが。
ワイドナショーの中で立川志らくに向かって古市憲寿が、
「落語なんてYouTube見て練習すればいいじゃないないですか」
と言ったのだ。
「師匠」「弟子入り」「修行」等は必要ないと。(「練習」があれば良いといいたいのかな?)
その場で、ホリエモンが「寿司職人が何年も修行するのはバカ」といった話も類似なこととして言われていた。
ホリエモンも古市氏も、そうした意味では「同じ種類の人間」に分類できるだろう。
私と「全く違うの種類」の人たちである。
「結果」にたどり着くのに「最短距離」を取ろうとする人たちだ。
そのことは、決して間違いではない。
問題はその「結果」を「どういうモノ」と捉えているかである。
この場合、ホリエモン・古市側の種類の人々の「想っている結果」と、私のような種類の人々の「想っている結果」が実はかなり違ったものであるのであろう。
彼らの思う「結果」とは「出来上がったもの」が、練習して聞いたもの・手本にしたものと「全く同じもの」になることだと考えているのではないだろうか?
映像や録音の通りに出来上がれば落語家・芸人として「結果が出た」と考えるているのだろう。
だが、それは単に「モノマネ」「コピー」ができるようになっただけで、演じる人間に一番大切な「オリジナルな本人」が確立されたということではない。
そうした「オリジナルな本人を確立する」ことこそが、一人前ということである。
そして最終的に客観的に一人前であることを「判断してくれる人」こそが「師匠」なのだと初老男は思う。
どの世界でもそうであるが、落語家などは「業界人同志の人間関係」も仕事をする上では重要な意味を持つ。
そのことの構築にも「師匠」という人の存在と「修行」というモノは不可欠であろう。
寿司職人の話をすれば、ホリエモンの種類の人たちの思っている「寿司」というのは、究極的には工作機械が作ったような物なのではないだろうか。
食べ物を作る人間に必要なのは、間違いなく「感性」なのである。
ゆえに職人の世界において(落語家のような芸人も同じであるが)「完成」は事実上「無い」のである。
なぜなら「感性」は「完成」させるものではなく「磨く」モノだからだ。
間違いなく寿司職人も落語家も、名人と言われるような人になればなるほど「未だ修行中」と発言する。
私はそれを何度も聞いたことがある。
IT関連の業界人・経営者・評論家・学者という職業の人たちには、多分今書いてきたことの意味が分かりづらいだろうなぁ。
今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも「修行」の意味を深く考えますように。
May
人間はとても「矛盾」の多い生き物だ。そうした中で「効率的」に物事を進めることが、本当に正しいことなのかどうか・・・。また、その「効率的」のことが、本当に「効率的」であるかどうかは、結局本人の「感覚」の問題でしかないような気がする。・・・・何言ってるんだか自分でも分からなくなった。
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