私は中老男である。
ゴールデンウイーク前に「怒涛の忙しさ」を経験した。
それらも三々五々Upしていこうと思うのだが・・・。
まずはタイトル通りドラマ「犬神家の一族」の感想を。
すでに様々な感想が述べられているので、中老男があれこれUpするまでもないのだろう。
しかし、中老ならでは「ひねくれた観方」になっていれば幸いである。
先回、映画版を観ておいたUpしたが・・・若干禍いしたかもしれない。
いまさらメディアとしての「映画」と「ドラマ」の違いを語るつもりはないが・・・。
大抵の場合キャストにかける「出演料を含めた製作費」が違う。
映画にはそれにより「大物キャスト」がそろいそれだけでもお客が呼べるものになる。
そして放映時間が映画の方が短い。(たいていは長くて3時間が限度だろう。シリーズものは除くけど)
だから、私の感覚では原作にある「細かいディテール」を描くにはドラマの方が向いていると思う。
その代わり短時間での「迫力」では映画の方が上だろう。
しかし、今回のドラマは前後編で3時間。
映画よりも長くはあるが「細かいディテール」を描くには短すぎないだろうか。
細かいディテールを描いたのは「古谷一行版ドラマ『犬神家の一族』」の右に出るものはあるまい。
★★★★ここからは「ネタバレ」があります。ドラマを観ていない人は気を付けてね!★★★★
結局のところ、今回のドラマは「最後の15分」にすべて集約されているといえる。
原作を読んで、映画を観て、さらに私のような「ヒネクレ者」ならこの「最後の15分」のところに、
それほどは違和感を覚えないのではないだろうか。
それは今回の「犬神家の一族」の原作や映画の完成度に問題があるのではなく、すべての「小説・映画、果ては事実」までが、
観方によって「まったく違うモノ」に観えてくるものだからだ。
最後の30分で映画では「静馬による種明かし」が、ドラマでは「佐清による種明かし」になっている。
それによってずいぶん興が削がれた感があったのだが、それこそが「最後の15分」につながっている。
なるほどって思った。
そして、私は佐清が最後に「ニヤリと笑う」と思ったのだが・・・・。笑った(ように見えた)のは「珠代」の方だった。
そうなのだ。今の時代であれば「珠代の笑い(のように見えること)」が「新解釈」と説明できる。
原作ができた1972年当時にこのラストシーンだったら、たぶん「非難轟々」だったと思われる。
そろえたキャストのイメージもあるし、その当時はどんな映画にも「カタルシス」を求められていたしね。
そうした意味では、今の時代だからこそ「こうしたラストシーンのドラマ」になったのだろう。
そして、だからこそ今回、何度も映像化されたこの「犬神家の一族」をわざわざドラマにした理由ともいえる。
ただ、私にとっては「良い出来」とは思えなかったですねぇ。
大竹しのぶの演技なども評判が良いけれど、彼女の演技などは私の予想を超えるものではなかったし。
吉岡秀隆の金田一耕助は、回を重ねるたびに私は「違和感」しか覚えない。
どちらかといえば「獄門島の時の長谷川博已」の方が新しい「金田一耕助像のイメージ」なのだな。
たぶん、このシリーズはまだ続いて「本陣殺人事件」や「悪魔の手毬唄」なんかが作られるかもしれないね。
さて、どうなりますやら。
今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも、中老になったときにドラマを観る目が変わりますように。
May
そうした意味では、ドラマの中でも「松子が一人でどうやって静馬を殺したか」とか「その死体をどうやって湖のあの場所へ逆さに突き刺したか」なんて疑問がわいちゃうけどね。(もし佐清が手伝ったのであれば、最後の種明かしがとんでもない茶番になっちゃう)
さらに蛇足です。原作では「湖に刺さった死体」は「スケキヨ」が逆さなっているから「ヨキケス」となり、最初の二文字で「ヨキ(斧)」を使った殺人になるってことになってるはずですね。(苦しい解釈で~~す)
そのことの解釈は「映画版」が一番納得できるし、それらを含めてこの映画が「原作を超えた映画」と私には思えるのだ。