私は初老男である。
古代地球において、恐竜が跋扈していた時の話である。
巨大化した恐竜はしっぽに衝撃があった場合、3日経たないと「痛い」と感じなかったという話を聞いたことがある。
東京都政というものは、この「恐竜」に似ている。
北欧の小さな国の「国家予算」に匹敵する予算を持ち、それ以上の「組織」を持っている。
一昨日、都知事に報告されたのは「あたかも社長と財務部長がいない会社と同じ」という表現。
多分であるが、組織が大きくなればなるほど「中間管理職」の人数が増え、人数が多いがゆえに「責任の所在」があいまいになる。
少し前までは「中間管理職」「高級幹部」ともに、いやただの「平職員」であっても都職員には「誇り」と良い意味での「役人意識」があったと思う。
しかし、様々な世相や主義主張において、ゆっくりゆっくり彼らを「卑屈」にした。
そして、それは「自己保身」にむかい「責任の所在をいい加減」にしていく。
一方で、豊洲の問題もどこかのワイドショーが言っていたが「先に道路ありき」でオリンピックのための道路を作ってしまい、そのあとの豊洲市場を作る形となった。
すると当然、その市場の設計に「とても大きな制約」が「初めからあった」ことになる。
道路を作る部署と市場を作る部署は「当然」違う。
・・・・「縦割り行政」の見本みたいであるが、これこそ「社長不在」たるゆえんであり、互いの「縄張りを犯さない」という意味では、当たり前のことなのだろう。
そして、これを正すのは「都知事」まで行かなければダメだろう。
しかし、この程度のことは、とても都知事が細かく見ていられるわけがない。
つまりは「東京都」という行政区は、今の時代においては「大きすぎる」のだ。
オリンピックのことも、結局「森喜朗大会組織委員長」と「丸川珠代五輪相」と「小池都知事」の内「誰が一番偉いの?」って話。
これも、都庁の中間管理職と逆で「みんなが一番」になりたくて、なりたいがゆえに「責任が不明」になっているような「混乱の極み」である。
結局、都行政に限らず、組織というもは「完全体」で運営されているものなどほとんどない。
その「綻び」みたいなものは「何か」をキッカケに噴出してくる。
それが「今」であったということ。
今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも、組織のいい加減さの「限界」を見極めますように。
May
しっかし、あの「森喜朗」って老人は、なんであんなに「偉そうに」していて、それが許されるのだろう?
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