拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

内堀~外堀

2024-06-13 10:23:33 | 日記

江戸城の外堀の見附(役人が番をする見張所)のことを書いたが、見附は内堀にも外堀にもあって、内堀と外堀の見附が直線上に並んでることもある。例えば、内堀に架かる桜田門(「門」は「見附」と同義。以下同じ)から伸びた道(今でいう桜田通り)が外堀(汐留川)にぶつかるところに虎ノ門があるし、内堀の半蔵門から伸びた道(今でいう新宿通り)が外堀にぶつかるところに四ッ谷見附がある、という具合である。外堀の門が突破されても内堀で防ぐという二重防衛システムである。とくれば、その間を歩いてみたくなるではないか。幸い、前日3時間歩いても身体のどこも痛くない。決行である。

まずは桜田門に皇居外苑から向かう。

真ん中に写ってるのが桜田門(櫓門)。この場所(皇居外苑)は一般に開放されているが、一応、内堀(日比谷濠)の内側だから江戸城の「中」である。だから、今私は桜田門を通って江戸城の外に出ようとしているわけである。写真に写っている堀は内堀のそのまた内にある堀であり(二重橋堀)、その内側(西の丸)には普通の人は入れない。今回は、ここを歩いてるうちに記憶が蘇った。学校を出て入った会社が休日にマラソン大会を開いたときの集合場所・スタート&ゴール地点がここだった。戻ってくるランナーは桜田門をくぐって来た覚えがある。

その桜田門の櫓門をくぐると、そこは中庭で、もう一つ門(高麗門。下の写真の右側)がある。

このように、門に入ってから90度折れてさらに門があるカタチのことを「枡形」と言うそうである。その高麗門から覗ける外界がまさに「桜田門外」であり、

井伊直弼が暗殺された場所であり、「犯科帳」の「鬼平」の遥か後輩たちが詰めている現代風番所がそびえ立つ場所である。そうか、こんなだから警視庁のことを「桜田門」と言うのだな。当時からここに警視庁があれば井伊大老が襲われることはなかったかもしれない。

この桜田門外からまっすぐ伸びているのが桜田通り(下の写真で車が渋滞している通り)で、

その先にあったのが、虎ノ門である(虎ノ門も枡形だったそうである)。

その現在の様子がこれ。

撮った位置は白黒の虎ノ門の写真と同じ。すなわち、左右を走る通りは桜田通りであり、右にずっと行くと桜田門にぶちあたる。虎ノ門は跡形もない(石垣の一部がどこかにあるらしいが)。

桜田門外に戻ろう。へー、お堀に白鳥がいるんだ!

ここから内堀に沿って、時計回りに歩を進める。すると、目の前に国会議事堂が現れた。

国会議事堂は、前日その脇を通ったばかりだが、そうか、あっちは裏通りだったんだ。皇居に通じるこっち側が表通りだったんだ。

んなことに感動しつつ、道路は上り坂。そう、江戸城は台地の縁に作られている。実は、この日、皇居に来たついでに大手門をくぐって(その際、持ち物検査があった)皇居東御苑を散策したんだけど、本丸跡に通じる道が上り坂で、そのときも「台地の縁」を実感したのだった。お城を台地の縁に作ると、防御等々で都合がよいらしい。

で、だいぶ上っていって、内堀も随分下の方に見えるようになって、半蔵門らしきものが見えてきた(下の写真の左上に小さく見える色の白っぽい構造物)。

そして、一番高くなったあたりで半蔵門に到着した。

ここは立入禁止である。「半蔵門」の名前の由来は、徳川家康に使えた伊賀者の服部半蔵の家来達がこの門外に屋敷を設けていたことというのが有力説だそうだ。この地からまっすぐ西に行ったところが四ッ谷。その四ッ谷に見附が設けられた。本日の最終の目標はそこであるから、半蔵門を背にして新宿通りを下る。

なだらかな下り坂。ときどき左右の横道に目をやると、相当の下り坂になってるから、この通りは台地の「尾根」を通ってるようだ。そして、四ツ谷駅に至る(前日も来た場所)。

ウィキペディアには「当駅が史跡「江戸城外堀跡」の範囲に建築されていることから云々」とある。200年前のここは水面だったわけである。

さすがに二日続けて3時間歩いた今日は、身体が疲れている。なので、今日は、外をほっつき歩くのはやめて楽器の練習でもしよう……あ、私は楽器をやらないのだった。一瞬、横野君になってしまった。あんな人格に乗っ取られたらたまったものじゃない。気をつけようっと。

 



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