澄み切った日の空は眩しくて、蒼というより深い藍色に見えることがある。その日もそんな空が広がっていて、トビが一羽、ピューヒュルルと鳴いて輪を画いていた。他に耳に触れる音といえば、微かな風のそよぎくらいだろうか。涼やかな空気の塊が足下から吹き上げて来て、そのまま私を通り抜けて行く。多武峰(とうのみね)山腹のテラス状の台地に座り、私は「まほろば」と称えられた大和の国見を続けているのである。
多武峰は標高619mということだから、ここはせいぜい300mといったあたりだろうか。大和盆地の東南の隅にあって、行政区画でいえば奈良県の桜井市と明日香村の境界付近になるのかもしれない。多分、山肌が崩れるなどして偶然に生まれた展望台なのだろう、いまでは「万葉展望台」という立派な案内板が整備され、私が初めて分け入った40年ほど前とは様変わりであるが、そこからの眺望に変わりはない。
大和盆地は南北30キロ、東西15キロとほぼ長方形をしている。そこが太古、海の底だったと感じ取るにはかなりの想像力を必要とする。難波の入り江が現在より遥か奥深く入り込み、盆地北側の平城山(ならやま)丘陵を越えてこの平原まで海が広がっていたというのだ。だから盆地の低地には、縄文や弥生時代の生活痕は発掘されない。海面の後退に伴って海は干上がり、大湿原が出現したのだという。
「万葉展望台」から望むと、正面にはこちらより遥かに標高の高い連山が、圧倒的なボリュームで対峙している。金剛・葛城山系の峰々だ。その稜線を右手、つまり北方へとなぞっていくと、スカイラインはしだいに標高を下げていって、二上山の特徴的な二つのこぶでいったん途切れる。盆地の水を集めた大和川が、難波へと流れ下る出口だ。そしてその先は、再び大きな山塊が、薄い水色に霞んでうずくまる。生駒山だろう。
倭建命(ヤマトタケルノミコト)が東国征討の帰路、伊勢の能煩野(のぼの)で終焉を迎える時に大和を偲んで歌った(古事記・中巻)という「倭(やまと)は国のまほろば たたなづく 青垣山隠(こも)れる 倭しうるはし」とは、まさにいま、私が見晴るかしているこの風景のことだろう。「古代ロマン」などという得体の知れない病魔に取り付かれると、こんな平凡な風景が特別のものとなって感興を誘う。
遠望に疲れて視線を足元に落とすと、平原に緑の塊が点在している。まるで海に浮かぶ島だ。目立つ二つが大和三山のうちの畝傍山、耳成山であることはすぐに分かる。では三山の残るひとつ、天香具山はどこだろう。国見するテラスが崖のように落ち込んで、その山の端が延びた先の小丘のはずなのだが、見分けられない。そしてその手前が、飛鳥の里ということになる。
本当にこの小さな空間で、日本の歴史は成熟を開始したのだろうか。そもそも「倭国」とは、私にとって「私たちの国」ということができるのか。私のようなアズマエビスは、ここからやってきた勢力に征服された土蜘蛛の類ではないのか。この「飛鳥」こそ私を悩ませ、飽かず大和へ誘い出す元凶なのである。
『今日は、この街にいます。』の旅が途切れた折などに、「記憶の中の旅」を書き留めて行こうと思う。それには「飛鳥」から始めることがふさわしい。(2000.9.23)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます