文化の日の安曇野は日差しに恵まれ、北アルプスから湧き出して来る白雲もここを翳らすまでの力はない。先日の台風通過で高山は冠雪したといい、有明山の奥では燕岳(2763㍍)が白く輝いている。梓川が犀川と名を替え、穂高、高瀬の両川を飲み込むこのあたりで標高は540㍍ほどだ。この日の予報最高気温は8度ということだが、むしろ心地よい小春日和である。気ままな散歩を続けながら、私は《土地の推理》を楽しんでいる。
信濃では、山に囲まれた平坦な地域を「平」という。だから50㌔四方ともいわれる安曇野は、「安曇平」こそが正しい呼称であろう。アヅミの名にちなむ歴史は、北九州に勢力を張った海洋民・安曇族の伝説として伝わっている。志賀島あたりの名族は7世紀の半島との外交的緊張に追われ、難民化し、流浪の民となって全国に散った。その主力集団が日本海を北上、糸魚川から姫川を遡ってこの山に隠された「平」に安住の地を見出した。
先住民との軋轢が少なかったことも、彼らがこの地に定住した理由であろう。いまも日量70万トンの湧水が湧く万水川付近は、灌漑用水に乏しいこの野で最も低地の水の豊富な地帯ではある。ただ北アルプスの地下水はそのまま稲作に用いるには冷た過ぎて、ここでの水田耕作はおそらく行われていなかったのであろう。そのハンディを克服する技術を海洋民は有しており、先住者と争うことなく生活の場を確保して行ったと思われる。
そしてそれらの暮らしを一望できる高台に、一族の祭神・ワタツミ命を祀った。穂高神社である。中殿に祀る安曇連の祖神・穂高見命は、綿津見神の末裔だ。また遥か水源地の上高地・明神池に奥宮を営み、さらに穂高岳の頂きには嶺宮を置いた。野と嶺と、その両者をつなぐ川と。ここにワタツミ族の宇宙が完成した。穂高神社が東を向いて鎮座しているのは、だから当然なのである。
時代は下って、神社の裏手に鉄道が開通し、高地の開拓が進められて行った。そして世の中が戦後の高度成長に賑わい出すと、奥地の源泉から湯が引かれ、旅館や別荘、保養所が点在する穂高温泉郷が出現した。
冬期間の冷気に耐えながら開拓を続けてきた農業者たちの間から、この国の近代彫刻を切り拓くことになる不世出の才能が生まれた。荻原守衛のことだ。フランスに渡った青年はロダンに学び、日本の芸術世界に大きな刺激を持ち帰った。東京でパン屋を起業した同郷者との交流は、安曇野に知性と文化の土壌を育むことになり、芸術の香に富んだアートラインの風土を醸して行った。
また彫刻家に遅れること26年、同じく安曇平の農家に、後に作家となる男児が誕生した。臼井吉見である。郷里と、そこに生きた彫刻家、実業家、教育者、社会主義者らに題材を借り、この国の近代化の不条理を描いた長編小説を書いた。そのタイトルが『安曇野』であったことで、以来、安曇平は安曇野として流布するようになる。南安曇の町村は、いま「安曇野市」を名乗る。文学作品名が自治体の名に採られた希有な例であろう。
豊富な湧水を活用して、大規模なワサビ栽培が成功を収めている。ワサビの栽培は静岡市の安倍川上流部で開発された技術だが、今では長野県が生産量日本一だそうだ。安倍川と安曇野は、ともにフォッサマグナに含まれる構造線上にある。ワサビもそのつながりかと、《土地の推理》はどこまでも広がって行くのである。(2010.11.3)
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