野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



平凡社の「日本の野鳥590」によれば、コイカルは冬鳥として西南日本に渡来とあります。・・・右端がコイカル、あとの2羽はイカル

<雄成鳥は頭部から顔、喉にかけてはすっぽりと黒く、紺色光沢がある>・・・右のイカルの小型野鳥なのでコイカルと命名されたのでしょう。

<雌の頭部は黒くなく、暗灰褐色。翼は風切りの羽根先が白く三列風切りの上2枚が暗灰褐色>・・・このコイカルは♀

<クチバシは橙黄色で先は黒い>・・・一方、イカルのクチバシは、先端まで橙黄色ですが、コイカルよりも色がやや薄いよう。

コイカルの背後はシメ(全長19cm)。イカル(23cm)よりもやや小型なので、えさ場で遠慮しているようにみえます。

コイカルは北日本(東北地方、北海道)に渡来しない冬鳥なので、北日本のバーダーには馴染みが無い野鳥です。・・・コイカルの暗灰褐色は保護色となっていて、落ち葉の中で目立ちません。

コイカルの初列風切羽、その先端が白いことがよく判る後ろ向きの写真。左のイカルには無い特徴です。

コイカルは、風切羽の下の脇が薄黄色で、イカルには無い特徴となっています。

ほとんど目立たない日陰で餌を探して食べていましたが、一瞬だけ日当たりの良い場所に出てくれました。

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




もうじき繁殖地に渡るミコアイサの飛行写真を紹介しましょう。

ミコアイサは飛行する前、水面を助走します。

その際に、翼表面の白黒模様を見ることができます。

但しシャッタースピードを上げて撮影しないとブレてしまう恐れがあります(この写真では1/2500秒)

それでも翼の先端部(初列風切羽)だけは、ブレてしまいました。

尾羽根の枚数は、12枚という野鳥が多いようですが、カモの仲間の尾羽根の枚数は多くミコアイサも16枚。

背中の中央は黒、両側は白、小雨覆、中雨覆は白。大雨覆と次列風切羽の端部は白、三列風切羽と尾羽根は薄いグレー

ミコアイサの尾羽根の数より多いカモの仲間はマガモ18~19、カワアイサ18枚など。

こちらは雌のミコアイサですが、翼の白黒模様は雄と良く似ています。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昨日に続き、バードライフインターナショナル(東京)の記事「鳥の秘密:性生活が明らかに」の続きを、近くの池に渡来してきているミコアイサと一緒に紹介しましょう。<・・・>が引用部

<鳥類とヒトを含む哺乳類では、新しい生命の始まりに違いがあります。哺乳類は1個の卵子を受精させるには1個の精子だけで良く、ここから新たな生命が始まります>

<ところが鳥類では、排卵直後から胚盤の中に数個の精子(厳密には精子の数だけの核)が含まれているのです>

<実験で精子1個だけを鳥の卵子に入れてみました。それだけで十分受精できるはずですが、それに続く胚発生は起きなかったのです。そこで、より多くの雄の精子が卵子に入るようにすると、受精と胚発生の両方が得られたのです>

<この場合、余分な精子は「ヘルパー」の役割を果たしており、胚発生が起きるのに不可欠な存在ということが判明したのです>

<鳥の雌が複数の雄により受精させられ、そして複数の雄の精子が卵子まで届いたら、その中から最も競争に強い精子だけが選ばれて受精するのです。それ以外の精子はヘルパーとして雌の受精を助ける働きをするのです>

<従って乱婚によって誕生する鳥類の命は、どの雄の子孫か判らないのですが、集団がより多くの強い子孫を残すという意味では報われるのです>

<今まで多くの解釈が発表され、明確な説明ができていない雌の乱婚は、次世代に遺伝子を届けようとする集団の利益のためと解釈できそうです>・・・ミコアイサの雌

カモなど鳥類は、環境の激変などで乱婚相手が不足すれば絶滅を早めるのでしょうから、「貞操を守れ」とか「乱婚の非難」などをしてはなりません。勿論、人間には当てはまりませんので誤解の無いようにお願いします。・・・ミコアイサの雄

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




バードライフインターナショナル(東京)のHPに「鳥の秘密:性生活が明らかに」という論文がありましたので近くの池に渡来してきているハシビロガモの飛行写真と一緒に紹介しましょう。<・・・>が引用部

<1960年代末まで鳥類は一夫一婦制だと思われていました。実際に、ほとんどの動物の雌は1頭の雄とだけつがいになり、貞操を守るというのが当時の社会通念でした>

<ところが1962年、ウェイン・エドワーズが著書「社会的行動に関連する動物の分散」で、動物は一緒に暮らす集団の利益のために行動するという考えを発表しました>

<1970年代半ばから1980年代にかけて動物行動生態学が進展するのに伴い、特に雌における性的な一夫一婦制は基準ではなく例外であることが明らかになりました>

<またDNA分析技術により、父系を確定することが出来るようになり、乱婚が利益をもたらす動かぬ証拠が出たのです。確かに次世代に遺伝子を届けようとするのに乱婚に勝る方法はありません>

<性選択のプロセスを受精前(例:配偶者選択)と受精後(例:精子競争)の両方で理解することで、かつては説明不能とされていた現象も説明できるようになりました>

<(ハシビロガモなど水中で交尾する)カモの雌は、複雑な形状の膣を有しており、一部のカモは膣と子宮との間に3つの側室があり、好ましくない雄の精子を寄せ付けないための仕掛けだと考えられています>

<雌のカモが無理に受精させられそうになった時、雌は自分の意思で(膣をギュッと締める?)、雄の生殖器を側室に導くことができ、受精を避けられるのです>

<雌は受精を望むパートナーの生殖器だけを子宮に受け入れ、その雄の精子が卵子に届くのです>が、受精までにはさらに複雑なプロセスがあるようです。・・・ハシビロガモの雄

つづく



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




鶴見緑地公園の早咲き桜が満開となり、多くのメジロが飛来してきていましたので紹介しましょう。・・・早咲き桜のオカメザクラ看板とメジロ

花から花へ、忙しく移動するメジロ

枝に止まったと思ったら、すぐに次の花へ

メジロの背中はウグイス色

翼は非常に早く動いているので、シャッタースピード1/2500秒ではブレてしまいます。

花から花へと飛び移り

シャッタースピードを1/3200秒まで上げてみました。

これも1/3200秒ですが、翼の先端がブレています。

メジロの足が枝から離れた直後をストップモーションで



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




鹿児島藩の実質的な外城支配者で、麓(ふもと)に居住している(武士)衆中は、1780年に郷士と改称されていますが、薩摩藩の郷士を出水のツルのスローシャッター(1/80秒)写真と一緒に紹介しましょう。

外城の支配者は、麓に居住している曖(あつかい)、組頭、横目、の所三役で、外城における最高職となる曖には複数(出水では7人)の郷士が任じられ、合議制によって運営されています。

曖の下の組頭は、外城郷士組(出水では6組編成)のリーダー役で、郷士の指導や外城の警備にあたり、横目(目付)は警察・訴訟・検察を担当しています。

所三役の下には、書役、普請見廻、野廻、相談役、触役、郡見廻、櫨楮見廻、牧司、庄屋、浦役などの役職があり、すべて下級郷士が任じられていました。

他藩では農民層から任じられる庄屋も郷士に独占されていたために、農民層は厳重な監視下に置かれ、薩摩藩では一揆のような抵抗運動はなかったといいます。

もともと鹿児島の城下に居住する武士と、麓に居住する郷士は同格でしたが、島津重豪の藩政改革以降、城下士は半農半武士の郷士を「一日兵児」(ひしてべこ)などと蔑称、下に見るようになっています。

一方、同じ郷士でも政治中心の麓に居住していた郷士は、麓以外の勤務地に居住する郷士を「肥えたんごさむらい」などと蔑んだといいます。また92か所あった地頭所の郷士は、一門が支配する私領地(21か所)の郷士を家中(陪臣という意味)と呼んで差別していたようです。

したがって江戸期の薩摩藩武士の世界では、鹿児島城下の武士(10ランク)>地頭所の所三役郷士>私領地の所三役郷士>地頭所の所三役以外の郷士>私領地の所三役以外の郷士>地頭所麓以外の郷士>私領地麓以外の郷士という序列があったようです。

幕末活躍した家老小松帯刀の小松家は、10ランクある城下士の上から2番目(2600石)、西郷隆盛の西郷家の家格は城下士の下から2番目。川路利良(日本警察の父)の川路家は最下級の城下士でしたが、これでも鄕士よりも上の立場でした。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




薩摩藩領国支配の拠点となった麓(ふもと)について「鹿児島県の歴史」1999年出版に出ていましたので早朝の出水のツル写真と一緒にダイジェスト版で紹介しましょう。

江戸時代における薩摩藩の外城は、合計113か所、麓は藩直轄の地頭所92、島津氏一門が支配する私領地21に分かれていますが、ここでは地頭所の麓を取り上げます。

一つの外城は数カ村からなり、中心には武士の集落となる「麓(ふもと)」がありました。江戸時代の麓で、現在まで良好に保存されているのは、出水、伊集院、加世田、国分、志布志、高岡(宮崎県)など。

このうち出水、知覧、入来の3か所が、国の重要伝統的建造物保存地区に指定されています。

麓は、概ね中世の古城(山城が多い)の近くにあり、地頭が居住する地頭仮屋を中心に、石垣で囲まれた武家屋敷が整然と建ち並び、小規模な城下町を形成していました。

外城行政・軍事を司る地頭は、任地に在住していましたが、1644年頃以降は鹿児島常駐となり、地頭は任地に一代に1回だけ赴く制度となっています。

したがって諺の「泣く子と地頭には勝てぬ」という地頭と直接関係のあった庶民は殆どいなかったようです。

但し、国境の要衝となる出水などには地頭代が置かれ、甑島などの離島には地頭が赴任地に在勤(居地頭)していましたので、その地域の領民には当てはまっていたのかも知れません。

鹿児島藩では1783年に外城が郷と呼ばれるようになり、1780年には外城の衆中が郷士と改称されていますので、これから外城の武士を郷士とします。・・・つづく

参考文献:「鹿児島県の歴史」原口・永山・日隈・松尾・皆村共著1999年出版



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




出水歴史館に大きく紹介されている出水麓(ふもと)地頭の山田昌巌(しょうがん)こと山田有栄(ありなが・1578年~1668年)の山田氏について昨日紹介しました。その続きをマナヅルのディスプレイ写真と一緒に紹介しましょう。

山田昌巌の父の山田有信(1544~1609年)は1585年にあった島津勢の筑後国征伐でも功を上げています。しかし1586年に豊臣秀吉の九州征伐が始まり、豊臣秀長軍が日向にまで南下してくると、有信はまたも高城に300余の僅かな兵で籠城、高城を取り囲む豊臣軍に抗し続けます。

島津軍本隊が豊臣軍に敗れても尚、有信は島津家16代義久(貴久嫡男・1533~1611年)への忠義を尽くすために降伏勧告をはねつけ続けています。最後に義久が説得したため、子・山田昌巌(当時10歳)を人質に差し出してようやく降伏しています。

山田有信は、これらの功により1588年頃に島津家の老中職となって1,000石、その後にも500石を加増されますが、1609年義久が病にかかると、自らが身代わりとなるよう神仏に願い出て同年死去しています。(身代わり死?)

さて、山田有信の嫡男の山田昌巌は、文禄・慶長の役(1592~1597年)に従軍、朝鮮にわたって武功をあげたことで1598年に若くして大隅国福山(霧島市)の地頭に任じられ、翌年の庄内の乱の際には、福山衆を率いて出陣しています。 

山田昌巌は1600年の関ヶ原の戦いにも参陣し、島津義弘(15代貴久の2男1535~1619年)と共に敵前突破で戦線離脱、その活躍は「軍功並ぶものなし」と義弘に言わしめ、帰国後に200石の加増を受け、さらに16代当主島津義久より「丹波守吉道」の銘刀を賜っています。

1629年には福山地頭から出水地頭となりますが、1636年に薩摩藩(17代当主島津家久・義弘の子1576~1638年)の家老職を兼務しています。

島原の乱(1637~1638年)の際、関ヶ原を経験していた山田昌巌は島津軍の総大将(藩主名代)となって軍勢1000人を率いて参陣、1650年(73歳)には高齢のために薩摩藩の家老職を辞任しています。

2020石(1659年時点)を領していた山田昌巌は、1668年に享年91で病死。家督は次男・有隆が継いでいますが山田氏はその後歴史に登場していません。先祖が1185年頃に薩摩に移住してから約400年後に山田昌巌が歴史に登場、山田昌巌の死から現在まで約350年が経過しています。山田氏から英雄の再登場はあるのでしょうか。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




出水歴史館に大きく紹介されている出水麓(ふもと)地頭の山田昌巌(しょうがん)こと山田有栄(ありなが・1578年~1668年)の祖先について調べてみましたので出水のナベヅルのディスプレイ写真と一緒に紹介しましょう。

薩摩国の山田氏には複数の系統がありますが、山田昌巌の先祖は桓武平氏の武蔵三郎左衛門有国の子、式部少輔有貫が文治年間(1185~1190年)に薩摩へ下向、日置郡の山田荘(現在の日置市)を与えられて山田姓を称したとされています。・・・ナベヅルは、ディスプレイの際に頭部が赤くなります。

この系統の山田氏は、代々島津氏家老を務める名門となり、諱(いみな)の通字は「有」の字、山田昌巌(昌巌は法号)も本姓は山田有栄(ありなが)ですが、煩雑なので以下山田昌巌とします。

山田家が薩摩に移って約390年後に山田昌巌が生まれ、山田昌巌が亡くなって今日(2020年)までが352年。歴史に名前を残した昌巌が山田氏から出るまでは長い年月を要したようです。・・・左の2羽はマナヅル

さて、歴史に最初に登場するのは、山田昌巌の曾祖父の山田有親(1480頃か?~1534年)で、薩州島津家の島津実久(1512~1553年)に与して島津忠良(島津中興の祖・日新斎1492~1568年)島津貴久(1514~1571年)父子に反目、1534年に降伏したものの切腹に処されます。(曾祖父は切腹)

しかし島津忠良(日新斎)は後にそれを後悔し、山田有親の嫡男山田有徳(1510?頃か~1560?頃か)に山田氏の本貫地である日置郡山田を継がせています。・・・手前はマナヅル

山田昌巌の祖父山田有徳は、島津貴久の家臣として1555年の蒲生北村城攻めで功を上げて市来の地頭となり、更に串木野地頭に任じられますが、串木野に居を移して間もなく病にかかり、本貫地の日置郡山田で病死しています。(祖父は病死)

山田昌巌の父の山田有信(1544~1609年)は、幼少より島津家15代島津貴久、16代義久(貴久嫡男・1533~1611年)に仕え、1577年島津氏が伊東氏を日向から豊後国へ追いやると、有信は新納院高城の城主及び地頭に任じられています。

同年に大友宗麟が6万余の大軍を率いて高城を囲みますが、山田有信は300の兵で籠城、馳せ付けた島津家久(貴久の4男)の軍勢と併せた3,000余の兵で大友軍を耳川の戦いで破って島津勢の大勝利へと繋げたという英雄的な人物でした。

つづく



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




出水麓(ふもと)武家屋敷群、税所(さいしょ)邸前の道路(堅馬場)と玉石垣

税所氏は、鹿児島藩藩主直属の城下士ではなく、出水麓地頭配下の郷士(郷士身分では上位の曖役・あつかいやく)でした。・・・税所邸の門

玄関

座敷側から見た玄関

下座敷の左手にひな人形が置いてありました。

上座敷から見た下座敷

上座敷は角部屋

上座敷の手の込んだ欄間

上座敷の外の巨大な羊歯(シダ・蘇鉄ではありません)。シダの仲間でこれほど大きな株は珍しいそうです。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




出水市の特別天然記念物・マナヅルに飛行写真を紹介しましょう。

マナズルは大きな野鳥で、風切り羽根は黒、雨覆いは灰色をしています。

首の上部は白、首の下部から腹部は濃い灰色

民家の前を飛ぶマナズル

下大雨覆は白、下中雨覆は灰色、下小雨覆は濃い灰色

この写真なら下大雨覆は白、下中雨覆は灰色、下小雨覆は濃い灰色がよく判ります

尾羽根の上の白く長い羽は、大雨覆が伸びたものでしょう。

右の個体を見ると、雨覆の下に黒い風切り羽が見えています。

地上で翼を広げるとこんな姿をしていました。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




平安時代、領地を現場で支配する有力者、又は荘園を現地で管理する荘官、公領を現地管理する郡司、郷司等の在庁各職を「地頭」と称するようになっています。幕末まで存在した鹿児島県における地頭を出水のナベヅルの飛行写真と一緒に紹介しましょう。<・・・>がウイキペディアからの引用紹介しましょう。<・・・>がウイキペディアからの引用

泣く子と地頭には勝てないと言われるほど権力のあった「地頭」ですが、薩摩国や大隅国では平安時代以降も「地頭」の名称が残り、江戸時代に入ってからも存続しています。

<当初、地頭は現地に移住(居地頭という)し、現地に居住する郷士と寄親・寄子の関係で結ばれていた。寛永年間以降は、薩摩藩の重役が地頭職を兼務するようになり、地頭の任期中は鹿児島城下に居住するようになり、地頭と郷士は中央役人と地方役人の関係となっている>

<なお、郷での実際の行政は、上級郷士により運営されていたが、複数の郷を掛持ちする地頭の勤務形態になって以降、一部の郷には地頭代が派遣された>

<地頭の役職内容は江戸幕府の代官とほぼ同じであるが、薩摩藩の重要地とされた領地の地頭は、幕府代官と違って薩摩藩重役(家老など)が兼務していた>

<薩摩藩重役の小松清猷(吉利領主・幕末の家老小松帯刀の養父)が清水郷の地頭職に就任したように、有力な私領主が地頭を兼任する例もあった>

<鹿児島藩の中級武士が地頭に抜擢されると、本人一代限り家格が昇格する特権があり、さらに出世して上位の役職を兼務すれば家格昇格が世襲できた>それほど薩摩藩の地頭は重要視されていたということでしょう。

<後任の地頭が決まらない地は「明所」と呼ばれ、大番頭職の管理下に置かれたが、出水郷、志布志郷、伊集院郷といった重要な郷に地頭の欠員ができた際には他の郷の地頭が兼任した>

<出水郷地頭職の例では、日置島津家12代当主の島津久風(島津斉興の代の国家老)が加世田郷地頭時代に二度出水郷地頭を兼務している>・・・鹿児島藩にとって出水地頭職は相当重要なポストだったようです。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ナショナルジオグラフィックの動物図鑑にカナダヅルのことが出ていましたので、出水のカナダヅルの飛行写真と一緒に紹介しましょう<・・・>がナショナルジオグラフィックからの引用

<世界中のツルの中で最も数が多いカナダヅルは、主に北アメリカにおいて見られ、南はメキシコやキューバへと渡り、西はシベリアまで移動する。なお、数千万年前の中新世の化石が、現代のカナダヅルと多くの類似点を持つことが分かった>

<カナダヅルは北アメリカやカナダ、アラスカ、におよびシベリアに生息している>・・・出水に来るナベヅルの一部は、シベリアで繁殖しているので、同じ場所に生息していた仲良しのナベヅルと共に出水に渡来したのでしょう。・・・下がナベヅル

<彼らは毎年冬になるとフロリダ、テキサス、ユタ、メキシコ、カリフォルニアなどの越冬地に向けて南へと長い旅に出る>・・・ナベヅルと一緒に出水へ越冬の旅をする例がここにあります。

<途中、カナダヅルの4分の3以上が、ネブラスカのプラット川の沿岸で、120キロに及ぶ区域にある湿地帯に立ち寄る>

<ほとんどのカナダヅルは、淡水湿地に生息する。機会がありさえすれば食事をするが、草や穀物、ネズミ、ヘビ、昆虫類などをエサにしている。農地にある塊茎を求めて土を掘ることもあるので、農作物に被害を与えることがある>

<カナダヅルは、生まれたときから灰色で、頭には赤いトサカのようなものがある。羽に泥を付けて羽づくろいするので一時的に茶色に変わるツルもいる>

<交尾中の番(つがい)の鳥は、頭を後ろに投げ出して鳴き声を調和させ、情熱的なデュエットで調和の取れた歌を長時間繰り返す>

<シベリアなど繁殖地のカナダヅルは、通常、手近にある植物を使って湿地に巣を作る。通常、メスは卵を2つ産み、つがいで孵化させる>



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




出水麓武家屋敷群の中で屋敷内を公開しているのは竹添邸以下の3邸です。

竹添家は、地頭配下となる郷士の最高位、曖役(あつかいやく)7人のうちの一人。整然とした玉石垣のある堅馬場道に面した竹添邸を見てみましょう。

防御目的でしょうか、敷地は石垣の高さぶん道路より高くなっています。・・・門

歴史館に武家屋敷の生活というパネル展示があり、竹添邸は集落の重要ポイントにあります。

内部の広間には囲炉裏があります。

奥座敷に賓客を案内し、次の間で家主が挨拶するのだそう。

季節が桃の節句ということで、豪華なひな人形も座敷に展示されていました。

敷地の中には大きな納屋があり、その向こうに母屋が見えています。

1000坪(3300㎡)もある竹添邸の配置図



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




世界の生息数5千~6千羽程度と推定されるマナヅルの羽ばたき写真と一緒にウイキペディアの記事を紹介しましょう。<・・・>がその引用

<鹿児島県出水市荒崎地方に飛来するマナヅルとナベツルは、既に1921年(大正10年)に天然記念物法により保護を受けている>

<さらに1952年(昭和27年)には、国の特別天然記念物「鹿児島県のツル及びその渡来地」としての指定も受けている>

<マナヅルの繁殖地のロシアでの野火、中国では開発による乾燥化などの影響によって、その生息数の減少が懸念されている>

<また電線に衝突することによる事故死や、渡りの途中にある韓国では農薬を用いた密猟での死亡例もある>

<越冬地の出水市では水田の乾田化やビニールハウスの設置による土地の変化・交通量増加や道路建設などによる影響が懸念されている>

<ナベヅルなど他種も含め、多数の個体が出水市に飛来し過密状態になっていることから伝染病の感染による大量、食物の不足も懸念されている>

<2010年12月には出水平野で高病原性トリインフルエンザにより7羽が死亡。出水平野へのマナヅルの渡来は2001年に3,555羽・2007年に1,059羽と変動はあるが数は漸増傾向にある>

なお今年のマナヅルの渡来数ですが、2月26日の北帰行数2835羽とあるので、3000羽程度が渡来してきていたようです。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ 次ページ »