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薩摩藩領国支配の拠点となった麓(ふもと)について「鹿児島県の歴史」1999年出版に出ていましたので早朝の出水のツル写真と一緒にダイジェスト版で紹介しましょう。

江戸時代における薩摩藩の外城は、合計113か所、麓は藩直轄の地頭所92、島津氏一門が支配する私領地21に分かれていますが、ここでは地頭所の麓を取り上げます。

一つの外城は数カ村からなり、中心には武士の集落となる「麓(ふもと)」がありました。江戸時代の麓で、現在まで良好に保存されているのは、出水、伊集院、加世田、国分、志布志、高岡(宮崎県)など。

このうち出水、知覧、入来の3か所が、国の重要伝統的建造物保存地区に指定されています。

麓は、概ね中世の古城(山城が多い)の近くにあり、地頭が居住する地頭仮屋を中心に、石垣で囲まれた武家屋敷が整然と建ち並び、小規模な城下町を形成していました。

外城行政・軍事を司る地頭は、任地に在住していましたが、1644年頃以降は鹿児島常駐となり、地頭は任地に一代に1回だけ赴く制度となっています。

したがって諺の「泣く子と地頭には勝てぬ」という地頭と直接関係のあった庶民は殆どいなかったようです。

但し、国境の要衝となる出水などには地頭代が置かれ、甑島などの離島には地頭が赴任地に在勤(居地頭)していましたので、その地域の領民には当てはまっていたのかも知れません。

鹿児島藩では1783年に外城が郷と呼ばれるようになり、1780年には外城の衆中が郷士と改称されていますので、これから外城の武士を郷士とします。・・・つづく

参考文献:「鹿児島県の歴史」原口・永山・日隈・松尾・皆村共著1999年出版



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