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出水歴史館に大きく紹介されている出水麓(ふもと)地頭の山田昌巌(しょうがん)こと山田有栄(ありなが・1578年~1668年)の祖先について調べてみましたので出水のナベヅルのディスプレイ写真と一緒に紹介しましょう。

薩摩国の山田氏には複数の系統がありますが、山田昌巌の先祖は桓武平氏の武蔵三郎左衛門有国の子、式部少輔有貫が文治年間(1185~1190年)に薩摩へ下向、日置郡の山田荘(現在の日置市)を与えられて山田姓を称したとされています。・・・ナベヅルは、ディスプレイの際に頭部が赤くなります。

この系統の山田氏は、代々島津氏家老を務める名門となり、諱(いみな)の通字は「有」の字、山田昌巌(昌巌は法号)も本姓は山田有栄(ありなが)ですが、煩雑なので以下山田昌巌とします。

山田家が薩摩に移って約390年後に山田昌巌が生まれ、山田昌巌が亡くなって今日(2020年)までが352年。歴史に名前を残した昌巌が山田氏から出るまでは長い年月を要したようです。・・・左の2羽はマナヅル

さて、歴史に最初に登場するのは、山田昌巌の曾祖父の山田有親(1480頃か?~1534年)で、薩州島津家の島津実久(1512~1553年)に与して島津忠良(島津中興の祖・日新斎1492~1568年)島津貴久(1514~1571年)父子に反目、1534年に降伏したものの切腹に処されます。(曾祖父は切腹)

しかし島津忠良(日新斎)は後にそれを後悔し、山田有親の嫡男山田有徳(1510?頃か~1560?頃か)に山田氏の本貫地である日置郡山田を継がせています。・・・手前はマナヅル

山田昌巌の祖父山田有徳は、島津貴久の家臣として1555年の蒲生北村城攻めで功を上げて市来の地頭となり、更に串木野地頭に任じられますが、串木野に居を移して間もなく病にかかり、本貫地の日置郡山田で病死しています。(祖父は病死)

山田昌巌の父の山田有信(1544~1609年)は、幼少より島津家15代島津貴久、16代義久(貴久嫡男・1533~1611年)に仕え、1577年島津氏が伊東氏を日向から豊後国へ追いやると、有信は新納院高城の城主及び地頭に任じられています。

同年に大友宗麟が6万余の大軍を率いて高城を囲みますが、山田有信は300の兵で籠城、馳せ付けた島津家久(貴久の4男)の軍勢と併せた3,000余の兵で大友軍を耳川の戦いで破って島津勢の大勝利へと繋げたという英雄的な人物でした。

つづく



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