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出水歴史館に大きく紹介されている出水麓(ふもと)地頭の山田昌巌(しょうがん)こと山田有栄(ありなが・1578年~1668年)の山田氏について昨日紹介しました。その続きをマナヅルのディスプレイ写真と一緒に紹介しましょう。

山田昌巌の父の山田有信(1544~1609年)は1585年にあった島津勢の筑後国征伐でも功を上げています。しかし1586年に豊臣秀吉の九州征伐が始まり、豊臣秀長軍が日向にまで南下してくると、有信はまたも高城に300余の僅かな兵で籠城、高城を取り囲む豊臣軍に抗し続けます。

島津軍本隊が豊臣軍に敗れても尚、有信は島津家16代義久(貴久嫡男・1533~1611年)への忠義を尽くすために降伏勧告をはねつけ続けています。最後に義久が説得したため、子・山田昌巌(当時10歳)を人質に差し出してようやく降伏しています。

山田有信は、これらの功により1588年頃に島津家の老中職となって1,000石、その後にも500石を加増されますが、1609年義久が病にかかると、自らが身代わりとなるよう神仏に願い出て同年死去しています。(身代わり死?)

さて、山田有信の嫡男の山田昌巌は、文禄・慶長の役(1592~1597年)に従軍、朝鮮にわたって武功をあげたことで1598年に若くして大隅国福山(霧島市)の地頭に任じられ、翌年の庄内の乱の際には、福山衆を率いて出陣しています。 

山田昌巌は1600年の関ヶ原の戦いにも参陣し、島津義弘(15代貴久の2男1535~1619年)と共に敵前突破で戦線離脱、その活躍は「軍功並ぶものなし」と義弘に言わしめ、帰国後に200石の加増を受け、さらに16代当主島津義久より「丹波守吉道」の銘刀を賜っています。

1629年には福山地頭から出水地頭となりますが、1636年に薩摩藩(17代当主島津家久・義弘の子1576~1638年)の家老職を兼務しています。

島原の乱(1637~1638年)の際、関ヶ原を経験していた山田昌巌は島津軍の総大将(藩主名代)となって軍勢1000人を率いて参陣、1650年(73歳)には高齢のために薩摩藩の家老職を辞任しています。

2020石(1659年時点)を領していた山田昌巌は、1668年に享年91で病死。家督は次男・有隆が継いでいますが山田氏はその後歴史に登場していません。先祖が1185年頃に薩摩に移住してから約400年後に山田昌巌が歴史に登場、山田昌巌の死から現在まで約350年が経過しています。山田氏から英雄の再登場はあるのでしょうか。



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