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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



朝の公園でホオジロを見つけました。

最近あまり見かけないので、数が減っているのでしょう。

ホオジロの仲間には冠羽が黄色いミヤマホオジロがいて、この公園でも見かけることがあります。

冠羽を寝せたホオジロ

ホオジロの幼鳥は黒い過線が薄く、♀はが濃い茶色をしているので識別できそうです。

ホオジロの横顔

ホオジロの背中

このホオジロ、なかなか美しい羽を持っていました。

見返りホオジロ



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バードリサーチニュース20183月号に「ハマシギの現状と保全」という記事がありましたのでハマシギの写真と一緒に紹介しましょう。<・・・>が引用部

<ハマシギは、極北の鳥類を扱う国際的な渡り鳥保護の枠組み「北極渡り鳥イニシアティブ」においても緊急に対策が必要な優先種として挙げられています。日本では最も数の多いシギ・チドリ類ですが、近年は減少傾向にあり、その理由は明らかになっていません>

<また、環境省のレッドリストでは準絶滅危惧種に指定されています。そこで、ハマシギの繁殖地アラスカ、中継地カムチャツカ、越冬地日本での調査経験から、ハマシギの生態や現状を理解し、今後の課題などを明らかにして多くの人に関心を持ってもらう必要があります>

<(地球温暖化の影響で)アラスカでは年々雪解けが早まることに伴って、エサとなる昆虫の発生も早まっていますが、ハマシギの営巣開始はそれについていけておらず、今後もそのズレが拡大していく懸念があります>

<また、日本に来ていそうなハマシギには4つの亜種があります。4つの亜種の渡りのルートや時期については詳しくわかっていないことも多く、今後の研究や観察記録の蓄積による解明が期待されます>

4つの亜種とはキタアラスカハマシギハマシギカムチャッカハマシギカラフトハマシギで、保全のためには亜種ごとの渡りルートを調べることが重要となっています>

<渡りの時期も含めハマシギはほぼ全国で観察され、10月から4月にかけて主に本州以南で越冬します。ハマシギは日本で越冬するシギ・チドリ類の中では、個体数が約30,000羽と最も多く、越冬するシギ・チドリ類の60-70%を占めている身近な野鳥です>

<千葉県習志野市の谷津干潟には、かつて30004000羽のハマシギが飛来、現在も谷津干潟に最も多く飛来しています。その谷津干潟ではアラスカやカムチャツカで標識されたハマシギが多数観察されているなど、海外の生息地ともつながりが深いことが伺われます>

<日本へのハマシギ渡来数は、近年減少傾向にありますが、減少の要因は明らかになっておらず、その生態を詳しく把握して渡りルート全体で要因を突き止めることが課題となっています>



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バードリサーチニュース2008年12月号にハヤブサのことが出ていましたのでその飛び出し写真と一緒に紹介しましょう。<・・・>が引用部

<ハヤブサは分布が広く,南極大陸とニュージーランドやハワイ諸島など一部の諸島を除いて全世界に20亜種前後が生息する。日本では主要四島およびその周辺で繁殖し,一部が冬期に短距離の移動を行なう程度で,本格的な渡りはしない>

<営巣地近くに餌となる小型,中型の鳥類が豊富で営巣に利用できる断崖や大岩がある海沿いや、河川の流域がおもな生息場所である。日本で繁殖しているハヤブサは一般的に非繁殖期も雌雄ともに繁殖場所に留まっているので,同一の相手とつがい関係を維持していると考えられる>

<ハヤブサ科の野鳥は自分で造巣することはなく,ハヤブサも崖の窪みや岩棚などにじかに産卵する。また、海岸や内陸に発達する段丘崖や大岩が営巣場所として利用され, 産卵は3月から4月中旬,北海道では4月上旬が多い>

<抱卵は主にメスが行ない本格的な抱卵は30日ほど、メスはヒナの孵化後も10日ほど抱雛を続け、オスが狩りをして餌を巣へ運搬、ヒナへの給餌はメスが行なう>

<巣立ち後3週間ほどは、オス親が捕まえて来た餌をメス親が受け取り,幼鳥に与えるが、一般的には,親鳥から餌をもらいながら徐々に狩りの技術を習得し,2ヶ月ほどで分散して行く>

<しかし,中には12月頃まで親のテリトリー内に居残り,餌をねだる幼鳥もいる。 餌動物はほとんどが鳥類で,ヒヨドリやハトなどの中型鳥が大半を占めるが,げっ歯類を捕食した例はまれで,魚類はほとんど食べない>・・・これも幼鳥のようです。

<ハヤブサの翼は先端が尖ってアスペクト比が大きく,そのスピードを活かした狩りを行なうための広い空間が必要で、営巣に適した断崖はほとんどが海辺にあるので,狩りは洋上や干潟で行なわれることが多い>

<獲物を発見すると、獲物の斜め上空へ出てからだを反転させ,翼を半ば閉じて,獲物めがけて一気に急降下する。その急降下時の最高速度は294 km/hという実測値が出ている>



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日本で冬鳥とされるジョウビタキ が長野県富士見町で繁殖していることが発見されたそうなのでジョウビタキの飛び出し写真と一緒に紹介しましょう。<・・・>がバードリサーチニュースからの引用部分

<2010年に繁殖が確認されてからの後の8年間の経年調査によれば,八ヶ岳とその周辺で64件の繁殖が確認され,繁殖が継続・定着していた>といいます。

<繁殖に利用された環境には,いくつかの特徴があり,林地よりも別荘・リゾートが,非定住家屋よりも定住家屋がより多く利用されていた>人間の活動地域に近かったそうです。

<その営巣場所は,換気扇用フードなど,すべてが人工物であり,巣の地上高は2m前後が多かった>

<住宅地であっても繁殖場所は林縁部に近かったことから,ジョウビタキは林に依存しながらツバメのように人の活動と密接な関係を保つ場所で繁殖している>と結論づけています。

<その後、山梨から岡山までの広い地域でジョウビタキの繁殖が確認され、これまで夏にいるとは思っていなかったジョウビタキが注目されるようになっています>

<また日本での繁殖記録が年々増えていることから,ジョウビタキは定着して繁殖するようになり,その数も増加傾向にあるようです>地球温暖化の影響もあるのでしょう。

<繁殖に利用された環境には,いくつかの特徴がありました。林地では繁殖せずに,別荘やリゾート施設で繁殖が記録され,その中では非定住家屋よりも定住家屋がより多く利用されていました>

<ジョウビタキの繁殖地を海外で調査すると,ロシアは人工構造物で営巣することが多く日本に似ていますが、中国ではおもに森林の林縁部で繁殖しているそうです>中国人はジョウビタキから警戒されているのかも。



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認定NPO法人 バードリサーチのHPに「ハマシギの現状と保全のためにできること」という記事がありましたのでハマシギの写真と一緒に紹介しましょう。<・・・>が引用部分

ハマシギは<日本では最も数の多いシギ・チドリ類で、近年は減少傾向にあり、その理由は明らかになっていません。また、環境省のレッドリストでは準絶滅危惧種に指定されています>

<(ハマシギの繁殖地)アラスカでは温暖化の影響が表れ、雪解けの時期が早まっている。雪解けの時期が早まると昆虫類の発生も早まるため、ハマシギの繁殖時期が昆虫の発生時期よりも遅れ、長期的に個体群が減少していく懸念が持たれている>

カムチャツカ半島はハマシギの渡りの中継地で727日に越冬地に向かう渡来のピークが見られたが、その際のハマシギは亜種カムチャッカハマシギと考えられた>

89日、亜種についてはっきりしない9,697羽のハマシギが観察されたが、アラスカなどで繁殖した亜種キタアラスカハマシギが渡ってきている可能性が考えられる>

<越冬する日本でのハマシギは冬羽となるため亜種の識別は困難であるが、夏羽を残している秋の渡り時期や、夏羽に換羽している春の渡り時期には、羽色や形態から亜種の識別も可能ではないかと思われる>

<観察記録を蓄積することにより、どの亜種がどのようなルートをどの時期に利用して移動しているのかといった疑問の手がかりになることが期待される>

<アラスカでは7月下旬にはいなくなり、カムチャツカでは8月上旬がピークとなるハマシギが、日本に現れる時期は9月下旬から10月以降なので、知られてない中継地がある可能性も>

<ハマシギを含む渡り性のシギ・チドリ類を守るためには、繁殖地、中継地、越冬地それぞれで保全の活動をすることが重要で、その生息地を守る重要性を認識することが必要となる>



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大阪湾を眺めていたら、一風変わった船が近づいてきて、どうやら大阪港に寄港するようです。そこでその船をNETで調べてみました。

大阪市港湾局のHPを見ると、127日に船名「A」という船が大阪港W1埠頭に845分入港とありました。船名がアルファベット1文字という船は珍しいですね。

モーターヨット「A」と命名され2008年に就航したこの船は、マーシャル諸島共和国船籍で全長約118メートル、幅118メートル、総トン数5959トン、建造費350億円という船でした。ちなみに全長180m・乗客700人・乗員400人・3万トンの豪華クルーズ船の建造費は2億ドル(220億円)程度なので「A」がどれほど贅沢な船か判ると思います

甲板にはプールやジャグジー、ヘリポートを備えるほか、船内は最高級ホテル並みの内装が施され、ロシアの大富豪がプライベート用に建造したとされています。・・・船尾にあるマーシャル諸島共和国の国旗

「A」には、1つのマスタースイートと6つのゲストルームに最大14人のゲストを収容でき、クルーは35人(オーナーとゲスト合計の倍以上)、年間維持費に20億円という噂もあるとか。・・・舷側にある片側3つの窓はゲストルームか、クルー船室か?

船のオーナーは、ロシアの大富豪「アンドレイ・メルニチェンコ」(1972~・47歳)で、フランス人デザイナー「フィリップ・スタルク」(東京にあるアサヒビールスーパードライホールとオブジェの設計者)に船のデザインを依頼しています。

ロシア人「アンドレイ・メルニチェンコ」は、ニッケル、パラジウム、銅の世界最大メーカー「ノリリスク・ニッケル」の株式を30%も保有している実業家で、モーターヨット「A」の日本への寄港には「スーパーヨット誘致会議・日本」の誘致活動の成果とされています。

全長が24メートルを超える個人所有船をスーパーヨットと呼び、世界中で約1万隻が運航されているそうですが、「アンドレイ・メルニチェンコ」は、このヨット以上に豪華な建造費500億円という「セーリングヨットA」(2017年完成)も所有しているそうです。

「スーパーヨット誘致会議・日本」の理事には、元横浜市副市長、藤木企業の藤木社長、船舶代理店「SYLジャパン」の稲葉代表取締役らが名を連ねているそうです。



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リストバンド(500円で購入)を示すことで格安特別メニューが楽しめる「サンタバル」が12月4日から8日まで開催されていましたので参加してきました。

今回は旧歌舞伎座裏にある3店で格安特別メニューを頂き、4店目は三津寺通りのバーで締めというコース。・・・最初の店は肉バルGAM

肉バルGAMの特別メニューは、牡蠣肉と赤身肉の寿司とドリンクで900円(通常1320円)

2店目は座裏ブタマル

座裏ブタマルのカウンターで頂いたのは、おまかせつまみ3点盛りと煮込みと1ドリンクで800円(通常1360円)

3店目は「華」

カウンターの1階ではなくテーブル席がある2階で前菜3種盛りと1ドリンクを900円(通常1400円)で頂きました。

腹が一杯となったので旧歌舞伎座裏から道頓堀を越え、最後のバーがある三津寺筋まで移動しました。

BARサンクでカラオケとウイスキーを3杯頂き、完全にできあがって帰宅しました。



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平成28年6月に環境省 自然環境局 野生生物課から「日本で繁殖するチュウヒ保護の進め方」という資料が公開されているのでその一部を紹介しましょう。<・・・>がその引用

<日本で繁殖しているチュウヒは、早春に越冬地(日本国内や中国南部から東南アジア)から日本国内にある繁殖地に渡来する(越冬地から遠く移動せずに繁殖を行う個体もある)>

<2月下旬にはつがい(以下番)を形成、その後造巣をはじめ、4月下旬に抱卵を開始して抱卵5週間ほどでヒナが孵化する>

<ヒナは孵化後6075 日齢で親から独り立ちする。チュウヒは基本的に一夫一妻制であるが、各地で一夫二妻の事例が確認されている。繁殖終了後、親鳥と一部の幼鳥は繁殖地から姿を消し、成鳥は越冬地に渡り、幼鳥は分散する>

<越冬地では、ヨシ原等において、多くの場合、越冬のための集団のねぐらを形成するが、一般にチュウヒの生息地、特に営巣場所を公表した場合、カメラマン、観察者等多数の人々が営巣場所の近辺に集合、出入りを繰返し、チュウヒの繁殖を阻害することがある>

<したがって、営巣場所の位置情報や背景から場所が推定できる写真等は、原則として行政機関の自然保護部局等、チュウヒの保護及び保全措置に携わる関係者や研究者以外には非公開とする>

<チュウヒは渡り鳥であるが、海外の越冬地から渡来して日本で繁殖するもの、繁殖地及び越冬地がともに日本にあるものなど、渡りの動態は必ずしも明らかではない>

<また、チュウヒの越冬地・中継地での生態研究も途上である。チュウヒの生態等については、依然情報が不足していることから、今後いっそうの研究が求められる>

<また、チュウヒに関する生息調査等は、幅広い主体によって実施されていることから、それらの調査等によって得られた情報を収集し、有効活用を図ることが求められる>



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近所の公園に渡来したチュウヒの写真と共に、環境省自然環境局野生生物課の報告書「チュウヒ保護の進め方」の一部を紹介しましょう。<・・・>が引用部

<チュウヒが生息するためには、多様な食物資源が供給される豊かな生物多様性が確保された湿地生態系が必要で、チュウヒが生息することは、良好な湿地生態系が維持されていることの指標と言うこともできる>

<しかし、現在、日本国内で繁殖するワシタカ類の中では亜種を含めても繁殖個体数が最も少ない種となっており、営巣期における国内の繁殖つがい数が8090 つがい(環境省2015)>

<個体数は300450 羽(環境省2014)と推定されており、環境省レッドリスト2017において絶滅危惧ⅠB類に位置づけられている>

<チュウヒ個体数の主要な減少要因は、湿地の開発や植生遷移によるヨシ原の衰退等による生息環境の減少と考えられる>

<その他、マナーを守らないカメラマンやバーダーの繁殖地への過度な接近による営巣環境攪乱も減少の要因と考えられている>

<タカ目タカ科に属するチュウヒの繁殖地域は、バイカル湖周辺や中国の内蒙古中部から樺太、日本の九州以北まで>・・・日本での繁殖つがい数は少数ですが、バイカル湖からサハリンまでの広大な地域にはまだ多数のチュウヒが生息していると思います。

<越冬地域は中国南部、日本、インド、ミャンマー、タイ、インドシナ、マレー半島、ボルネオ、フィリピン、台湾など>越冬地域も広範囲に渡っているので、そちらの越冬数は日本の越冬数よりも遙かに多いでしょうね。

<一般にチュウヒの生息地、営巣場所を公表した場合、カメラマン、観察者等多数の人々が出入りし、チュウヒの繁殖を阻害することが危惧される。したがって、営巣場所の情報は行政機関自然保護部局等の保護に携わる関係者以外には非公開とする>ということなので、チュウヒの撮影場所は公開しないほうが良いようです。



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ホオジロガモ♂が大阪市内の公園に渡来してきましたので紹介しましょう。・・・左はハヤブサ

ホオジロガモ(頬白鴨)は、カモ目カモ科に分類される鳥で和名の由来は♂の頬に白い楕円形の模様があるからと言われています。・・・ハヤブサの接近に気がついて潜水するホオジロガモ

北ヨーロッパからシベリア、カムチャツカまでのツンドラ以南の森林、南はウスリー地方で繁殖し、地中海やペルシア湾、日本、中国南部、朝鮮半島などで越冬する旧北区亜種と、アラスカやカナダで繁殖し、アメリカ中部などで越冬する新北区亜種の2亜種分けられています。・・・上はウミアイサ♀、下の2羽がホオジロガモ♀か♂の幼鳥

日本へは冬鳥として渡来しますが、北日本に多く渡来するといわれ、流氷クルーズに参加した際、網走港で多数のホオジロガモを見たことがあります。・・・クチバシ先端が黄色い♀の羽ばたき

一方、本州中部以南で観察される個体は少ないようですが、日本野鳥の会のバードファンというHPを見ると、福岡、山口、岡山、愛媛、大阪など西日本でも写真撮影されています。

全長は♂で約46cm、♀は40cm、雌雄とも他のカモ類と比べて、体の割りに頭部が大きく見えるのが特徴です。・・・下はホオジロガモ♀上はオオバン

は頭部が緑色光沢のある黒色で、顔の前面に楕円の白斑があり背は黒ですが、♀は頭部と背は褐色で、体下面は灰褐色。顔には♂のような白斑はありません。・・・ホオジロガモ♀

「鳥名由来辞典」によると、江戸時代前期、黒い翼の一部が白いカモを「はじろがも」と呼び、ホオジロガモもその仲間と考えられていたようです。・・・羽ばたくと翼表面の白い部分が見えます。

さらに江戸中期には♂の頬が白い特徴から「ほほじろがも」、「ほほじろはじろ」、「てこがも」と呼ばれるようになり、現在のホオジロガモに統一されたようです。



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近所の大和川中州のカモメ集団の中にオニアジサシが渡来してきていましたのでウィキペディア(以下wikとします)の記事から紹介しましょう。

オニアジサシは、チドリ目カモメ科の下に分類されるアジサシ亜科オニアジサシ属とされているので同じ中州に渡来してきているカモメ(ユリカモメ・ウミネコ・セグロカモメ)とは親和性があるのでしょう。

オニアジサシの繁殖地は、ヨーロッパ・バルチック海、黒海沿岸の中央アジア、北アメリカなど、越冬地はアフリカ・オーストラリアなど(南アメリカを除く)の沿岸地帯です。

 従って日本では、まれな旅鳥または冬鳥として、本州、四国、九州、南西諸島に渡来するだけですが単独での飛来が多いようです。・・・このときも1羽だけ

オニアジサシの全長は約53cm(Wikの英語サイトでは48–60 cm)、翼開長は約140cm(Wik英語では127–145 cm)野鳥は英語サイトの方が情報量が多いようです。・・・長距離を移動するアジサシはユリカモメ(後方)より翼開長が長い

日本で観察されるアジサシ類では最大の種とされ、同じ中州にいるユリカモメ(40cm)より明らかに大きく、ウミネコ(46cm)とほぼ同じ、セグロカモメよりは小さいようです。・・・手前はウミネコ

オニアジサシの体の上面は淡い灰色、体の下面は白色とカモメと似ていますが、頭頂部が黒(冬羽では白色の羽が少し混じり、薄い黒)なので、多数のカモメの中から頭の黒い個体を探すと見つけることができます。

また最も違いが目立つのが、太く長い赤いクチバシで、このクチバシを見れば容易に識別が可能です。

ちなみに財団法人日本野鳥の会のポータルサイトから、オニアジサシが撮影された都道府県を見ると島根県1、長野県2、東京都1、千葉県2と、6件の事例しかありませんので、まれな野鳥という表現に間違いはないようです。



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昨日の記事の続きです。さて、関ケ原で西軍に加担した佐竹氏は1602年、常陸国54万石(1594年の検知)から出羽国秋田20万石に減転封となり、藩主の佐竹義宣(15701633)が一族と共に秋田に移ってきています。

このとき名門蘆名氏を名乗る義宣の実弟、蘆名義勝(義広・15751631)が角館16,000石に入り、角館を新しい城下町としています。

蘆名氏(佐竹の分家)の支配は3代続きますが、1653年に断絶。京都から佐竹義隣(当時41歳・16191702)が当主が本家を継いで断絶していた佐竹北家の当主となって角館に入っています。・・・一般公開されている石黒家

佐竹義隣の父は、権大納言・高倉永慶、母が佐竹義宣の妹、義隣は40歳まで暮らした故郷を懐かしみ、京に似た角館の山河を「小倉山」、「加茂川」など京都の地名に改名したといいます。

佐竹義隣の長男は佐竹北家の当主となった義明、以降佐竹北家は幕末まで続き、明治維新後に男爵、現秋田県知事の佐竹敬久はその子孫とされています。

一方、佐竹義隣の次男佐竹義秀は名門の佐竹東家を相続、孫は佐竹壱岐守家を相続、その長男は佐竹本家(205千石)、次男は新田藩(2万石)を相続、四男は蜂須賀家(257千石)に入って徳島藩主、京都から角館に入った佐竹義隣の子孫は3つの大名家の当主となったのです。

ところで戊辰戦争時の佐竹藩は、新政府側に立ったことから、奥羽越列藩同盟の侵攻を受けることとなり、18688月に奥羽列藩同盟が角館の目前まで迫り、二日間にわたる攻撃があったといいます。

しかし9月に入って列藩同盟側が佐竹藩領から撤退を始めたことで角館は戦禍をまぬがれ、現在のような武家屋敷が保存されたようです。

角館は江戸時代を通じて仙北郡の政治経済の中心地でしたが、1871年の廃藩置県以降はその地位を喪失していました。しかし、1976年武家屋敷地区一帯が「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され、今では多くの観光客が訪れるようになっています。



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今回の東北旅行で訪問した角館ですが、その歴史を昨日に続いて紅葉と一緒に紹介しましょう。・・・角館のメインストリート

戦国時代の角館は、平衡盛(ひらもり)より始まる戸沢氏の本拠地でした。家祖とされる平衡盛の「衡・ひら」は、奥州藤原三代(清衡・基衡・秀衡)が名乗っているので、戸沢氏は奥州藤原氏の一族だったと言う説が有力です。

平衡盛は、京に攻め込んだ木曾義仲に属していましたが、途中から義仲と別れて奥州滴石(岩手県雫石町)に転居。1185年には源頼朝に臣従して鎌倉幕府の御家人となり、その頃に滴石の戸沢村に居を構えたことから「戸沢氏」を称するようになっています。

鎌倉幕府が滅び建武の新政(1333年)が始まると、北畠顕家(13181338)が陸奥守として多賀城(宮城県多賀城市)に下向。そのため戸沢氏は一時顕家の南朝に属しますが、顕家が戦死すると足利方(北朝)に転向しています。・・・青柳家の庭

戸沢家家譜に拠れば1423年、戸沢家盛の代に戸沢から約30km西寄りの角館に本拠地を移したとあるので、角館は600年近い歴史があることになります。その後、戦国時代に名将戸沢盛安(15661590)が登場します

角館を本拠地とする戸沢盛安は東北地方で勢力を拡大、豊臣秀吉の小田原征伐(1590年)には東北地方の戦国大名の中ではいち早く参陣して秀吉の賞賛を受けますが、盛安は小田原参陣中に急病死しています。

戸沢盛安の嫡男政盛は、関ヶ原の戦い(1600年)で徳川方に属していましたが、戦いに消極的だったため角館から常陸国松岡(茨城県高萩市)へ減転封されています。

戸沢氏転封後の角館には1603年、秋田に転封された佐竹義宣(15701633)の実弟、蘆名義勝(義広・15751631)が入り、1620年に現在の古城山南麓へ町を移転させています。

一方の戸沢氏ですが、1622年に最上氏が改易されたために新庄(山形県新庄市・旧領地の角館に比較的近い)へ加増転封となり、以後新庄藩6万石の大名として明治維新まで無事に続いています。・・・角館出身の小野田直武像

つづく



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