昨日の記事の続きです。さて、関ケ原で西軍に加担した佐竹氏は1602年、常陸国54万石(1594年の検知)から出羽国秋田20万石に減転封となり、藩主の佐竹義宣(1570~1633)が一族と共に秋田に移ってきています。
このとき名門蘆名氏を名乗る義宣の実弟、蘆名義勝(義広・1575~1631)が角館1万6,000石に入り、角館を新しい城下町としています。
蘆名氏(佐竹の分家)の支配は3代続きますが、1653年に断絶。京都から佐竹義隣(当時41歳・1619~1702)が当主が本家を継いで断絶していた佐竹北家の当主となって角館に入っています。・・・一般公開されている石黒家
佐竹義隣の父は、権大納言・高倉永慶、母が佐竹義宣の妹、義隣は40歳まで暮らした故郷を懐かしみ、京に似た角館の山河を「小倉山」、「加茂川」など京都の地名に改名したといいます。
佐竹義隣の長男は佐竹北家の当主となった義明、以降佐竹北家は幕末まで続き、明治維新後に男爵、現秋田県知事の佐竹敬久はその子孫とされています。
一方、佐竹義隣の次男佐竹義秀は名門の佐竹東家を相続、孫は佐竹壱岐守家を相続、その長男は佐竹本家(20万5千石)、次男は新田藩(2万石)を相続、四男は蜂須賀家(25万7千石)に入って徳島藩主、京都から角館に入った佐竹義隣の子孫は3つの大名家の当主となったのです。
ところで戊辰戦争時の佐竹藩は、新政府側に立ったことから、奥羽越列藩同盟の侵攻を受けることとなり、1868年8月に奥羽列藩同盟が角館の目前まで迫り、二日間にわたる攻撃があったといいます。
しかし9月に入って列藩同盟側が佐竹藩領から撤退を始めたことで角館は戦禍をまぬがれ、現在のような武家屋敷が保存されたようです。
角館は江戸時代を通じて仙北郡の政治経済の中心地でしたが、1871年の廃藩置県以降はその地位を喪失していました。しかし、1976年武家屋敷地区一帯が「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され、今では多くの観光客が訪れるようになっています。