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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



日本海軍は、日露戦争の日本海海戦以降、正々堂々の艦隊決戦至上主義を取り続けますが、ドイツUボートの通商破壊による大戦果という教訓をいち早く取り入れたのが米軍でした。歴史に学ばなかった日本が米国潜水艦の攻撃で受けた損害をポピーの写真と一緒に紹介しましょう。

日本商船を狙った米軍潜水艦の攻撃は1944年(昭和19年)2月頃から一段と激しくなり、225日にはインドネシア・スラバヤを出た輸送船「丹後丸」と「隆西丸」が魚雷攻撃で撃沈、丹後丸は5700人、隆西丸が5000人、合わせて11千人以上が一挙に死亡、太平洋戦争における通商破壊作戦での最大の犠牲者でした。

229日には宇品からサイパンを目指す崎戸丸が魚雷攻撃されて沈没、乗船していた将兵を含めて2317人が戦死。その後の輸送船団も米潜水艦の魚雷攻撃で数十~数百人規模の犠牲者を出し続けています。

624日、戦略物資を満載してシンガポールから門司を目指していた那須山丸・玉鉾丸・台南丸・建日丸が長崎を目前とした場所で魚雷攻撃され沈没。この頃には日本近海まで米潜水艦が来ていて輸送船は危険な状況だったということでしょう。

629日、沖縄に向かっていた軍隊輸送船「富山丸」が徳之島沖で米潜水艦「スタージョン」の雷撃により沈没、この1隻だけで3874人が死亡。

79日、門司からマニラに向かった輸送船団のうち日蘭丸が沈没1262名が戦死、31日には吉野丸が沈没兵士5063名中2400名が戦死、扶桑丸も沈没4500名中1350名が戦死、万光丸も517名のうち半数以上が戦死、光栄丸も魚雷で1050名のうち150名が戦死。この船団だけで5400人余が戦死しています。

終戦の1年前となる818日にはフィリピンに向かっていた玉津丸が魚雷攻撃を受け4820人のうち4755人が死亡、玉津丸を含む船団全体の犠牲者数は7546人と太平洋戦争の輸送船攻撃では2番目に多い犠牲者を出しています。

米軍潜水艦の攻撃で兵士の多くが戦う前に戦死し、生き残った兵士も兵器弾薬などの軍需品、食料品を持たずに上陸、これでは強力な米軍と戦えるはずはありません。

1944年918日には輸送船「順陽丸」がインドネシア沖で潜水艦の攻撃により沈没。連合国軍の捕虜を含め約5620名が死亡しますが、大本営は翌年3月末までの半年間も輸送作戦を継続し多くの犠牲者を出しています。一方、日露戦争における日本海海戦のように正々堂々の艦隊決戦を目指していた日本の潜水艦は殆ど戦果を挙げていなかったのでした。

参考文献:戦時輸送船団史 駒宮真七郎著



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多賀大社に関する昨日の記事からの続きです。・・・・絵馬通りの看板。下の写真の右手が多賀大社の拝殿です。

多賀大社の祭神は伊弉諾尊(イザナギノミコト)と伊弉冉尊(イザナミノミコト)、お二人は天照大神のご両親に当たります。・・・多賀大社拝殿前の鳥居

天照大神の孫が多賀大社の摂社・日向神社の祭神となる瓊瓊杵尊(ニニギノモコト)。瓊瓊杵尊の妻は木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)です。・・・多賀大社にも住吉大社のような太鼓橋(反り橋)がありました。ただしこちらは石造りです。

瓊瓊杵尊と木花咲耶姫との間にできたのが火遠理命(ホオリノミコト)。火遠理命の妻は稲佐の浜弁天島の祭神・豊玉姫命で二人の間にできたのが鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)・・・拝殿

鵜草葺不合命とその妻、玉依姫との間にできたのが神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレビコノミコト・初代神武天皇)・・・反り橋と鳥居を振り返って見たところ

神武天皇からみると、火遠理命は祖父、瓊瓊杵尊は曽祖父。瓊瓊杵尊はアメノオシホミミの子、天照大神の孫(天孫)なので、神武天皇から見た天照大神高祖父の親に当たります。

従って、神武天皇から、多賀大社の祭神を見ると伊弉諾尊と伊弉冉尊は高祖父の祖父母となるわけですね。

現在の社殿は、昭和8年に完成していますが、皇室の先祖を祭る神社であることから昭和5年に皇室から御下賜金が下賜されています。拝殿の後ろにある本殿の屋根が少し見えています。

多賀大社の境内にある朱の鳥居は、金咲稲荷大明神の鳥居でした。



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彦根から多賀大社までは近江鉄道を利用するのが便利です。近江鉄道高宮駅で乗り換えた終点、多賀大社前駅から多賀大社までの風景を紹介しましょう。・・・近江鉄道多賀大社駅

彦根城から直線で約6.5kmの距離にある多賀大社に向かうにはこのルート、江戸時代以前の参拝者が大勢通ったことでしょう。・・・多賀大社駅の近くにある石の鳥居と扁額

鳥居を潜って先に進むとT字路があり、左が多賀大社です。・・・600mとあります。

ゆるやかにカーブした参道

途中のお堂

古い石柱には「右本社道」とあり、歴史がありそうな小川長寿堂薬局の前を先に進みます。・・・街灯の支柱に「絵馬通り」と表示されています。

こちらは歩いてきた近江鉄道多賀大社駅の方向

絵馬通りを先に進むと、広くて新しい石畳の道となります。歩く人は稀で伊勢の「おかげ横丁」に比べると静かなものでした。

絵馬通りをさらに進むと、多賀大社の手前に天孫(天照大神の孫)瓊瓊杵尊(ニニギノミコト・多賀大社の伊邪那岐、伊邪那美からはひ孫)を祭る摂社・日向神社がありました。



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昨日の記事で紹介した稲佐の浜の豊玉毘古命の祖父母、伊弉諾尊 (いざなぎのみこと)・伊弉冉尊 (いざなみのみこと)を祀るのが近江の多賀大社です。なぜ近江かと言えば「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐す」と古事記にあるからでしょう。

一方、日本書紀に「伊弉諾尊は幽宮を淡路の洲につくり」とあることを受けて淡路島に伊弉諾神宮があり、古くから近江か淡路かどちらが正かの論争があったようです。

本居宣長は、「淡路に多賀という地名が存在しない」として古事記の伊邪那岐大神は近江であると唱えています。

また、同じ神が二か所に祀られていても不思議はないので論争そのものが無意味という説もあるようです。

古事記には伊弉諾尊 ・伊弉冉尊 は天照大神を生んだとあるので、伊勢神宮は、多賀大社の祭神の子供を祭っていることになります。・・・石の太鼓橋

古くから「お伊勢参らば お多賀へ参れ お伊勢はお多賀の子でござる」とあるのがそれです。

さて1195年、後白河法皇から東大寺再建の院宣を受けた重源(当時61歳)が多賀大社に参篭、長寿を祈ったところ、ここで20年の寿命を与えられ、再建をはたすことができたと社伝にあります。それ以降、長寿祈願の神社とされ、社頭に重源が使ったという寿命石が残っています。

 室町時代、戦国時代にも多くの有名人から寄進があった記録があり、徳川時代の元和元年(1615年)に社殿が焼失しますが、寛永10年(1633年)に徳川家光が再建を命じ、5年後に完成。

その後、安永2年(1773年)、天明2年(1782年)、寛政3年(1791年)と社殿の被災と再建が繰り返され、現在の社殿は1933年(昭和8年)に再建されたものです。

参考文献:多賀信仰 多賀信仰編纂委員会編



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出雲大社の西、車で5分、歩いて30分で到着する稲佐の浜は、日本の渚百選に選ばれている由緒ある海岸です。

日本の渚百選は、大日本水産会などの選定委員会が1996年に発表した渚100か所のことで、関西では神戸の須磨海岸、淡路島の慶野松原、和歌山の白良浜など、島根県ではこの稲佐の浜と太田市の琴ヶ浜の2か所、ただし大阪府下の海岸は残念ながら選ばれていません。

さて、稲差海岸にある看板には「神話の舞台 稲差の浜」とあり、ここは古くから出雲神話の舞台として知られていて、その神話を伝える古事記(712年成立)にも「伊那佐の小濱」として登場、1300年前から中央(大和)に知られていたことに驚かされます。・・・千家国造館の隣が出雲大社

稲佐の浜の中心にある岩は弁天島で豊玉毘古命(とよたまひめのみこと)を祀っています。

出雲国風土記(西暦733年)には、出雲大社などがある「杵築の御崎(島根半島西部)」を国引きした際に綱を懸けたのが、佐比売山(三瓶山)、引いた綱が稲佐の浜から南へ続く島根半島西部海岸となって「薗の長浜(園の長浜)」と呼ばれていたとあります。・・・はるか向こうに三瓶山(高さ1126m)が見えていますね。

さて、弁天島祭神の豊玉毘古命は、伊弉諾尊 (いざなぎ)・伊弉冉尊 (いざなみ)の孫娘に当たり、邇々芸命(ににぎのみこと)が木花佐久夜毘売(このはなさくやひめ)との間にもうけた火遠理命(ほおりのみこと)と結婚し、鵜茅不合葺命(うがやふきあえず)を生むので神武天皇の祖母に当たります。

古事記では、鵜茅不合葺命(うがやふきあえずのみこと)は、豊玉毘古命の妹・玉依姫神に養育され、後に玉依姫神との間に神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれひこのみこと・神武天皇)をもうけることになっています。・・・稲佐の浜の北に漁港(大社漁港)がありましたので、寄り道してみました。

港では大敷網で捕獲した魚の選別作業をしているようで、海に白い海鳥が数多く集まっていました。この辺りの白い海鳥と言えば経島(ふみしま)のウミネコで、ウミネコ達は、孵化したばかりの食欲旺盛な雛鳥を育てている真っ最中のはずです。

ここでは、小魚を選別して売り物にならないものを海に捨てているようで、多くのウミネコ達が雛鳥に与える獲物としてそれを狙っているようでした。



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出雲の和風リゾートホテル「月夜のうさぎ」の宿泊した翌日、徒歩10分ほどの距離にある出雲大社まで散歩してみました。・・・門前町の朝

早朝(5時~6時まで)なら無人の出雲大社に参拝できます。正門前

鳥居を潜って振り返ると、やや高い丘の頂上に鳥居があることが判ります。

拝殿に向かう無人の参道は、緩い下り坂となります。

誰もいない参道の松林と鳥居

早朝の時間帯に参拝できるのは、銅の鳥居の前まで。

銅の鳥居の右側には北島国造館と真名井の社家通りがあります。こちらも人通りがありません。

無人の北島国造館。茅の輪が設置されていました。

出雲大社のもう一つの国造家、千家神楽殿も無人でした。千家神楽殿には有名な大しめ縄があり、この前はいつも人で一杯ですね。



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共立メンテナンスが全国29か所に展開するリゾートホテルのうち2か所が出雲市にある「佳雲」と「月夜のうさぎ」です。今回、面白いネーミングの「月夜のうさぎ」に宿泊しましたので紹介しましょう。

月夜のうさぎには下足箱があり、靴をロッカーに入れて畳敷きのロビーに上がり、チェックインとなります。

宿泊フロアーの廊下にも畳が敷いてあり、和風旅館のイメージを狙っているのでしょう。

和風デラックスツインの客室。窓際にディベッドがあり、3人までゆったり寝ることができそうでした。

ベッドの高さは、和風というコンセプトに合わせたのか異常に低いので、やや使いにくいと感じました。・・・入り口方向

内装には木がふんだんに使われていました。客室のテレビ。左のカウンターの下にディベッド用の布団が収納されていました。

ホテル内には、(天然温泉・大社の湯という)露天風呂のある大浴場が2か所と、5か所の貸し切り風呂があるので、この浴室を利用する宿泊客は少ないでしょう。

和風ホテルらしくトイレは浴室とは別で、デザインされたカバーで予備のトイレットペーパーが包んでありました。

ロビーラウンジのアート作品、この左側がビュフェレストラン「花うさぎ」です。夕食と朝食ともに頂きましたが、敢えて言えば朝食がお薦めでしょう。



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昨日の記事に続き、1945年(昭和20年)412000人余りが遭難した阿波丸事件を阿波丸が出航したシンガポール・ジュロンバードパークの鳥の写真と一緒に紹介しましょう。

194541日午後10時頃、阿波丸は中国本土寄りの台湾海峡を航行していたところ、アメリカ潜水艦クイーンフィッシュに探知され、クイーンフィッシュは魚雷を発射、魚雷が命中した阿波丸は一瞬で沈没しています。

10分後に戦果確認のため浮上したクイーンフィッシュは無数の人が漂流物に混じって泳いでいるのを発見しますが、うち船員1人だけが収容され、残りの2000人余りは助かりませんでした。

潜水艦クイーンフィッシュには阿波丸攻撃の禁止命令書が渡されていましたが、艦長が命令書を確認するのが遅れ、阿波丸の位置を知らせる伝達も遅れていたのが原因とされ、艦長は軍法会議で有罪判決(比較的軽い戒告処分)を受けていますが、後に艦長は海軍少将まで昇進しています。

日本政府は撃沈直後から戦時国際法違反として抗議、戦後に阿波丸の賠償金請求が出されましたが、アメリカ政府は日本への有償食料援助額を18億ドルから49千万ドルへ値引きすることで、阿波丸賠償請求権を放棄するよう求め、当時の日本政府もこれを了承。

その後、1950年の国会では「阿波丸事件の見舞金に関する法律」が成立、死亡者1人あたり7万円の見舞金が遺族へ支給され、阿波丸を失った日本郵船には、1784万円が賠償支給されています。

阿波丸にスズ・タングステンなどの地金5000トン以上、金塊、プラチナ、ダイヤモンドなど(数100億円相当か)が積み込まれていたことを知った日米メンバーは、早くから阿波丸引き揚げを計画、日本政府や中国政府に働きかけますが、阿波丸が中国領海内にあったために着手されませんでした。

ところが19794月、中国政府は沈没した阿波丸を中国領海沖の水深60mの地点で発見、阿波丸から多数の遺骨や遺品が回収され、日本側に引き渡されています。

中国政府は、阿波丸が積んでいたスズ・タングステンなどの地金5000トン以上、金塊、プラチナ、ダイヤモンドなど(時価数百億円)を引き揚げたかどうかを明らかにしていません。

参考文献:阿波丸撃沈 太平洋戦争と日米関係 ロジャー・ディングマン著 川村孝治訳



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1945年(昭和20年)822日(終戦後1週間)、1700人余りが遭難した三船殉難事件を調べていると、阿波丸事件にたどりつきましたので、阿波丸が最後に寄港したシンガポール・ジュロンバードパークのサイチョウの写真と一緒に紹介しましょう。

戦争中の1945年(昭和20年)41日、シンガポールから日本へ向けて航行中であった輸送船阿波丸が、アメリカ海軍の潜水艦により撃沈され、2000人以上の乗船者の1名を除いた全員が死亡しています。

太平洋戦争中の米英国潜水艦攻撃による日本軍輸送船での死者は、19442月の丹後丸(5700人)・隆西丸(4999人)、同年6月の高山丸(3874人)、同年9月の順陽丸(5620人)など多く発生していますが、阿波丸だけは安全が保障されていた船でした。

1944年(昭和19年)10月、日本とアメリカの間でアメリカ側の捕虜・拘束民間人へ救援物資を送る協定が成立し、それに従事する阿波丸は病院船に準じた保護が約束されていました。

阿波丸は識別のため舷側・煙突・甲板2か所に緑十字の識別マーク、夜間には照明を灯して航行、アメリカ軍は阿波丸の航路情報を各部隊へ通知し、攻撃しないよう命令していたのです。

日米の事前協議では、アメリカ側が阿波丸をどのように利用しようとも構わないと了解、市民、官吏の輸送についても黙認する構えでしたので、シンガポール在留邦人は安全が保証された阿波丸で帰国することを競い、軍人、政府関係者、船員軍属が優先的に乗船しています。

1945年328日、阿波丸には乗員と合わせた20042130人が乗船、さらに大量の軍需資源も積み込まれシンガポールを発って帰途に就いています。

その資源とはスズ・タングステン・アルミニウムなどの地金5000トン以上、生ゴム2000トン以上、重油及びガソリン2500トン、さらに東南アジア占領地から押収した金塊、プラチナ、ダイヤモンドなどであったといいます。

陸軍船舶輸送司令部の将官は、海軍情報機関の日高震作大佐が金塊、ダイヤモンド、イギリス・アメリカ紙幣を積み込ませたと言い、歩兵第11連隊の若い兵士は「南方開発金庫」から600個以上の重い箱を港の阿波丸に運んだと戦後証言しています。

参考文献:阿波丸撃沈 太平洋戦争と日米関係 ロジャー・ディングマン著 川村孝治訳



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近所の干潟に渡来するチュウシャクシギの大好物はカニです。そのカニを探して時々干潟の上を飛行しますので、その姿を紹介しましょう。

チュウシャクシギ9羽の編隊飛行

スピードが速いので先頭の1羽はフレームからはみ出してしまいました。

2羽の拡大。オーストラリアから東南アジアで越冬、今の季節に大阪で栄養補給して、これからシベリア北部に渡るはずです。

日本の野鳥590によれば<日本全国の干潟、河口、海岸の岩場、農耕地、河川に渡来>

<渡りの時期には群れていることが多く、数百羽単位で見られることも珍しくない>とあります。

確かに、数年前の冬にシンガポールの自然公園で数百羽単位のチュウシャクシギを見たことがあります。

しかし、現在の日本では相当渡来数が減少しているようなので、数百羽単位というのは過去の話ではないでしょうか。

このチュウシャクシギは、飛ぶときに独特の美しい鳴き声を出しますが、このまま減ってゆけばその鳴き声も聞くことができなくなるのでしょうね。



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久しぶりに東京江東区豊洲に行ってきましたので、大阪市民にはあまり馴染みがないと思う豊洲周辺の状況を紹介しましょう。・・・左が豊洲駅

豊洲と言えば、小池百合子知事が当選したあと、土壌汚染を問題視して豊洲市場の使用開始時期を強引に延期、その地名が一躍全国に名前が知れ渡りました。・・・ゆりかもめの新豊洲駅周辺

その土壌汚染追加対策としての地下空間内の整備と、地下水の汲上げ機能強化工事は順調に進み、有効性評価・調査も7月中に結果を公表できる見通しのようです。・・・近所の小学校で春の運動会

また小池知事が「築地は守る、豊洲を活かす」と格好良く宣言して築地「食のテーマパーク」構想を提示したことに豊洲市場の集客施設事業者が反発、どうやら築地を立てれば豊洲が立たない状態となっているようです。・・・築地方向

江東区長は、築地市場の豊洲移転に際して、江東区が賑わうような集客施設を豊洲に併設することを条件としているので、集客施設事業者が下りると東京都が江東区と交わした約束が守れないことになり、都と区のトラブルに発展しそうです。・・・中央豊洲市場駅近くの空き地が集客施設の予定地

もう一つの大きな問題は、豊洲市場開業(20181011日)5日前まで築地市場が通常通り営業、営業終業後に各事業者が一斉に豊洲へ引っ越しとなること。たった4日間ですべての関係者が円滑に移転できるかどうかが課題となっているようです。

豊洲市場の右側、写真左端の工事現場は、仮設で整備される東京オリンピックの「有明体操競技場」(観客席12,000席)、その左には有明アリーナ(観客席10,000席)が工事中ですがこれは見えていません。

豊洲新市場の運河を挟んだ対岸(中央区)にあるのが東京オリンピック選手村(1418階建ての宿泊施設21棟と商業棟)で、既に工事が始まっています。海上保安庁の船は測量船の海洋(621トン)

五輪が終わった後の宿泊施設はマンションに改修され、さらに50階建てタワーマンション2棟が追加建設され、ここに合計約5650戸の分譲マンション、サービス付き高齢者向け住宅、若者向けシェアハウスなどが供給される予定とか。・・・中央の護衛艦はミサイル護衛艦はたかぜ(4600トン)



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先日、近所で見たオオヨシキリ(全長18.5cm)を紹介しましょう。

オオヨシキリは、アフリカ大陸、ユーラシア大陸、インドネシア、シンガポール、日本、フィリピン、ブルネイ、マレーシアなどに分布する野鳥です。

日本では夏季に亜種オオヨシキリがほぼ全国に夏鳥として飛来、冬季は東南アジア・ユーラシア大陸南部等で越冬する渡り鳥です。

オオヨシキリはヨシ原や、その周囲の森林で昆虫などの獲物を捕食、ヨシを切り裂いて中にいる獲物を捕食するのがその和名の由来とか。

繁殖期には縄張りを形成し、1羽のオスが複数羽のメスと交尾、縄張りを主張するために遠くまで聞こえる大きな声で鳴く特徴があります。

その巣は、ヨシの茎や葉等を組み合わせたお椀状で56月に1回に4-6個の卵を産み、メスが抱卵、抱卵期間は13-15日。雛は生後11-13日で巣立つといいます。

日本野鳥の会のポータルサイト「バードファン」にあるオオヨシキリの全国都道府県撮影回数では、大阪府が21回と最多、どうやらオオヨシキリは大阪が気に入っているようで、他の都道府県よりも見る機会も多いようです。

全国で撮影された月の分布は、30件、410件、569件、650件、722件、85件、92件。4月に渡来して56月に繁殖、89月には再び南方に飛び去るようです。

ところでオオヨシキリの仲間にコヨシキリ(全長13cm)がいますが、「バードファン」ではコヨシキリの大阪府下での撮影回数は0、最も多いのが千葉の12件でした。大阪府下で見つけるのは難しそうです。



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1945818日から21日、守備隊がソ連に降伏して日本領千島列島の最北部占守島が占領されましたが、それ以降の千島列島占領を稚内港のカモメと一緒に紹介しましょう。

スターリンは占守島を占領した余勢を駆って北海道の半分(留萌から釧路を結ぶ線以北)を一気に占領する予定でしたが、占守島の日本軍武装解除が824日までかかり、北海道占領を諦めたようです。

北海道占領を断念したスターリンは、次に南千島の占領を指示、ソ連の攻略は825日に松輪島、828日に得撫島を占領、その後択捉島(南千島)に一度近づきながら、その先に進んでいません。

実は、ポツダム会議時の作戦境界協議でオホーツク海は米ソの共同作戦区域となり、米国が進出しているかも知れない千島列島南部をソ連が単独で占領することに躊躇していたのです。

南千島にアメリカ兵が来ていないことを知ったソ連は、樺太を制圧した兵力を転用して829日に択捉島、91日に国後島と色丹島に上陸、92日に日本が正式に降伏する間も軍を進め、両島制圧に94日まで費やしています。

91日に色丹島に上陸したソ連軍は、開口一番「島にアメリカ兵がいるか」と聞き、そこがソ連の占領対象地域ではなく米ソの共同作戦地域であったことを暴露しています。

その後95日に歯舞群島を占領して一連の計画は完了しましたが、米ソ共同作戦地域だった南千島にアメリカ軍がいち早く進駐していれば、今も日本領土のままだったことでしょう。

ソ連の占領地域は、北海道本島との交通を遮断され、千島列島住民は本土への帰還ができなくなり、武装解除された日本軍兵士は、スターリンの指示でシベリアの収容所に連行されています。

また、ソ連は占領地にロシア人を送り込み、日本住民の個人資産を次々に接収、アイヌを含む千島住民の一部は、1947年(昭和22年)にほぼ全員が本土へ引き揚げ、日本固有の領土だった千島列島はすべてソ連に取り上げられたのです。

参考文献:一九四五年夏最後の日ソ戦 中山隆志著



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1945818日から21日にかけ、日本領千島列島の最北部占守島にソ連軍が侵攻、その地で激戦がありましたので紹利尻島と礼文島のカモメの写真と一緒に紹介しましょう。

当時千島列島には、札幌の陸軍第5方面軍(樋口季一郎司令官)隷下の第91師団(堤師団長)が、対アメリカ戦を予想して最北部の占守島とすぐ南の幌筵島を守備していました。・・・利尻島の鴛泊港のオオセグロカモメ

それまでの第91師団は、ほとんど戦闘がなかったため、食糧・弾薬等の備蓄が豊富で、満州から転進した戦車第11連隊も置かれ、兵力は約23,000人。そのうちソ連との戦闘に加わったのは占守島の8,500人で、残りの兵力はすぐ南にある幌筵島に置いていました。

1945815日、スターリンから千島列島占領の命を受けた極東ソビエト軍総司令官は、第二極東方面軍司令部と太平洋艦隊司令部に、占守島占領作戦実施を命令しています。・・・オオセグロカモメは数が増えています

ソ連の参加兵力は陸軍8821人というので兵力はほぼ互角、818日午前2時半、ソ連軍先遣隊が占守島に上陸、続いて主力も上陸が完了、当然占守島守備の日本軍は激しく攻撃しますが18日の昼に札幌の第5方面軍司令官から、戦闘停止の命令があり、第91師団は1816時をもって積極戦闘を停止しています。

しかし、占守島で停戦してもソ連軍の攻撃が続行されているという報告を受けた東京の大本営は、マッカーサー元帥にソ連への停戦働きかけを依頼しますが、停戦前の占領地域拡大を狙っていたスターリンはこれを黙殺するのです。・・・礼文島香深港沖のウミネコとオオセグロカモメ

占守島でのソ連軍は、日本軍に停戦前に武装解除するよう要求したため、一時地上戦が再開しますが、21日に第91師団長が降伏文書に調印、日本軍は23日に武装解除されています。・・・手前のピンク色の足はオオセグロ

占守島での戦いは、日本側推定でソ連軍死傷者3000人、日本軍600人程度とされているので日本軍が圧倒的に優勢で、千島を足掛かりに北部北海道までの占領を狙っていたソ連の出鼻をくじいたのでした。・・・足が黄色いのはウミネコ

しかし降伏した日本兵は法的根拠なくシベリアに拉致・抑留され、強制労働に従事させられたのでした。

参考文献:一九四五年夏最後の日ソ戦 中山隆志著



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昨日に記事に続き1945年8月のソ連軍について稚内の景色と一緒に紹介しましょう。1945年(昭和20年)89日に国境を越えたソ連軍は16日朝にも樺太西岸に強襲上陸して戦闘が発生、樺太占領の次には北海道が狙われると想定した札幌の方面軍は、樺太の日本軍(第八十八師団)に南樺太を死守せよと命令しています。・・・樺太航路のあった稚内北防波堤前と海上保安庁の巡視船「りしり」

817日、スターリンは、連合国最高司令部のソ連代表(デレヴィヤンコ中将)に北海道の北部(釧路と留萌を結ぶ以北)と東京に(東西ベルリンのような)ソ連軍占領地域を設定することをマッカーサーと協議するよう指示。さらに二個師団を北海道に、一個師団を千島列島南部に上陸させるように命令しています。・・・ハートランドフェリーの発着する稚内港

一度停戦に向かいかけていた樺太守備の陸軍第八十八師団は、札幌の方面軍から南樺太を死守せよといわれ、急ぎ配下の部隊に再武装と陣地占領を命じています。・・・JR稚内駅前のバス停

821日、極東ソ連軍総司令官ワシレフスキー元帥は、配下の陸軍と太平洋艦隊及び空軍司令官に対し、23日までに空軍と海軍の主力基地を樺太に移し、北海道北部の占領作戦の準備をするよう命令。・・・稚内駅前のスーパー相沢の営業時間は19時まで

822日、樺太で陸軍第八十八師団の猛攻を受け、甚大なソ連軍の損害を知ったスターリンは、トルーマンに「不満ではあるが北海道占領は断念した」と回答しています。樺太での戦争は映画「北の桜守」に出てきますね。・・・駅前通り

さらに同日早朝、先に紹介した三船殉難事件(これも北の桜守に出てきます)が留萌沖であり、その際に日本船(第二号新興丸)からの砲撃でソ連潜水艦が被弾沈没していることからも、北部北海道の占領は容易ではないと判断した可能性があります。・・・正面は稚内港、右は駅

82217時、極東ソ連軍総司令官ワシレフスキー元帥は、太平洋艦隊に「特別の許可あるまで北海道上陸作戦を差し控えるが、陸軍の樺太への輸送は継続するように」と命令。

823日、ソ連国家防衛委員会は「日本軍捕虜50万人の受け入れ、配属、労働利用について」という極秘司令を発令。・・・稚内駅のホームに列車が到着

ソ連軍による樺太占領作戦が終わった825日、スターリンはマッカーサー司令部のソ連代表に、北部北海道と東京の占領地要求を取り下げるよう指示しますが、樺太・千島という領土、強制労働に従事させる日本人捕虜(合計60万人のうち6万人が死亡)、捕獲した莫大な日本資産を手に入れたのでした。・・・JR稚内駅、右にはウオッシュレットのある清潔なトイレがありました。

参考文献:一九四五年夏最後の日ソ戦 中山隆志著



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