1945年(昭和20年)8月22日(終戦後1週間)、1700人余りが遭難した三船殉難事件を調べていると、阿波丸事件にたどりつきましたので、阿波丸が最後に寄港したシンガポール・ジュロンバードパークのサイチョウの写真と一緒に紹介しましょう。
戦争中の1945年(昭和20年)4月1日、シンガポールから日本へ向けて航行中であった輸送船阿波丸が、アメリカ海軍の潜水艦により撃沈され、2000人以上の乗船者の1名を除いた全員が死亡しています。
太平洋戦争中の米英国潜水艦攻撃による日本軍輸送船での死者は、1944年2月の丹後丸(5700人)・隆西丸(4999人)、同年6月の高山丸(3874人)、同年9月の順陽丸(5620人)など多く発生していますが、阿波丸だけは安全が保障されていた船でした。
1944年(昭和19年)10月、日本とアメリカの間でアメリカ側の捕虜・拘束民間人へ救援物資を送る協定が成立し、それに従事する阿波丸は病院船に準じた保護が約束されていました。
阿波丸は識別のため舷側・煙突・甲板2か所に緑十字の識別マーク、夜間には照明を灯して航行、アメリカ軍は阿波丸の航路情報を各部隊へ通知し、攻撃しないよう命令していたのです。
日米の事前協議では、アメリカ側が阿波丸をどのように利用しようとも構わないと了解、市民、官吏の輸送についても黙認する構えでしたので、シンガポール在留邦人は安全が保証された阿波丸で帰国することを競い、軍人、政府関係者、船員軍属が優先的に乗船しています。
1945年3月28日、阿波丸には乗員と合わせた2004~2130人が乗船、さらに大量の軍需資源も積み込まれシンガポールを発って帰途に就いています。
その資源とはスズ・タングステン・アルミニウムなどの地金5000トン以上、生ゴム2000トン以上、重油及びガソリン2500トン、さらに東南アジア占領地から押収した金塊、プラチナ、ダイヤモンドなどであったといいます。
陸軍船舶輸送司令部の将官は、海軍情報機関の日高震作大佐が金塊、ダイヤモンド、イギリス・アメリカ紙幣を積み込ませたと言い、歩兵第11連隊の若い兵士は「南方開発金庫」から600個以上の重い箱を港の阿波丸に運んだと戦後証言しています。
参考文献:阿波丸撃沈 太平洋戦争と日米関係 ロジャー・ディングマン著 川村孝治訳