1945年8月18日から21日にかけ、日本領千島列島の最北部占守島にソ連軍が侵攻、その地で激戦がありましたので紹利尻島と礼文島のカモメの写真と一緒に紹介しましょう。
当時千島列島には、札幌の陸軍第5方面軍(樋口季一郎司令官)隷下の第91師団(堤師団長)が、対アメリカ戦を予想して最北部の占守島とすぐ南の幌筵島を守備していました。・・・利尻島の鴛泊港のオオセグロカモメ
それまでの第91師団は、ほとんど戦闘がなかったため、食糧・弾薬等の備蓄が豊富で、満州から転進した戦車第11連隊も置かれ、兵力は約23,000人。そのうちソ連との戦闘に加わったのは占守島の8,500人で、残りの兵力はすぐ南にある幌筵島に置いていました。
1945年8月15日、スターリンから千島列島占領の命を受けた極東ソビエト軍総司令官は、第二極東方面軍司令部と太平洋艦隊司令部に、占守島占領作戦実施を命令しています。・・・オオセグロカモメは数が増えています
ソ連の参加兵力は陸軍8821人というので兵力はほぼ互角、8月18日午前2時半、ソ連軍先遣隊が占守島に上陸、続いて主力も上陸が完了、当然占守島守備の日本軍は激しく攻撃しますが18日の昼に札幌の第5方面軍司令官から、戦闘停止の命令があり、第91師団は18日16時をもって積極戦闘を停止しています。
しかし、占守島で停戦してもソ連軍の攻撃が続行されているという報告を受けた東京の大本営は、マッカーサー元帥にソ連への停戦働きかけを依頼しますが、停戦前の占領地域拡大を狙っていたスターリンはこれを黙殺するのです。・・・礼文島香深港沖のウミネコとオオセグロカモメ
占守島でのソ連軍は、日本軍に停戦前に武装解除するよう要求したため、一時地上戦が再開しますが、21日に第91師団長が降伏文書に調印、日本軍は23日に武装解除されています。・・・手前のピンク色の足はオオセグロ
占守島での戦いは、日本側推定でソ連軍死傷者3000人、日本軍600人程度とされているので日本軍が圧倒的に優勢で、千島を足掛かりに北部北海道までの占領を狙っていたソ連の出鼻をくじいたのでした。・・・足が黄色いのはウミネコ
しかし降伏した日本兵は法的根拠なくシベリアに拉致・抑留され、強制労働に従事させられたのでした。
参考文献:一九四五年夏最後の日ソ戦 中山隆志著