1945年8月18日から21日、守備隊がソ連に降伏して日本領千島列島の最北部占守島が占領されましたが、それ以降の千島列島占領を稚内港のカモメと一緒に紹介しましょう。
スターリンは占守島を占領した余勢を駆って北海道の半分(留萌から釧路を結ぶ線以北)を一気に占領する予定でしたが、占守島の日本軍武装解除が8月24日までかかり、北海道占領を諦めたようです。
北海道占領を断念したスターリンは、次に南千島の占領を指示、ソ連の攻略は8月25日に松輪島、8月28日に得撫島を占領、その後択捉島(南千島)に一度近づきながら、その先に進んでいません。
実は、ポツダム会議時の作戦境界協議でオホーツク海は米ソの共同作戦区域となり、米国が進出しているかも知れない千島列島南部をソ連が単独で占領することに躊躇していたのです。
南千島にアメリカ兵が来ていないことを知ったソ連は、樺太を制圧した兵力を転用して8月29日に択捉島、9月1日に国後島と色丹島に上陸、9月2日に日本が正式に降伏する間も軍を進め、両島制圧に9月4日まで費やしています。
9月1日に色丹島に上陸したソ連軍は、開口一番「島にアメリカ兵がいるか」と聞き、そこがソ連の占領対象地域ではなく米ソの共同作戦地域であったことを暴露しています。
その後9月5日に歯舞群島を占領して一連の計画は完了しましたが、米ソ共同作戦地域だった南千島にアメリカ軍がいち早く進駐していれば、今も日本領土のままだったことでしょう。
ソ連の占領地域は、北海道本島との交通を遮断され、千島列島住民は本土への帰還ができなくなり、武装解除された日本軍兵士は、スターリンの指示でシベリアの収容所に連行されています。
また、ソ連は占領地にロシア人を送り込み、日本住民の個人資産を次々に接収、アイヌを含む千島住民の一部は、1947年(昭和22年)にほぼ全員が本土へ引き揚げ、日本固有の領土だった千島列島はすべてソ連に取り上げられたのです。
参考文献:一九四五年夏最後の日ソ戦 中山隆志著