日本海軍は、日露戦争の日本海海戦以降、正々堂々の艦隊決戦至上主義を取り続けますが、ドイツUボートの通商破壊による大戦果という教訓をいち早く取り入れたのが米軍でした。歴史に学ばなかった日本が米国潜水艦の攻撃で受けた損害をポピーの写真と一緒に紹介しましょう。
日本商船を狙った米軍潜水艦の攻撃は1944年(昭和19年)2月頃から一段と激しくなり、2月25日にはインドネシア・スラバヤを出た輸送船「丹後丸」と「隆西丸」が魚雷攻撃で撃沈、丹後丸は5700人、隆西丸が5000人、合わせて1万1千人以上が一挙に死亡、太平洋戦争における通商破壊作戦での最大の犠牲者でした。
2月29日には宇品からサイパンを目指す崎戸丸が魚雷攻撃されて沈没、乗船していた将兵を含めて2317人が戦死。その後の輸送船団も米潜水艦の魚雷攻撃で数十~数百人規模の犠牲者を出し続けています。
6月24日、戦略物資を満載してシンガポールから門司を目指していた那須山丸・玉鉾丸・台南丸・建日丸が長崎を目前とした場所で魚雷攻撃され沈没。この頃には日本近海まで米潜水艦が来ていて輸送船は危険な状況だったということでしょう。
6月29日、沖縄に向かっていた軍隊輸送船「富山丸」が徳之島沖で米潜水艦「スタージョン」の雷撃により沈没、この1隻だけで3874人が死亡。
7月9日、門司からマニラに向かった輸送船団のうち日蘭丸が沈没1262名が戦死、31日には吉野丸が沈没兵士5063名中2400名が戦死、扶桑丸も沈没4500名中1350名が戦死、万光丸も517名のうち半数以上が戦死、光栄丸も魚雷で1050名のうち150名が戦死。この船団だけで5400人余が戦死しています。
終戦の1年前となる8月18日にはフィリピンに向かっていた玉津丸が魚雷攻撃を受け4820人のうち4755人が死亡、玉津丸を含む船団全体の犠牲者数は7546人と太平洋戦争の輸送船攻撃では2番目に多い犠牲者を出しています。
米軍潜水艦の攻撃で兵士の多くが戦う前に戦死し、生き残った兵士も兵器弾薬などの軍需品、食料品を持たずに上陸、これでは強力な米軍と戦えるはずはありません。
1944年9月18日には輸送船「順陽丸」がインドネシア沖で潜水艦の攻撃により沈没。連合国軍の捕虜を含め約5620名が死亡しますが、大本営は翌年3月末までの半年間も輸送作戦を継続し多くの犠牲者を出しています。一方、日露戦争における日本海海戦のように正々堂々の艦隊決戦を目指していた日本の潜水艦は殆ど戦果を挙げていなかったのでした。
参考文献:戦時輸送船団史 駒宮真七郎著