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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



昨日に記事に続き1945年8月のソ連軍について稚内の景色と一緒に紹介しましょう。1945年(昭和20年)89日に国境を越えたソ連軍は16日朝にも樺太西岸に強襲上陸して戦闘が発生、樺太占領の次には北海道が狙われると想定した札幌の方面軍は、樺太の日本軍(第八十八師団)に南樺太を死守せよと命令しています。・・・樺太航路のあった稚内北防波堤前と海上保安庁の巡視船「りしり」

817日、スターリンは、連合国最高司令部のソ連代表(デレヴィヤンコ中将)に北海道の北部(釧路と留萌を結ぶ以北)と東京に(東西ベルリンのような)ソ連軍占領地域を設定することをマッカーサーと協議するよう指示。さらに二個師団を北海道に、一個師団を千島列島南部に上陸させるように命令しています。・・・ハートランドフェリーの発着する稚内港

一度停戦に向かいかけていた樺太守備の陸軍第八十八師団は、札幌の方面軍から南樺太を死守せよといわれ、急ぎ配下の部隊に再武装と陣地占領を命じています。・・・JR稚内駅前のバス停

821日、極東ソ連軍総司令官ワシレフスキー元帥は、配下の陸軍と太平洋艦隊及び空軍司令官に対し、23日までに空軍と海軍の主力基地を樺太に移し、北海道北部の占領作戦の準備をするよう命令。・・・稚内駅前のスーパー相沢の営業時間は19時まで

822日、樺太で陸軍第八十八師団の猛攻を受け、甚大なソ連軍の損害を知ったスターリンは、トルーマンに「不満ではあるが北海道占領は断念した」と回答しています。樺太での戦争は映画「北の桜守」に出てきますね。・・・駅前通り

さらに同日早朝、先に紹介した三船殉難事件(これも北の桜守に出てきます)が留萌沖であり、その際に日本船(第二号新興丸)からの砲撃でソ連潜水艦が被弾沈没していることからも、北部北海道の占領は容易ではないと判断した可能性があります。・・・正面は稚内港、右は駅

82217時、極東ソ連軍総司令官ワシレフスキー元帥は、太平洋艦隊に「特別の許可あるまで北海道上陸作戦を差し控えるが、陸軍の樺太への輸送は継続するように」と命令。

823日、ソ連国家防衛委員会は「日本軍捕虜50万人の受け入れ、配属、労働利用について」という極秘司令を発令。・・・稚内駅のホームに列車が到着

ソ連軍による樺太占領作戦が終わった825日、スターリンはマッカーサー司令部のソ連代表に、北部北海道と東京の占領地要求を取り下げるよう指示しますが、樺太・千島という領土、強制労働に従事させる日本人捕虜(合計60万人のうち6万人が死亡)、捕獲した莫大な日本資産を手に入れたのでした。・・・JR稚内駅、右にはウオッシュレットのある清潔なトイレがありました。

参考文献:一九四五年夏最後の日ソ戦 中山隆志著



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