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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



多田神社には、1336年、足利尊氏が九州多々良浜の合戦に戦捷祈願をした御教書が残っているらしい。

拝殿とその奥の本殿(重文)



その足利氏は、八幡太郎義家の孫の義康が栃木県足利庄に土着して地名を姓としたもので、義康の6代後に尊氏(1305~1358年)が生まれている。

源氏の系図



従って、鎌倉幕府においても頼朝と同じ源氏の血を引く名門として処遇されていて、尊氏の妻は、執権一族である北条守時(第16代執権)の娘であり、尊氏は14歳で従五位下、28歳で鎮守府将軍に叙任されている。

苔むした境内



北条(平氏)政権を滅ぼした尊氏は、1338年源氏のトップだけが就ける地位である征夷大将軍の宣下を受けている。

多田神社の南側を流れる猪名川と橋



1358年、足利義詮は父尊氏(等持院に墓がある)の遺骨の一部を多田院に納め、いらい多田院と足利家の関係は益々密となり、歴代将軍の没後は必ず尊氏に倣って分骨が奉納されているという。

宝蔵



しかし戦国期の1577年には、織田信長(平氏)の甥である織田信澄の手によって焼かれ、90年近く荒れていたようであるが、徳川四代将軍家綱は1665年に社領500石を寄贈し、1667年には再興された社殿と拝殿、随神門、西門が落成している。

拝殿手前の随神門(重文)



その徳川氏は、源義家の孫である義国から始まる新田氏の一族と称し、征夷大将軍の宣下を受けているので、徳川氏にとっても祖先を祀る神社となるのである。

摂社の六所神社



満仲の創建から700年後の元禄時代には、5代将軍綱吉(1646~1709年)による社殿の修復があったようである。

綱吉の側用人に抜擢された牧野成貞(1634~1712年、以前ブログで紹介)の先祖は、家康に属してから源氏を称しているので、その縁で1694年(元禄7年)石灯籠を寄進していて、その灯篭は現存している。

拝殿前の石灯籠(画面の左右にある灯篭の奥が牧野、手前が柳沢)



拝殿に最も近い石灯籠の足元に牧野備後守と刻印されているが、牧野成貞は1683年に備後守に叙任された記録が残っている。

石灯籠の竿に牧野備後守とある



柳沢吉保(1658~1714年)は、八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光に始まる武田氏の一門で、吉保は1688年、牧野成貞と並んで綱吉の側用人となり、1694年には侍従の官職を受けている。

多田神社の拝殿前には、1695年(元禄8年)に建立された侍従兼出羽守源朝臣柳沢と彫られた石灯籠があり、今から300年以上前に吉保によって寄進されたものである。

拝殿前、牧野灯篭の手前にある柳沢灯籠



次回のブログで紹介する予定であるが、大阪の南部羽曳野市にある通法寺址と壺井八幡宮にも、1701年(元禄14年)に柳沢吉保によって建立された石燈篭が現存しているのである。

通法寺の灯篭、従四位下左近衛権少将兼美濃守源朝臣松平吉保とある




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