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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



ある休日、JR大阪駅からの新快速電車に乗って1時間の場所にある滋賀県近江八幡市まで出かけ、近江八幡市の名誉市民であったヴォーリズ(1880~1964年)の足跡を尋ねてみた。

近江八幡の街並み



ヴォーリズは、1904年にコロラド大学哲学科を卒業、外国伝道に身を捧げる決意をして1905年2月近江八幡にあった滋賀県立商業学校(八幡商業と改称されたのは1908年以降)英語教師として赴任している。

従って、ヴォーリズは神学科を終了した宣教師ではなく、英語教師の立場で来日したキリスト教伝道士であった。

現在の八幡商業高校(1940年にヴォーリズの設計で完成)



商業学校での英語授業の傍らに、自宅でバイブルクラスという新約聖書の研究会をはじめたところ、2ヶ月後の新学期には160名の生徒が参加したという。

ヴォーリズの人徳か、秋には商業学校の全校生徒の三分の二がバイブルクラスに 入ったことから滋賀県の仏教関係者の反発を招き、1907年には商業学校教師の職を解雇されてしまっている。

現在の近江兄弟社学園幼稚園、小学校



ヴォーリズは解雇されても最初に赴任した近江八幡に留まり、細々と英語教師をしながらキリスト教の伝道活動を続けている。

今の近江八幡



1909年、大学時代に建築家になるつもりでいたヴォーリズは、京都YMCA会館の建築工事の仕事を頼まれたことをキッカケに翌年、建築設計の合名会社(後の一粒社ヴォーリズ建築事務所)を創立したという。

1913年完成の現在の京都YMCA会館



この後ヴォーリズが1925年までに設計した建物は426棟、会社設立32年後の1942年には延べ1600棟に及んでいるというから年間平均50件もの設計をしていたことになる。

ヴォーリズが設計し1921年完成した旧近江八幡郵便局



1913年、病気療養のためにアメリカに一時帰国したヴォーリズは、伝道活動の後援者であったカンザス州の製薬会社社長ハイド氏を訪ね、同社の製品であるメンソレータムの日本での代理販売権を譲られている。

ヴォーリズは当初メンソレータムの販売に熱心ではなかったが、1921頃から販売を強化したところ爆発的に売れ出し、1931年には製造工場(後の株式会社近江兄弟社)を設立している。

現在の本社(旧メンソレータムは現在メンタームとなっている)



1918年、ヴォーリズは建築設計の利益をすべてつぎ込んで「近江療養院」(後のヴォーリズ記念病院)を設立しているが、当時不治の病といわれた結核の療養所としては当時日本で最先端の病院であったという。

翌年ヴォーリズは、一柳子爵家の住宅を設計した縁でアメリカに8年間の留学経験のある一柳満喜子と結婚し、満喜子は近江八幡で保育の仕事を始めている。

1931年完成後にヴォーリズと満喜子が住んだ現ヴォーリズ記念館



その満喜子の仕事は、幼稚園から高等学校にまで及ぶ学校法人「近江兄弟社学園」に発展している。

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