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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



豊臣秀吉の弟、秀長は1585年紀州攻めの副将として参陣し、平定後に紀伊・和泉の二カ国を加増されている。

和歌山城天守



当時は若山と呼ばれたこの地に兄の秀吉が築城を命じ、秀吉自らが虎伏山を城地に選定し、縄張りを行ったという。

城内にあった虎の像



和歌山城普請奉行には築城の名手であった藤堂高虎が命じられ、僅か1年で完成させているので、この時の和歌山城は現在の天守郭と本丸部分だけのようである。

城の南の丸から本丸を見上げると、名城とは思えない急ごしらえの乱雑な石積みが見えるので、恐らく藤堂高虎の時代のものであろう。



1586年、豊臣秀長は桑山重晴に3万石を与えて城代に据え、重晴は本丸を中心に手直しを行っているが、1600年の関ヶ原の戦いの後、浅野幸長が37万石の紀州藩主となり入城している。



1613年、浅野幸長は和歌山で死去したが、男児が無かったため弟の浅野長晟が家督を継ぎ、1619年に広島に加増転封となっているので、和歌山城主としての浅野氏はわずか19年間だけであった。

南の丸の城門址の石垣



その浅野氏に代わって徳川家康の10男、頼宣(1602~1671年)が55万5千石で和歌山城に入り、この時から紀州徳川家が成立したのである。

徳川頼宣は、加藤清正の死後6年が経った1617年、清正の第二女「あま」を正室に迎えている。

天守とその入り口となる楠木門



この時、清正の嫡男であった加藤忠広も10歳という若さであったので、妹の「あま」もかなり幼なかったようである。

頼宣は和歌山に転封された時、兄の将軍徳川秀忠より銀5千貫を受領し、これを元手に藤堂高虎の築いた城の大改修と城下町の拡張を開始したという。

天守からの抜け道、埋め門の出口



和歌山城は巨大な城であるが、計画では更に大規模な城構えになる予定であったといい、その名残で市内には堀止の地名が残っている。

城の北側から見た江戸期の絵図(この絵のように巨大な城郭であったようである)



和歌山城三の丸等、かつて城内であった場所には、市役所や裁判所をはじめ公的機関や学校、商業施設、オフィス街などが現在立地している。



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平山城である和歌山城は、小高い虎伏山に建造され、北部を流れる紀の川を天然の堀とし本丸の北側に二の丸が配され、その外に大きく三の丸が配されていたという。

和歌山城の絵図



和歌山城の特徴としては、城内に石垣が多用され非常に重厚な造りとなっていて、時代によって異なる石垣の積み方がしてあることである。

刻印のある石



豊臣・浅野時代の石垣には刻印された石垣石があり、その模様は約170種類、2100個以上の石に確認されているらしいが、大半が和泉砂石であるという。



その石垣を見ながら、石段を登ると急に天守郭広場があり、そこから和歌山城天守の全体を眺めることができた。



天守は大天守と小天守が連なった連立式で、姫路城、松山城と並んで日本三大連立式平山城の一つに数えられているという。

連立する天守



最初の計画では5層の大天守・総構えが予定されていたが、余りにも規模が大きすぎたため幕府から嫌疑をかけられ、結局中止させられてしまったと言うエピソードがあるらしい。

3層3階の大天守は、小天守(2層2階)、台所、乾櫓(2層2階)、二の門(楠門)を多門櫓で結んだ連立式天守と呼ばれる天守曲輪様式である。



幕末前の1846年7月26日、天守は落雷で焼失し、4年後の1850年6月に焼失前と同型式の天守が完成している。

天守再建の21年後の1871年には、廃藩置県により和歌山城は廃城となり、多くの建造物が解体もしくは移築されたという。



中でも二の丸御殿は1885年大阪城に移築され、1931年より大阪市迎賓館として使用されていたが、戦後の1947年に失火により焼失している。

本丸、二の丸一帯は、明治期の1901年から和歌山城公園として一般開放され、1935年には、天守群が国宝に指定されている。



しかし、1945年7月のアメリカ軍による大規模な戦略爆撃(和歌山大空襲)があり江戸末期の再建から95年後に天守はまたもや焼失してしまったのである。



その後10数年間は天守台だけの姿であったが、1958年に鉄筋コンクリート造の天守として復元されている。



天守への入り口に当たる楠木門も、天守と同時に戦災にあったが、1958年に楠木の柱と梁を使って、江戸期の建物と同じように復興させているので往時の姿を良く伝えている。



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大阪からわずか1時間の距離にある和歌山城には、なかなか行く機会がなかったが、今回思い切ってブログの取材に行ってきた。



JR和歌山駅から南海和歌山市駅行きのシャトルバスが出ていて、それに乗れば5分で和歌山城大手門前にあるバス停、公園前に到着である。



1909年に自然倒壊したものを再建した大手門から城内に入ると、丁度大手門広場を利用した写真展をやっていた。



大手門広場よりも5~6m高くなった二の丸庭園の石垣の上部には幹の周囲7m、高さ25m、枝の広がり35m、推定樹齢450年という楠の大木があったが、樹齢が正しければ豊臣秀長の和歌山城築城時に樹齢30年の若木として既にこの地に生えていたことになる。



大手門広場の先にはクランク状に曲がっている中御門址の石垣があり、部材が巨大で隙間無く美しく組まれているので最近改修されたものであろう。



南に向かってさらに進み、岡中門址の石垣を曲がると松の丸址の美しいカーブを描く高い石垣があったが、これも最近改修されたもののようである。



その南側に、和歌山城の中で、戦災の被害を免れた数少ない建造物、重要文化財の岡口門(1621年建造)があった。



ちょうど大坂城の青屋門のような、搦め手の門という位置づけであろうが、巨大な和歌山城の規模と比べるとかなり小さな門である。

大坂城の青屋門



岡口門から西にある南の丸に向かうと、現存している石垣は和歌山城の石垣の中でもかなり古いもののようであった。



南の丸址を西に向かって歩きながら、北の石垣を見ると比較的小さな石を乱雑に積んだ高い石垣があり、その南側の高い石垣の外には広い空堀があった。



城の南西部分は、和歌山護国神社の敷地になっていたが、その先にこじんまりとした勝手口のような朱塗りの追廻門(1629年建造)がある。



和歌山城の南西から西側部分にもかなりの高さの石垣があるので、その規模と比べると不自然なくらいに小さな門であったが、徳川幕府も安定期にはいろうとする時期で、大きな門は必要なかったのかもしれない。



南西の追廻門から引き返し新裏坂から本丸天守のある丘に至る階段を登ると、天守を守る高い石垣が続き、石垣の途中から大木が生えている場所もあった。




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JR甲子園口から南に歩いて10分のところにある武庫川学院 甲子園会館は、建築家フランク・ロイド・ライトの愛弟子、遠藤新が「甲子園ホテル」として設計したもので、1930年に竣工している。



建物は、西洋建築と日本建築を融合した独創的なデザインで、屋根には淡路産の緑の瓦、竜山石と素焼きタイルの壁、シンボルの打ち出の小槌のオーナメントが随所に見られるなど、洋式建築に巧みに「和」の要素が取り入れられている。

屋根の拡大



シンボルに採用された童話一寸法師で有名な打出の小槌とは、西宮市の隣にある芦屋市打出小槌町にちなんで選ばれたのであろう。

西ウイング南入り口の壁面レリーフ



竣工後、帝国ホテルの支配人であった林愛作が、甲子園ホテルに移り支配人となり戦前は帝国ホテルと並ぶ日本屈指の超一流ホテルであったという。

北側



戦時中の1944年には海軍病院として接収され、終戦後はアメリカの進駐軍が将校の宿舎とクラブとして使っていたらしい。

西ウイング上部の壁面のレリーフ



1957年になって国有財産となり、大蔵省の管理下に置かれたが1965年、武庫川女子学院が取得して現在は生活環境学部建築学科、生活環境学研究科のキャンパスとして使われているという。

西ウイング



設計者の遠藤新は、東大建築学科を卒業し明治神宮の建設に関わった後、帝国ホテルの設計を引き受けていたライトの設計事務所に1917年から勤めている。

南バルコニー



しかし、建設費用がかかり過ぎるとしてライトは途中で解雇され、米国に帰国してしまうが、遠藤ら弟子が設計を引き継いで帝国ホテルを完成させたという。

世間ではあまり知られていないが、フランク・ロイド・ライト設計の有名建築帝国ホテルの実際の設計者は、日本人の遠藤新であったのである。

遠藤は、その後もライト様式の建築を設計し続けたため、ライトの使徒とも呼ばれ、ライトの基本設計を元に自由学園、山邑邸等を完成させている。

南側



1945年、満州で終戦を迎えたが、半年後に日本に帰国し、1949年からは文部省学校建築企画協議会員を務め、1951年東大病院で死去している。



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久しぶりに、「TOHOシネマズ なんば」に出かけてアカディミー助演女優賞を取ったジェニファー・ハドソン(25歳)の「ドリームガール」を見た。

左の太めの女性がジェニファー



トニー賞で6部門を受賞した伝説のブロードウェイミュージカルを映画化したこの作品は、コーラスガールの女性3人組(ダイア・ナロスとシュープリームス)が歩んだ成功と挫折の物語である。



従って映画の中でもセリフがミュージカルのように歌に変わっていたりして、最初から最後まで黒人女性トリオのパワフルなR&Bを堪能できるので、アメリカまでミュージカルを見に行くことを考えれば、2000円で楽しめる映画はお得である。



1959年に結成され1977年に解散したダイアナ・ロスとシュープリームスは、ダイアナ・ロス、フローレンス・バラード、メアリー・ウイルソンの3人組でスタートしたが、1967年にフローレンス・バラードが脱退している。

ジェニファーが抜けた新トリオ



そのフローレンスをジェニファー・ハドソンがエフィー・ホワイトという役で演じていた。

ダイアナ・ロス(1944~)は、シュープリームス時代に12曲、ソロとして6曲、計18曲のビルボード1位のヒットを放っているが、これはビートルズの20曲に次ぐ史上2位の記録という大スターである。



主演男優のジェイミー・フォックス(39歳)は、2004年ソウルの神様レイ・チャールズの伝記映画「レイ」に主演、アカデミー主演男優賞をはじめ数々の映画賞を獲得し、俳優として不動の評価を獲得している。

ジェイミーとビヨンセ



主演女優は、2003年アメリカでアルバム400万枚、全世界では800万枚以上のセールスを記録した女性R&Bアーティストのビヨンセ・ノウルズ(25歳)である。



ビヨンセ・ノウルズは、2005年アカデミー賞のベスト・オリジナル・ソング賞ノミネート5曲のうち、3曲を授賞式で歌った実績も持ち、堂々と主演が張れる女優である。



助演男優のエディ・マーフィ(45歳)は、ビバリーヒルズコップで有名な俳優であるが、この作品では熱の入った歌唱力を見せてゴールデングローブ助演男優賞を受賞している。



先日2007年のアカディミー賞最優秀助演女優賞を受賞したジェニファー・ハドソン(25歳)は、「ドリームガールズ」のオーディションで、「アメリカン・アイドル」の優勝者だったライバルを押し退け、主要キャストのエフィー・ホワイト役を獲得しているまったくの新人である。

ジェニファー



しかし彼女の新人ばなれしたパワフルな歌唱力は圧倒的で、完全に800万枚のアルバムを売った主演女優のビヨンセ・ノウルズをしのいでいるのである。

母親がフランス系の混血であったビヨンセ



映画を見て、残念ながら菊池凛子は、ジェニファー・ハドソンには到底及ばないと思ったのでアカディミー賞は順当な評価であろう。



それにしても、音楽をテ-マとした映画は、最新鋭のディジタル音響装置が完備した新しい映画館で楽しむのが正解であることが今回良くわかった。





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「とれとれぴちぴちかに料理」というキダタロー作曲のCMソングで超有名な道頓堀の「かに道楽」には一度も入ったことがなかったので、ブログのネタに行ってきた。



かに道楽の店内には「とれとれぴちぴちかに料理」と書かれた色紙が展示されていたが、魚はともかく蟹の場合もピチピチと言うのは正しい日本語なのであろうか。



かに道楽本店は道頓堀通りと戎橋の交差点の東角という大坂では最高の立地にあり、動くかにの看板で有名である。

現在、北海道から毎日空輸されるずわいかにを使った特別会席を販売中というので、チョット寄ってみたら、水槽には看板と同じ姿勢をした蟹がいるではないか。



まず出された八寸は、小鉢に可愛らしく5品が盛り付けられて出てきたが、小さなかにのつめが付いている。



次にかにの造りとかに茶碗蒸しが出てきたが、茶碗蒸しのネタの上に載った透き通ったクズが珍しい。



かにの造りはボリュームが無かったが、どうやら北海道から空輸されたばかりもので、甘く新鮮であった。

次がこれもたった2個しか盛り付けられていない、たらばかにのフライである。



その後にはメインディシュとなる、たらば豆乳鍋とたらばの石焼である。



きのこアスパラ等の野菜とたらばを豆乳の鍋で煮て食べるか、平たい石で焼いて食べるかを選ばなければならないので、二人で行くと両方が楽しめることになる。



最後に吸い物とかにの巻き寿司、押し寿司の盛り合わせが出てくるが、ここれを食べ終わるとボリュームが無いと思っていたのに結構満腹できたので不思議である。



途中、トイレに入ると珍しく扉が自動ドアとなっていて、中も意外と清潔である。

手洗いにはハンドソープと滅菌アルコールのボトル、ペーパータオルが置いてあったが、蛇口から出るのは残念ながら冷たい水であった。



デザートの抹茶アイスを食べて店を出たが、店の入り口には水槽が置かれ、もうすぐ食べられる運命の生きたずわいかにが入っていた。



ROSSの評価 (☆☆☆☆☆が最高)

場所     ☆☆☆☆☆
インテリア  ☆☆
サービス   ☆☆☆
味      ☆☆☆
ボリューム  ☆☆
値段     ☆☆
トイレ    ☆☆☆☆

総合評価   ☆☆☆

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肥前鍋島藩の藩祖は、鍋島直茂(1538~1618年)で、佐賀城主「龍造寺隆信」(1529~1584年)に仕えていたが島津、有馬連合軍と決戦した時に隆信が戦死し、直茂はかろうじて佐賀へ逃げ帰っている。

足利市にある古伊万里と鍋島だけを蒐集した栗田美術館の鍋島



隆信の嫡子の龍造寺政家が凡庸であったために、以後鍋島直茂が肥前の実権を掌握し、鍋島氏の佐賀藩支配が始まっている。



鍋島直茂は、島津氏への対抗上早くから豊臣秀吉の陣営にいたために関ヶ原の戦いでは当初西軍に属していた。



しかし後に東軍に寝返り、西軍の柳川城主立花宗茂を討伐し、徳川家から肥前国佐賀35万7千石を安堵されている。



鍋島家は、加藤清正(熊本52万石)、福島正則(広島49万石)、加藤嘉明(会津40万石)など豊臣から徳川に寝返った大大名家が次々と改易されるのを見て心穏やかではなかったであろう。



鍋島直茂の嫡子勝茂(1580~1657年)は、正室を廃してまでも徳川家康の養女(岡部長盛の娘)を妻に迎え、正室との間にできた長男を分家させて家康の養女との間にできた光茂を嫡男としている。



又、藩窯から生産される「鍋島」を将軍家や有力大名に贈り、改易されることの無いように万全の営業活動をして明治維新まで外様大名第8位の石高を守ったのである。



当時の鍋島を高級日本料理の「吉兆」に例えれば、柿右衛門は「かに道楽」クラス、伊万里は「和民」クラスということになり、「吉兆」を知らなかったヨーロッパの王侯は、日本といえば「かに道楽」か「和民」しかないと思い込んでいたのである。



幕末の鍋島藩10代の直正(閑叟)は、リストラを行って役人を大幅に削減、産業育成と交易に力を注ぎ、破綻しかけた藩財政を立ち直らせている。



鍋島閑叟(1815~1871年)は、最高級磁器を生産する藩窯の技術を発展させて精錬方という科学研究機関を創設し、製鉄、金属加工技術、大砲製造、蒸気機関などを研究開発させたという。



1866年には、当時の最新兵器であるアームストロング砲を自力で完成させ、藩の洋式軍に配備している。



幕末における産業革命を推進してきた佐賀藩は、日本有数の軍事力と技術力を誇っていたが、中央政局に対しては姿勢を明確にすることなく、大政奉還、王政復古まで静観を続けたという。



しかし、鳥羽伏見の戦いで薩長側が勝って以降、一転して新政府軍に加わっているので、豊臣から徳川に寝返った藩の伝統かもしれない。



最新式の兵器を装備した鍋島藩は、戊辰戦争での政府軍として大きな戦力となり、明治維新後に薩長土肥と並び称されるようになっている。



その兵器生産のきっかけは、鍋島藩の藩窯の伝統が幕末まで連綿と続いていたことによるのではないかと私は考えている。


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「鍋島」は、ヨーロッパの王侯が珍重した古伊万里や柿右衛門様式の焼き物よりもっとハイグレードな、限られた日本のトップ階層にだけ流通していた特別な磁器であった。

東洋陶磁器美術館の全景



その「鍋島」の第2章は、成長期~藩窯の移転と生産体制の確立[大川内初期鍋島]とあり展示点数は52点である。



1659年頃から鍋島藩は、窯業界の再編を進め、将軍家献上という特別な磁器製作技術を持った藩窯を民窯から切り離し、技術漏洩を防ぐため伊万里の大川内山に移転させたという。

延宝期(1673~81年)の八角皿



確かに、いままで見たことも無いような奇抜なデザインの磁器が多数展示されていたが、今でもこれだけの独創性を持った絵師はいるのであろうか。

延宝期の皿



第3章は、隆盛期~綱吉と元禄・鍋島様式の完成[大川内盛期鍋島]とあり展示点数は100点という大量の作品が展示されていた。



5代将軍綱吉時代の元禄期(1688~1704年)には、将軍が大名屋敷へ盛んに訪問するようになったために、その際に献上する鍋島の需要が高まったという。

元禄期のタンポポ文様の皿



鍋島藩は、その需要に沿うように藩窯の強化を行い、それまで技術的に難しいため生産量が少なかった大皿を多く製作しはじめ、代表的な色鍋島の多くがこの時代に生産されている。

元禄期の水草文の皿



特に3階に展示されていた作品は、鍋島の最高傑作ばかり集められていたようで、パンフレットにある色絵桃文大皿の実物がやはり素晴らしかった。



3階へ上る階段の前にもその写真が大きなパネルで紹介されている。



2階には鍋島以外にも常設の展示室が3室あり、重要文化財もあったが、焼き物の芸術的な美しさは、鍋島のほうが遥かに上である。



第4章は成熟期~吉宗と鍋島焼の成熟[大川内中期鍋島]という展示で展示点数33点。

享保期の桃文の皿



8代将軍吉宗が将軍(在位は1716~1745年)になると、幕府財政を立て直すため、徹底した倹約令を出し、贅沢を禁じたために献上される鍋島焼も色数の多い色鍋島が禁じられたために鍋島焼は主に染付と青磁と地味なものになっている。

享保期の大根文皿



5章 衰退期~「家治好み」の新鍋島様式[大川内後期鍋島] 展示点数20点



田沼意次が権勢を誇る10代将軍家治時代(1760~1786年)、将軍家御好みの意匠12通りの手本が幕府から示され、以後の将軍家献上のための新しい鍋島スタイルができあがったが、この頃から鍋島の衰退が始まったという。

明和期(1751~1777年)の5葉松文皿



午後の始業に間に合うように東洋陶磁美術館を出ると、正面の中央公会堂ではデザインスクールの卒業式をやっていた。



始業時間に遅れないよう急いで会社まで戻り、席に着くと丁度1時であった。


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天気が良く散歩にもってこいの日であったので、昼休みに会社からほど近い大阪市立東洋陶磁美術館に日本磁器の最高峰「鍋島」展を見に行って来た。



鍋島は、今の佐賀県にあった鍋島藩の御用窯で、有田の民間窯から最高の技術者を集め、採算を度外視して皇室,皇族,将軍家への献上品とするため、また諸大名への贈答品とするために焼かれた磁器である。

需要文化財 藤棚文大皿(1700~1730年)



古伊万里や柿右衛門様式のものは、当時一般の商業ルートによって市販されていたので長崎からヨーロッパにも輸出されているが、この鍋島だけは、朝廷、幕府の献上用に限定して作られたものなので一般の商業ルートには流れていない貴重な焼き物である。

パンフの写真(この3枚が鍋島の最高峰ということか)



したがって前二者にくらべると圧倒的に生産量も少なく、技術の漏出を厳しく制限したために今日に伝わる品数が少なく古美術界や骨董界では、ずば 抜けて高い価格で評価されているという。

重要文化財 植木鉢岩牡丹文大皿(1690~1730年)



伊万里が庶民のもの、柿右衛門系は貴族や武家や裕福な商人のものとするなら、色鍋島は皇室、将軍家のものということになる。

そういう歴史を持っている鍋島の洗練されたデザインを一度は見ておきたかったのである。



ヨーロッパのマイセンで色絵磁器が完成すると、マイセン磁器を所有することが、富の象徴となったが、長崎からオランダ人によって運ばれた日本の古伊万里や柿右衛門様式の焼き物は、マイセンよりも遥かに高い値段で取引されていたという。

桜文皿(1700~1720年)



ヨーロッパの王侯貴族は、日本の古伊万里や柿右衛門を、金と同じ価値があると珍重したらしいが、その上に鍋島という超高級磁器があったことを知らなかったのである。

大阪市役所の東、中央公会堂の向かい側の東洋陶磁美術館には以前一度だけ来た事があるが、久しぶりの訪問であった。



2階の展示室に入ると鍋島は、徳川将軍家の動向によって変遷を遂げたという視点からその歴史を1章から5章までに別けて展示していた。

1章は、草創期~家光と鍋島焼の草創[有田時代の鍋島]という内容で展示点数19点である。



1600年、関ヶ原の戦いで西軍についた鍋島藩は、徳川家との関係修復を図るために明から輸入した中国磁器を将軍家に献上することを恒例としていたらしい。

ところが1644年、明が清によって滅ぼされるという王朝交替が起こり、中国磁器の輸入が止まったため、将軍家献上にふさわしい特別な磁器の開発が急務となり、鍋島藩窯の開発が始まったという。

重要文化財 鷺文大皿(1690~1710年)



1651年になってやっと将軍献上にふさわしい鍋島焼が製作できるようになり、献上が再開されたが、主に変形の小皿が中心で、展示された作品はどれも地味なものばかりであった。


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1618年、徳川幕府によって四天王寺の伽藍再建が着手され、1623年に完工しているが、その際に建立された本坊方丈・五智光院・六時堂・元三大師堂は幸いにも現存している。

元三大師堂



何度も焼失を繰り返した四天王寺の堂宇が、火災に遭わなかった期間としては、この間の384年間が最長記録かもしれない。

六時堂と石舞台



江戸時代の四天王寺は、幕府の保護によって再建されたが 庶民からも特に西門を中心とした信仰の場として活気を呈していたようである。

しかし、1623年に再建された中心伽藍は、1801年の雷火によって焼失し、徳川幕府の衰退期と重なったために幕府からの援助が期待できる状況ではなかったようである。

東大門



しかし大坂町人は四天王寺再建を望み、錦袋町年寄の淡路屋太郎兵衛が勧進元となって町人から浄財を集め、1813年に再建落成をみている。

南大門の内側



この頃、天下の台所といわれた大坂町人の財力が四天王寺再建に寄与したのであろう。

境内の外から見た南大門



明治以後の四天王寺は、明治維新の神仏分離令により、それまで所属していた神社が離され、 境内も公園地となるなど厳しい状況に置かれたが寺の諸行事は従来どおり行われている。

北鐘堂



その後、大正から昭和にかけては、聖徳太子創設の「四箇院」の復興を期して、1922年に天王寺高等女学校(四天王寺学園の前身)が設立され、1933年には四天王寺施薬療病院(四天王寺病院の前身)が設立されている。

南鐘堂



1934年9月21日、大阪を襲った室戸台風によって五重塔が倒壊、金堂は破損、仁王門も壊滅するなど相当な被害を被ったが、1940年には五重塔が再建されている。

南大門の中にある仁王門



しかし1945年の大阪大空襲により、 六時堂や五智光院、本坊方丈など伽藍の北の一部の建物を残し、境内のほぼ全域が灰燼に帰したのである。

聖霊院



戦後の1962年には、松下幸之助氏によって西大門が寄贈再建され、1963年には伽藍、1979年に聖霊院奥殿、絵堂、経堂が再建され現在ではほぼ江戸期の旧観に復しているという。 

西大門




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四天王寺へは鎌倉時代に入っても、後白河法皇や貴族の参詣が跡を絶たず、1195年 には将軍頼朝も参詣しているという。

四天王寺の中心伽藍



鎌倉時代に四天王寺の隆盛に努めたのは、九条兼実を兄に持つ天台山門の学問僧 慈円で、1207年と1213年の二度、四天王寺の別当(住職)に就任している。

鎌倉時代後期には、律僧の叡尊や忍性が四天王寺の再建に活躍し、西門の石の鳥居は1294年忍性によって木の鳥居から建て直されたものというので、鳥居は713年も前からあったことになる。



南北朝時代、 四天王寺も吉野方と足利方の戦いに巻き込まれ、南北朝統一までに京都と吉野の中間にある四天王寺周辺は何度も戦場化している。

南朝の後醍醐天皇は、1330年頃に四天王寺に立ち寄ったとき「四天王寺縁起」を見て感銘を受け、その内容を筆写し自らの手印を押している。



これが現在残る「四天王寺縁起後醍醐天皇宸翰本」で、天皇の手形のある貴重な文書ということから国宝に指定されている。

国宝を保管している宝物館



四天王寺は足利将軍家ともつながりを持ち、1388年には足利義満が四天王寺領の課役免除の御教書を下し、翌年には参詣したといわれている。

室町幕府8代足利義政は、就任後次第に政治への熱意を失い、畠山管領家の相続争いが起きたために四天王寺は畠山氏によって1460年に焼かれている。

講堂



1465年には山口の大内政弘が、日明貿易(勘合貿易)をめぐって細川氏と争い畿内各地を転戦、1470年には四天王寺に放火している。

それから100年以上を経た1576年春、信長軍が石山本願寺を包囲した時に、本願寺軍は織田軍の四天王寺砦まで攻め入り、今度は仏教を信仰する本願寺軍によって四天王寺は又も焼失している。

西重門と5重塔



秀吉の天下統一で四天王寺伽藍再建の諸国勧進が行われ、関が原合戦のあった1600年ようやく再建が成ったという。

四天王寺に残っている豊臣秀吉自筆という『四天王寺造営目録』によると、伽藍と主要な堂宇が一旦再建されたが、又しても1614年の大坂冬の陣で大坂方の放火に遭って焼失している。

金堂



大坂という重要都市にある大寺院は、時の権力者の権力闘争に翻弄され何度も焼失を繰り返した歴史を有しているのである。


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水口城南駅から程近い場所に水口歴史民俗資料館と巌谷一六(1834~1905年)、小波(1870~1933年)親子の資料室があった。



水口藩の藩医の家系であった巌谷一六は、明治を代表する書家で貴族院議員、小波は大正期の童話作家で文部省唱歌「あたまを雲の上に出し、四方の山を見おろして」で有名な「富士山」の作詞家である。



その水口藩主の加藤家の始祖は加藤嘉明で、豊臣秀吉が柴田勝家と戦った賤が嶽の戦いで奮戦し、賤が嶽七本槍と呼ばれたメンバーの一人であった。

巌谷小波(左)、一六(右)



加藤嘉明は、関が原では徳川方につき、最後に会津40万石 (「功名が辻」の山内一豊は土佐20万石) を拝領しているので、嘉明は幕府から高く評価されていたのである。

ちなみに「賤が嶽七本槍」メンバーでは、糟屋武則だけが関が原で西軍に加わり、早々と断絶、平野長泰は、東軍に加わったが評価が低く、大和国田原本で5千石の旗本として明治維新まで残っている。

今の水口城本丸



脇坂安治は、伊予国大洲に加藤嘉明より少ない5万3千石を受け、2代目は信州飯田5万5千石に転封、さらに播磨国竜野藩5万3千石に移り、七本槍メンバー最高の石高の大名として明治維新まで続いている。

片桐且元は関ヶ原の戦い後、大和国竜田に2万8千石の所領を与えられ、後に4万石に加増されたが、1655年4代為次の死によって無嗣改易となっている。

片桐一族としては、且元の弟の貞隆の家系が大和小泉で1万石の大名として明治維新まで残っている。

水口城の内部の天井



加藤清正は、関が原の後に七本槍メンバー最高の熊本52万石という大大名となったが、1632年2代目の忠広のときに改易され出羽国に移り、5千石の大庄屋として明治維新まで続いたという。

福島正則は関ヶ原の戦い後、広島49万8千石の所領を与えられたが、1619年に信州川中島に改易され、子孫は2千石の旗本に落とされている。

水口城の塀



このことからも江戸期を通じて先祖が受けた10万石以上を維持することは、外様大名にとって至難の技であったようである。

ちなみに外様大名の保身手法としては、幕府の有力者と姻戚関係を持つことで、脇坂家のように実子があるのにもかかわらず、有力譜代大名家から養子を招いて家系を継がせた例(堀田正盛の次男である安政を養子とした)もあったらしい。

水口歴史民俗資料館の内部(1285年に建立された石塔もある)



歴代水口藩主の加藤家は、40万石から2万5千石に改易されたことに懲りたのか、水口城を幕府から借りている城として大切に管理し、居城であるにもかかわらず、本丸御殿を使用せず本丸北東部二の丸に館を建てて藩政を行っていた。

江戸期の水口城絵図(右上が二の丸)



このために二の丸部分を貫いていた旧東街道は、北に迂回するルートに遷されたために東海道がクランク状に曲がってしまっている。

江戸期の水口宿



水口城は東海道水口宿の西にあったために、水口の街は東に宿場町、西に城下町の二面性を持っていたのである。


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旧水口城は、江戸期に築城された水口城の東、標高283mの古城山にあり、水口岡山城と呼ばれている。

水口岡山城



古城山は新水口城から東側1400mのところにあり、水口城資料館の2階からも良く見える。



水口岡山城は1585年、羽柴秀吉の命により中村一氏が甲賀郡の支配の拠点として築き、6万石の大名として入城したという。

中村一氏は、NHKの大河ドラマ「功名が辻」に出てくる孫平次のことで、1573年頃には秀吉から長浜で200石を受けていたので12年間で300倍の加増があったことになる。

新水口城の大手門



1590年、北条攻めの軍功で、駿府14万石を拝領し水口から移ったが、関が原の直前に病没している。

子息の一忠は、関が原で東軍に属して戦い、米子17万5千石を与えられたが、1609年急死したために中村家は僅か2代で断絶している。

本丸から見た門の裏



中村一氏が駿府に転封となった後には増田長盛が入城し、5年後に長盛は大和郡山城に20万石で移っているが、大和郡山城のことは以前このブログに書いたことがある。

1595年には豊臣家5奉行の一人であった長束正家が5万石(後に加増され12万石)で水口岡山城に入城、5年後の関ヶ原の戦いでは長束正家は西軍に属し、関ヶ原に布陣したが戦闘には参加せず水口岡山城に敗走したという。

本丸にかかる橋



その際水口岡山城は、長束正家を追ってきた池田輝政に攻められ、正家が自ら放った火により1600年に落城したために廃棄されている。

1634年、将軍家光の上洛用に築城された新水口城は、江戸期家光が1度利用しただけでその後の将軍に利用されることが無かったという。

水口城資料館の中の展示



従って正徳年間(1711~1715年)には矢倉と門、土塀を残して御殿は撤去されたらしい。

明治になってからの廃城令によって水口城は廃城となり、石垣は近くを通る近江鉄道(1900年に彦根~貴生川が開通)の線路工事用として転用されている。

半分埋め立てられた堀



それ以降、旧本丸は学校敷地となり、現在は水口高校の運動場として利用されている。

埋め立てられた堀の向こうは高校のグランド



昭和になって水堀埋め立てなどの意見も出されたが、1972年に滋賀県の史跡に指定されたのを契機に保存整備への関心が高まったために石垣の遺構が残る出丸部分を整備修復し、水口城資料館が1991年に開館している。



この資料館は、同城矢倉の往時の姿を模したもので、木造2層2階建ての破風を凝らしたものであるが、江戸期には無かった建物である。


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大阪から近江長浜行きのJR新快速に乗り、草津駅で降りて草津線に乗り換え、20分少しで近江鉄道本線の始発駅である貴生川駅に到着する。

近江鉄道の電車



そこから単線の近江鉄道に乗り換え、最初に停車する駅が人口9万5千人の甲賀市の中心、市庁舎のある水口城南駅である。



甲賀市は、2004年に水口町、信楽町等周辺の6町が合併して誕生した新しい市であるが、中心の水口町は豊臣時代から続く城下町である。

したがって水口城南駅から200m北には、滋賀県史跡に指定されている、水口城本丸跡がわずかに残っている。



水口城の北には江戸から京へ至る東海道(現在は国道1号線)が通り、急げば京都まで僅か1日で到達できる距離であるために重要な宿場町であったという。

関ヶ原合戦後、徳川氏の直轄地となった水口は、東海道の宿場町に指定され、3代将軍徳川家光が1634年上洛の際に家光の宿館として築城させている。



作事奉行は小堀遠州、城内には二条城の御殿を模した豪華な御殿が築かれたが、この御殿が将軍の宿舎として使われたのは、この家光上洛の1回限りであった。

本丸御殿の模型



それから48年後の1682年、石見国から加藤明友が2万石で入城し、水口藩が成立したために、将軍の宿館として城番をおいて管理していた水口城は加藤氏の居城となっている。

加藤明友は、賤が嶽七本槍で有名な加藤嘉明の嫡男であった加藤明成(1592~1661年)の子息である。

本丸御殿図面



加藤明成は加藤嘉明の死後、会津藩40万石の所領を相続したが、父と違って暗愚で統率力にも欠けたため、1643年家臣団との対立を幕府に咎められ会津40万石を返上、石見国に下って隠居したという。

40万石の大名の地位を失ってから39年後、その子供が2万石の大名として復活したのである。

本丸への橋(上の図面の右側に書かれた橋)



この復活の背景には、加藤明友の母親が保科家の出身で保科正之の叔母に当たることが関係しているのではないかと思う。

保科正之は徳川家光の異母弟、幼少期に保科家に養子に出されたが、将軍となった家光に引き立てられ加藤明成のあとに会津23万石を拝領している。

本丸の庭



水口藩は、2代加藤明英のときに下野に移り、鳥居氏が一時藩主となったが再び加藤氏が2万5千石で藩主に戻り、明治維新まで加藤家が領している。


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阪急京都線の水無瀬駅から線路沿いを京都方向に20分くらい歩くと、水無瀬神宮の森が見えてくる。



ここは後鳥羽上皇(1180~1239年)が造営した水無瀬離宮のあった所で、今は淀川の右岸から300mくらい離れているが、上皇は京から船でたびたび訪れたという。

水無瀬神宮鳥居



1221年、後鳥羽上皇は鎌倉の執権北条氏に対して兵を挙げたが、敗れて隠岐に流されている。(承久の乱)

1239年後鳥羽上皇は、隠岐の中ノ島で崩御する前に手形を押した置文を残し、水無瀬離宮を管理していた水無瀬氏に、後生を弔うよう頼んだという。



その置き文は国宝として水無瀬神宮に伝えられているが、水無瀬氏は上皇の肖像を拝領して、1240年に御堂を建て、その菩提を弔ったのが水無瀬神宮の始まりの御影堂という。

客殿と本殿



したがって、ここに後鳥羽上皇を祀ってから既に767年という年月が流れているのがすごい。

その後1494年、後土御門天皇が隠岐より後鳥羽上皇の霊を迎え、正式に水無宮の神号を奉じたとされている。

神門



明治時代に入ってからの1873年、官幣中社水無瀬宮と称し、同時に土御門、順徳両天皇も共に祀られることになったらしい。

1939年、後鳥羽天皇崩御から七百年の式年に当たり、神社の最高ランクである官幣大社に昇格し、水無瀬神宮と称するようになったという。

客殿



現在、客殿(秀吉が福島正則に造営させたのというので400年以上経過)、茶室(江戸初期の後水尾天皇が愛好したという)は国指定の重要文化財 、神門(桃山時代)は大阪府指定重要文化財である。

本殿は、京都御所の旧内待所の旧材を用いて寛永年間(1624~1644年)に移築したものなので360年以上が経過した古い建物である。

本殿



水無瀬神宮の近くには水無瀬川、水無瀬の滝などがあり、また淀川水系の地下水に恵まれていて境内の「離宮の水」は、大阪でただ一箇所名水百選に指定されている。



この日離宮の水をペットボトルで持ち帰り、その水を使ってコーヒーを淹れてみたが、まろやかな名水の味であった。

水無瀬神宮のすぐ南側には、地下水を汲み上げている水源地があったが、淀川の伏流水は今も住民の水源として使われているようである。

水無瀬とは、地上には見えいが、地下に伏流水のがある場所ということなのであろう。

鳥居のすぐ傍に水源地



後鳥羽上皇の霊前に捧げられた供花の流れを汲んで、華道洗心流が興され、現在、神宮はその華元として、毎年献花展が催されているという。


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