大阪から近江長浜行きのJR新快速に乗り、草津駅で降りて草津線に乗り換え、20分少しで近江鉄道本線の始発駅である貴生川駅に到着する。
近江鉄道の電車
そこから単線の近江鉄道に乗り換え、最初に停車する駅が人口9万5千人の甲賀市の中心、市庁舎のある水口城南駅である。
甲賀市は、2004年に水口町、信楽町等周辺の6町が合併して誕生した新しい市であるが、中心の水口町は豊臣時代から続く城下町である。
したがって水口城南駅から200m北には、滋賀県史跡に指定されている、水口城本丸跡がわずかに残っている。
水口城の北には江戸から京へ至る東海道(現在は国道1号線)が通り、急げば京都まで僅か1日で到達できる距離であるために重要な宿場町であったという。
関ヶ原合戦後、徳川氏の直轄地となった水口は、東海道の宿場町に指定され、3代将軍徳川家光が1634年上洛の際に家光の宿館として築城させている。
作事奉行は小堀遠州、城内には二条城の御殿を模した豪華な御殿が築かれたが、この御殿が将軍の宿舎として使われたのは、この家光上洛の1回限りであった。
本丸御殿の模型
それから48年後の1682年、石見国から加藤明友が2万石で入城し、水口藩が成立したために、将軍の宿館として城番をおいて管理していた水口城は加藤氏の居城となっている。
加藤明友は、賤が嶽七本槍で有名な加藤嘉明の嫡男であった加藤明成(1592~1661年)の子息である。
本丸御殿図面
加藤明成は加藤嘉明の死後、会津藩40万石の所領を相続したが、父と違って暗愚で統率力にも欠けたため、1643年家臣団との対立を幕府に咎められ会津40万石を返上、石見国に下って隠居したという。
40万石の大名の地位を失ってから39年後、その子供が2万石の大名として復活したのである。
本丸への橋(上の図面の右側に書かれた橋)
この復活の背景には、加藤明友の母親が保科家の出身で保科正之の叔母に当たることが関係しているのではないかと思う。
保科正之は徳川家光の異母弟、幼少期に保科家に養子に出されたが、将軍となった家光に引き立てられ加藤明成のあとに会津23万石を拝領している。
本丸の庭
水口藩は、2代加藤明英のときに下野に移り、鳥居氏が一時藩主となったが再び加藤氏が2万5千石で藩主に戻り、明治維新まで加藤家が領している。
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