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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



満仲の3男、頼信は52歳となった1020年に河内国石川郡壷井(現・大阪府羽曳野市壷井)を本拠地とし、河内源氏の祖となっているが、この土地は恐らく母方の藤原大納言家にゆかりのある場所であろう。



地図で調べてみると壺井庄は、大坂と奈良を結ぶ竹内街道のすぐ西にある交通の要衝で、西には肥沃な河内平野を有しており、多田庄よりもはるかに豊かな土地であることがわかる。



淀川の東、現在の交野市、四条畷市、門真市、寝屋川市から、大阪市東部地区、東大阪市、八尾市、藤井寺市、柏原市、羽曳野市、富田林市などを含む河内国は、古代から開けた肥沃な土地であったようである。

壺井地区から見た河内平野



頼信は、本拠地を移した27年後1047年になって河内守に叙任されているので、河内国石川郡壷井庄から河内を支配して後に奥州の乱を平定する経済力を蓄えたのであろう。

壺井絵図



頼信の嫡子である頼義(988~1075年)は、22歳で父親と一緒に本拠地の河内に移ってきて、この地で長子八幡太郎義家、加茂次郎義綱、新羅三郎義光等が誕生している。

1043年、初代頼信は壺井に通法寺を建立しているが、5年後に74才で亡くなり、通法寺の巽の方向にある小高い丘に葬られている。



現在は、近鉄長野線喜志駅からバスで東に10分、そこから北に歩いて15分のブドウのビニールハウスの中の小道をたどって頼信の墓まで行くことができる。

河内ワインの原料となるブドウのハウス



頼信の墓地は、丘の頂上の狭い場所に直径10mくらいある円形の古墳のような形をしており、すぐそばに将軍綱吉の学僧、大僧正隆光の墓もあった。



円墳の最上部には、石の玉垣があったが、墓の前の石灯篭に1804年(文化元年)の年号があったのでその時期に造られたもののようである。



墓の前の石灯篭には1804年(文化元年甲子)の年号があったが、この年には頼信の死後756年の年月が経過していたことになる。



そこから北へ通じる尾根道を少し歩くと切り開かれた広場があり、そこが八幡太郎義家の墓所であった。



義家の墓は祖父の墓と殆ど同じ直径10mくらいの円墳で、最上部に石の玉垣があり、中には樹木が生えているだけであった。



義家の墓地の広場には、江戸期から明治初期までの墓石が多数あったが、頼信が創建したという通法寺の歴代住職の墓らしい。



通法寺は明治時代の廃仏毀釈により山門,鐘楼などを残すのみの廃寺となってしまったので頼信、義家の墓地も写真のように荒れ果ててしまったのであろうが、残念なことである。

それにしても鎌倉幕府を開いた頼朝の祖先で、鎮守府将軍として関東武士団を率いて奥州の反乱を鎮圧した武士の元祖のような八幡太郎義家が河内で生まれ、河内に葬られていることを知らない人は多いのではなかろうか。

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