梅田から阪急宝塚線の電車に乗って川西能勢口で能勢電鉄に乗り換え、北に向かって5つめの駅が多田駅である。
多田駅から猪名川沿いの道を西に20分歩くと、山里の中にひっそりと広大な神社の敷地があり、そこが清和源氏発祥地といわれる多田神社である。
地図で調べてみると、京都から西国街道(国道171号線)を38キロ下った池田から北に分かれる道(国道173号線)を約8キロさかのぼったところが多田庄で、平安時代であっても、急げば京都まで8時間くらいで行ける距離であった。
南大門
この土地は清和天皇の孫、経基王(六孫王、897~961年)の嫡子である源 満仲(912~997年)が、970年攝津守(国司)であったときに住吉大社に参籠し、神託を受けて開拓し源氏の居城としたという。
神社の絵図
しかし、千年以上も前の話しなので、経基王と満仲との実子関係(経基王が15歳のときの子となる)は定かではないが養子という可能性は大きいようである。
満仲は75歳で仏門に入り、ここに一寺を創設して多田院と号したというので、多田神社の始まりは寺院であったらしく、今でも史跡多田院という石碑が残っている。
その後、嫡男の頼光(948~1021年)がこの地を受け継ぎ、京の藤原道長(966~1028年)に仕えて道長の信頼が厚く、摂津源氏多田氏の祖となっている。
南大門前の鳥居
頼光とその四天王渡辺綱、坂田金時等が活躍する「大江山の酒呑童子退治」のお伽話は有名で、当時の日本の頼もしい武士の代表は源頼光であった。
東門
多田神社の祭神である満仲、頼光二人は、本殿の裏にある墓所(廟)に埋葬されたという。
本殿
頼光の摂津源氏系統からは経基王、満仲が歴任した鎮守府将軍に就いたものがいないが、3男の頼信(968~1048年)の河内源氏系統からは、頼信、頼義(988~1075年)、義家(1039~1106年)まですべて鎮守府将軍になっている。
西門
その理由を推測すると、長男頼光の母親は源氏の娘、3男頼信の母は藤原大納言家の娘であったので、鎮守府将軍となる源氏の嫡流は正室の生んだ頼信の系統に移ったのであろう。
その河内源氏の系統から、義家から5代後に頼朝(1147~1199年)が出て源氏のトップだけが就ける征夷大将軍の宣下を受けて鎌倉幕府を開いたのである。
西門から拝殿への道
鎌倉時代を通じて、多田神社の前身であった多田院は、幕府の保護のもとに発展隆昌をとげ、当時の記録は今も神社に多数残っているという。
宝物殿
鎌倉期の境内は満仲、頼光の廟とその拝殿、そして金堂とその周囲には経堂・塔・法華堂・常行堂・鐘楼があり、中門を通しては学問所・東坊・長老坊などがあり広大なものであったらしい。
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