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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



昼休みに地下鉄で梅田まで出て、近松門左衛門の「曽根崎心中」で有名なお初天神(露天神社)まで散歩してきた。



大阪のキタ(梅田地区)を代表する繁華街曽根崎には、お初天神の名前にちなんだ通りがあり、北門の近くはサラリーマンのストレス解消のための飲食店で一杯なのである。

北門



北門から境内に入ってみると、狭い敷地に社殿がぎっしりと詰め込まれているようである。



露天神社(お初天神)の拝殿の前には2本の石柱があり、右側の1本には戦時中の米軍機による機銃掃射の弾痕が残っているので、大阪のこの辺りでも戦争の犠牲者が多数いたのであろう。



社伝によると、大阪湾に浮かぶ小島の一つであった現在の地に、「住吉須牟地曽根ノ神」を祀ったと伝えられており、「難波八十島祭」旧跡の一社である。

東門の外は飲み屋街



創建年代は定かではないが「難波八十島祭」が西暦850年にまで遡ることから、起源もその頃と推察されているので、1100年以上の歴史があるようである。

901年1月、55歳の菅原道真が大宰府に左遷される途中立ち寄り、「露と散る 涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出づれば」と詠んだという。

南門



道真は2年後に亡くなるが、16年後の919年に大宰府にある道真の墓の上に建立された社殿が天満宮の始まりという。

その後、道真を慰霊するため947年に京都北野天満宮、949年に大阪天満宮が創設されているので、曽根崎の神社も「露天神社」と社名を変えたのであろう。

西門



1096年に描かれた「浪華の古図」に所在が記されているので、900年以上前には確実に存在していたので、かなり歴史のある神社である。

江戸時代、1703年に境内で実際にあった心中事件を題材として、近松門左衛門が人形浄瑠璃「曽根崎心中」を書き、そのヒロインであるお初の名前から「お初天神」とも呼ばれるようになったという。



心中後300年を経た2003年に、お初と徳兵衛の慰霊像が建立されていたが、今頃になって心中を記念した銅像を建てられた二人は、天国で恥ずかしい思いをしているのではなかろうか。


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