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1028年に関東で起こった平忠常の乱への追討使には鎌倉を本拠とする桓武平氏の平直方が派遣されたが、乱は長期戦になり鎮定が進まなかったという。

今の源氏の故郷(通法寺から壺井八幡宮への道)



1030年になって朝廷は、源頼信を追討使に任命し派遣したところ、ほどなく平忠常の乱は平定されている。

このとき42歳になっていた頼義(988~1075年)も同行していたようで、前任の平直方は、頼義の人物に感服し願い出て娘を娶わせている。

源氏の本拠(壺井八幡宮)のある丘への石段



頼義も名門の直方の武勇をよく知っており、その娘と自分との間にできた子なら剛の者が生まれるだろうと思い娶ったという話が残っている。

二人の間に生まれた義家(1039~1106年)は、石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎と呼ばれるようになるが、頼義が50歳を超えてから出来た子供である。

石清水八幡宮拝殿



このとき以来、平直方をトップとする関東の武士たちは源頼義と主従関係を結ぶようになり、東国武士団の棟梁は頼義以降の河内源氏となったようである。

壺井八幡宮本殿



ちなみに平直方の系統は、鎌倉幕府の執権職となる北条家に続き、北条時政は娘の政子を嫁がせていた頼朝の旗揚げにいち早く駆けつけている。

その後1051~1062年、奥州での「前九年の役」では頼義と義家親子、1083~1087年の「後三年の役」では義家と義光兄弟が関東武士団を率いて乱を平定している。

源氏3代を祀る壺井権現本殿



この平定以降、頼義、義家と一緒に戦った家臣団は関東に残り、100年後に義家の4代後の頼朝(1147~1199年)が平家に対抗して挙兵したときに、源氏家臣団の子孫が武家の棟梁の下に終結したのである。

ちなみに後三年の役で顔に矢を受けても戦った鎌倉景正は、頼朝の旗揚げに参加した梶原景時の祖先という。

壺井権現の扁額



鎌倉幕府を開いた頼朝の先祖は、関東武士という印象があるが、実は大阪府の南東部にその本籍地を持ち、頼信、頼義、義光の三代の墓は現在も羽曳野市の壺井にあるのである。

頼義の墓(通法寺址にある)



1159年の平治の乱で勝利を収めた平清盛(1118~1181年)は、1160年に参議に任命されたことを足がかりに、軍事力を背景にして次第に昇進し平氏政権を打ち立てている。

1180年、奢る平家打倒の最初の挙兵をしたのは、源頼政(1104~1180年)、嫡子源仲綱、源宗綱、源兼綱らの摂津源氏で、平家軍と宇治で戦い戦死したという。

頼信の墓は通法寺から少し離れたブドウ栽培のビニールハウス前



しかし頼政の末子の源広綱や、仲綱の子の源有綱は知行国の伊豆国にいたため生き残り、伊豆で挙兵した源頼朝の幕下に参加したのである。

頼信の墓の傍にある将軍綱吉に仕えた大僧正隆光の墓



1183年、摂津源氏の嫡流多田行綱も平家に対して挙兵し、木曽義仲に味方したあと義経軍に加わり活躍したが、義経の都落ちと共に頼朝によって追放され多田の所領を没収されている。


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