万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

選民思想の自己矛盾―神の評価基準とは?

2024年01月17日 13時08分29秒 | 国際政治
 選民、それは、文字通りに解釈すれば、神に選ばれた民を意味します。数多ある民族の中から敢えて神が選んだのですから、選ばれた民族は、自らを特別な存在として誇ることでしょう。優越感に浸ると言うこともあるのでしょうが、選民思想には、解きがたい自己矛盾が潜んでいるように思えます。

 選民思想にも、アドルフ・ヒトラーが唱えた‘アーリア民族優越主義’などもあるのですが、とりわけよく知られているのが、ユダヤ人の選民思想です。『旧約聖書』の記述を根拠として、ユダヤ人は、古来、自らを神から選ばれた民として自認してきました。今日、イスラエルがパレスチナ人を迫害し、その地を奪おうとしているのも、その根底には選民思想があってのことなのでしょう。また、アメリカの福音派のように、聖書の一文一句を絶対視して信仰の対象とする故に、イスラエルを支持する人々も少なくありません。しかしながら、信仰の対象ではなく、人類の道徳や倫理の側面から選民思想を考察しますと、同思想には、以下のような問題が提起されましょう。

 選民という限り、‘神’は、多数の中から特定の民族を選ぶという行為を行なっています。選択や選抜には、必ずや選ぶ基準があるものですので、‘神’は、何らかの評価基準に照らして人選(民選)を行なったはずです。『旧約聖書』の『創世記』では、幾つかの神による選択の場面があるのですが、先ずもって、ユダヤ民族の始祖とも言えるアブラハムと言うことになりましょう。それでは、‘神’は、明記はされていないものの、アブラハムが道徳・倫理面において優れており、清らかで正しく、公平な心をもち、‘神’に最も近い義人あるいは聖人であったから選んだのでしょうか。しばしば、‘神から愛された人’と言う言葉は、こうした人々に贈られています。

 ところが、この人選(民選)に関しては、はっきりとした評価基準が示されていません。しかも、アブラハム自身は、自らの保身のために嘘もついていますので、必ずしも清廉潔白な人物であったとも言い切れない側面があります。仮に、‘神’が気まぐれでアブラハムを選んだとすれば、その‘神’は、‘善なる神’とは言えなくなります。むしろ、大洪水に際してノアが選ばれた理由の方が、道徳・倫理的な側面が強調されており、善人のみが神によって選ばれるという、誰もが納得するストーリー展開なのです。

 また、‘神’によるモーゼへの十戒の授与は、当時のユダヤ人社会が、道徳律を要するほどに乱れていたことの反証でもあります。禁止は、その行為が行なわれていなければ必要ありません。つまり、一般に信じられていることとは逆に、悪がはびこっていたからこそ、ユダヤ人は、これを憂いた‘神’から‘選ばれた’とも解されるのです。‘神’が善なる存在であったとしても、その神から選ばれたユダヤ人は、必ずしも善ではないことになります。

 今日、イスラエルのシオニスト達は、『旧約聖書』の記述を根拠として、ヨシュアの如くにパレスチナ人を残酷なまでに虐殺していますが、ユダヤ人が自らを‘神から選ばれた民’と称するならば、ユダヤ人が信じる神の方が、善性を失い、悪、すなわち、ユダヤ人に利己的他害行為を許す悪魔あるいは邪神と言うことになりましょう。人には善悪を区別し得る能力があり、しかも、利己的他害性の有無が誰もが否定しがたい善悪に関する普遍的な判断基準でもありますので、論理的に考えるならば、神が善性を基準として選だとすれば、残忍なユダヤ人を選ぶはずはない、という結論に至るのです。つまり、現実にあって自己を絶対視して他害行為を行なうユダヤ人が、それでも自らを‘神から選ばれた民’と称するならば、善の根源としての‘神’を否定することになるのです。あるいは、自らはその善良さをもって神から選ばれたのではないことを、認めざるを得なくなりましょう。

 もっとも、『創世記』では、神は、善悪を知る木の実を食べてはならないにも拘わらず、それを食したアダムとイヴをエデンの園から追放しているため、戒めを破り、善悪を判断する能力を備えてしまった人類を、神は滅亡させようとしている、とする解釈もあり得るかも知れません。つまり、この解釈では、ユダヤ人は、‘神’による人類滅亡の願望を叶えるためにその実行者として選ばれたこととなるのですが(最後は、自らもこの世から消え去らなければならない・・・)、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒といった経典の民以外の他の人類にとりましては、この解釈は悪魔崇拝に他なりません。また、こうした曲解とも言える解釈が正統派となるはずもなく、仮に同解釈が正統とされ、神は人類の滅亡を望んでいると説くならば、信者は一人もいなくなることでしょう(大多数の人々は、神は悪人を懲らしめ、善人を救うと信じているからこそ信仰心を持つのでは・・・)。

 また、さらに根源的な問題を提起するならば、それは、‘神’は、特定の民族を選び、特別の地位を与えるのか、という問いかけです。悪人の改心を条件に据えつつも、神という存在が全ての人類を愛する博愛の神であるならば、選民思想は‘神’の分け隔てのない博愛性とも矛盾します。言い換えますと、神の前の平等を否定しなければ、選民思想は成り立たないのです。選民思想そのものが、普遍的な超越神の存在とは両立せず、同思想を含むユダヤ教とは、人類の一部に過ぎないユダヤ人固有の自己優越感を満たすための部族的な宗教と言えましょう。

 以上の諸点を考えますと、現代という時代を生きるユダヤ人は、選民思想そのものを客体化し、理性をもって疑うべきです。そして、仮に、何としても善なる神と選民思想との間の論理的な矛盾を解消しようとするならば、自らも神の如くに善行に徹し、パレスチナ人を含む非ユダヤ人の存在や諸権利を認め、等しく愛を注ぐ博愛精神を示すしかないことを理解すべきではないかと思うのです。

*ノアに関する記述の誤りを発見し、2023年1月18日に訂正いたしました。心よりお詫び申し上げます。

この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 世界経済フォーラムは‘資本主... | トップ | アブラハムの子孫問題―聖典の... »
最新の画像もっと見る

国際政治」カテゴリの最新記事