聖典の民には、しばしば原理主義者が出現する傾向があります。イスラム原理主義者をはじめ、キリスト教原理主義者、そして、シオニストを含むユダヤ教原理主義者も・・・。原理主義者とは、聖典の記述をそのまま信じ、今日において忠実にそれを実行しようとする人々です。聖典に記された全知全能の神の言葉は絶対であるとみなしますので、聖書の記述に違うことを行なえば、それは、神に対する背信行為である考えるのです。
聖典の記述が普遍性のある道徳律の啓示であったり、その全てが過去の出来事の記述であれば、現代における負の影響は深刻に懸念するほどではなかったかも知れません。ところが、聖典には、未来に関する記述が含まれているという問題があります。『新約聖書』の最後に記されている「黙示録」の内容は、誰もが読んだり、耳にはしたことがあるはずです。実のところ、「黙示録」にようによく知られた預言書のみならず、聖典には、神が未来について語った言葉がちりばめられています。『創世記』にあっても、それが‘ナイル川からユーフラテス川’までであれ、‘カナンの地’であれ、神は、ユダヤ人に対して‘約束の地’を与えたと記されています。‘約束の地’とは、神が語った時点ではなく、将来において起きる出来事として示されているのであり、それ故に、‘約束’と表現されているのです。
ところが、この神の未来語りが、紛争の原因とになるのは疑うべくもありません。当時にあってユダヤ人の土地ではない、他の民族の住む土地を、神は、将来においてユダヤ人の土地とすると‘約束’したのですから。この約束は、当然に、既にその地に住んでいる他の民族から土地を奪はないことには成就されません。実際に、『旧約聖書』によれば、その後、ユダヤ人は、‘約束の地’を手にすべく、カナンの地に住む先住の民達に対して戦いを挑んでゆくのです。
ここに、過去における神の未来をめぐる預言(予言)を、現代において実現しようとする原理主義者の行動が理解されてきます。原理主義者とは、単に聖書の一文一句を信じ、現代において神から授かった戒律を厳格に守り、過去の時代の生活に戻ろうとしている人々であるのではなく(特にイスラム原理主義)、過去における神の未来に向けた預言を今日にあって実現しようとする人々なのです(人為的に災いや災難を起こし、「黙示録」の記述を実現しようとする人々も存在するという・・・)。しかも、預言(予言)の成就はメシア思想とも結びつくことで、熱量を帯びて半ば狂信化しています。
現代にあっても、パレスチナ紛争とは、神との約束を成就させようとするユダヤ教原理主義者の信念と行動が招いた紛争と言っても過言ではありません。ネタニヤフ首相を始め原理主義者達は、パレスチナの地をユダヤ人国家の地とする正統性を聖書に求め、第二次世界大戦後のイスラエル建国に際して国連の総会決議が定めた国境線に満足せず、パレスチナ全域を自らの領域に含めるべきと主張しているのです。
紛争の原因が神による未来の預言(予言)という問題に行き着く場合、原理主義者の信仰や信念を制御することはできるのでしょうか。先日の記事でも述べたように、それは、聖書を人類史的に理解するしかないのかも知れません。神が示したのは、不安定で危険に満ちた放浪状態をよしとせず、各々の民族が領域を有することの意義であり、ユダヤ人もその一つに過ぎないという(何処の土地かは問題ではない・・・)。
そして、なおもユダヤ教原理主義者が聖書に忠実であろうとするならば、見習うべきは、『創世記』の第25章と言えましょう。同章の30にはアブラハムの死と埋葬に関する記述があり、アブラハムの埋葬地について「・・・すなわち、アブラハムがヘテ(ヒッタイト)の人々から買い取った畑地であって・・・」とする下りがあるからです。この文章は、アブラハムが、異民族から土地を買い取っていたことを示しています(なお、この記述は、アブラハムの時代が、中近東一帯に領域を拡大させていたヒッタイト帝国の最盛期であることを示唆しているかもしれない・・・)。今日のパレスチナ紛争も、もしイスラエルがパレスチナの地を法的国境線を越えて欲するならば、合法的に‘買い取る’べきです(本来であれば、建国に際しても償いを要したのでは・・・)。適正な対価をパレスチナ国に支払う、あるいは、補償を行なうという基本方針において解決した方が、神の平和に相応しいのではないかと思うのです。