万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

アブラハムの子孫問題―聖典の解釈リスク

2024年01月18日 13時04分21秒 | 国際政治
 『旧約聖書』の記述は、しばしば権力や権威の正統性の問題と結びつくため、現代という時代に至るまで少なくない影響を与えてきました。とりわけ、『創世記』では、ウルの地に住っていたアブラハムを神がカナンの地に連れ出すという物語が記されており、アブラハムはユダヤ人にとりましては特別な存在です。このため、ユダヤ教原理主義者やキリスト教原理主義者の中には、アブラハムの血脈に君主の地位の正統性を求める人々も現れることとなったのです。

 こうしたアブラハム正統説、並びに、シオニスト達のカナンを神授とする主張の根拠となったのは、『創世記』18の第17章に見られる以下の文章です。重要な文章ですので、長くはなりますが以下に掲載します。

「「わたしは全能の神である。
君はわたしの前に歩み 全かれ
わたしは君との間にわたしの契約を与える。
わたしは君の子孫を大いに増し加える。」

 そこでアブラムは平伏した。神はまた彼に語って次のように言われた。「よいか、君に対するわたしの契約というのは、君が多くの民の父となるということだ。・・・わたしは君を多くの国父とするからだ。わたしは君の子孫を大いに増し加え、君をもろもろの国民にまで発展させる。もろもろの王が君から出で来るであろう。わたしはわたしの契約を君と君の後の代々の子孫との間に、永遠の契約として立てる。それは君と君の後の子孫に対して神たらんためである。わたしは君とその後の子孫に、君が今やどっているカナンの全地を、永遠の所有として与える。わたしは彼らの神たらんとするのである。」

 この文章を読みますと、(1)アブラハムを祖として多くの民族・国民が派生すること、(2)これらの民族にあってはアブラハムの血を引く人物が王となること、(3)神とアブラハムとの間の契約の内容とは、‘神’を唯一神としてアブラハム系諸民族が崇拝するのと引き換えに、‘神’は、アブラハム系の諸民族を増やすと共にカナンの地を与えたことが分かります。(3)の矛盾点については別に論じるとして、先ずもって注目されるのは、(1)と(2)の解釈です。アブラハム正統説を唱える人々の中には、同文章をもってユダヤ人による全世界の支配権にまで拡大解釈する人も見られるのですが(大ユダヤ主義)、この文章を人類史に沿って理解しますと、別の解釈が成り立つように思えます。

 それは、文明の黎明期にあって人類の人口が未だに極少数であり、かつ、部族や民族の分岐が盛んであり、人口規模が民族や国家のパワーと凡そ比例していた時代を背景とした記述ではなかったのか、というものです。人類史を振り返りますと、アフリカ単一起源説であれ、多起源説であれ、また、全人類のDNAの分岐状況からしますと、初期の人類が少数であったことは確かなことなのでしょう。こうした時代には、野生動物から身を守るためにも人口増加が望まれたことでしょう。アブラハムの時代にありましても、人口増加は望まれながらも、人口が乗数的に増加していった場合には、集団の一部が分かれ出て、食料や水、住居や農業に適した地の不足等から他の地に移住するということは、決して珍しいことではなかったはずです。こうした時代には、人口増加のみならず、部族の分岐的増加は、‘神からの祝福’として捉えられるほどに望ましいことであったことでしょう。‘国父’という表現も、神の存在論は別に置くとしても、アブラハムの子孫達同族部族の分岐増加を‘神から約束された’と解されるのです。

 となりますと、諸国の‘王’という表現も、アブラハムを祖とする同族分岐部族が建国した諸国の王ということになりましょう。即ち、ユダヤ系国家という前提条件が付されるのであり、この条件に照らして適っているのは、今日ではイスラエルのみとなります(もっとも、現在のイスラエルは君主制ではなく共和制の国家・・・)。ユダヤ人の祖がアブラハムであれば、そのユダヤ人で構成される国家の王もアブラハムの子孫であるのは当然のことでもあります。仮に、非ユダヤ系の諸国にあってユダヤ系の‘王’が出現するとすれば、それは、ユダヤ系の部族が異民族の国家を征服する、あるいは、他国の王家を乗っ取ることを意味します。そしてそれは、他の非ユダヤ系の諸国にとりましては、自国の存亡に関わる重大な脅威に他ならないのです。

 以上にユダヤ人の祖とされるアブラハムについて、国父並びに諸国の王に関する解釈を述べてきましたが、信仰上の聖典であっても、それが現代の政治に影響を及ぼし、リスク要因となる以上、その内容については、客観的かつ学術的な検証を行なう必要があるように思えます。どのような目的、背景、経緯などがあって聖典は記述されたのかを探求し、すなわち、その時代背景を踏まえながら人類史上に位置づけてこそ、人類滅亡を引き起こしかねない聖典解釈のリスクを取り除くことができるのではないかと思うのです(つづく)。

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