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万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

皇室・王室問題-’時代に合わせよ’の要求の行方

2021年10月26日 15時37分23秒 | 日本政治

 皇族や王族の婚姻は、現代の国家における世襲制度の難しさを余すところなく表しているように思えます。世襲制度にあっては、国民が望むような人物が必ずしも公的ポストに就くわけでもなく、また、国民の期待に応えて模範的に行動するわけでもないからです。そして、今日、皇族・王族と国民との関係は、極めて難しい局面に差し掛かっているように思えます。

 

 近代に到るまでの両者の関係史を振り返りますと、凡そ3つのパターンに分けられるのではないかと思います。第1のパターンは、両者ともに厳しい制限を受けるという形態です。このパターンでは、皇族や王族は、厳格な環境の下で帝王学やマナーの習得が義務付けられ、婚姻も含め個人的な自由については厳しい制約を受ける一方、国民の側も、皇族や王族との婚姻は望むべくもなく、皇族や王族を自らとは住む世界の違う雲の上の人として崇めるという関係となります。第二のパターンは、皇族や王族には個人的な自由が無制限に認められる一方で、国民の側は、これらの人々に対する批判さえ口にできず、言論の自由をはじめ、様々な自由や権利が制約を受けるというものです。暴君と称されるのは同パターンであり、国家というものは皇族や王族に凡そ私物化され、国民は、ひたすらに忍耐を強いられるのみとなります。

 

 そして、生殺与奪の権を握った暴君によって国民の基本的な自由や権利が侵害されるリスクから脱するために近代に至り登場してくるのが、第3のパターンです。それは、立憲主義としても理解されますが、君主、並びに、その家族が暴君化しないよう、憲法や法律を以ってこれらの人々に制約を課す一方で、国民の基本的な自由や権利もまた、憲法や法律の下で保障されるというものです(立憲君主制)。人類史の流れを見ますと、国民の自由の範囲が広がるのと反比例するかのように皇族や王族のそれには法という枠が設けられ、そしてそれは、民主主義の定着と軌を一にしているのです。

 

 以上に述べましたように、近代までの皇族・王族と国民との関係には3つのパターンがあるとしますと、今日の時代状況は、これらの何れの類型にも当てはまらないように思えます。そもそも、現代の国家にあっては、君主の大半は統治権を有してはおらず、国民を纏める象徴、あるいは、権威としてのみ存在しています。ましてや君主ではない皇族や王族ともなりますと、その存在意義はさらに見出し難くなります。その一方で、皇族や王族にも国民と等しく基本的な自由や人権を認めるべきとする立場の声は強まる一方であり、第3のパターンは、もはや時代遅れ、あるいは、時代錯誤と批判されるのです。

 

メディアをはじめ、皇族・王族にも自由を求める人々は、国民の側に変わるように求める、つまり、皇族や王族の自由を認めるように要求するようになります。しかしながら、この方向性は、一つ間違えますと暴君型の第2のパターンに逆戻りしてしまいます。国民からの批判は許されず、皇族・王族のみが自由気ままに振舞うという…。一方、既に皇族や王族が婚姻の自由を享受している以上、第1のパターンへの回帰も困難です。第1のパターンは、皇族や王族のみならず、国民の基本的な自由や権利に制約を課しますので、国民の側も同パターンの復活を歓迎するとは思えません。そこで、4番目のパターンがあるとすれば、皇族・王族、並びに、国民の両者に自由を認めるということになるのですが、このパターンは成立するのでしょうか。

 

実のところ、第4のパターンが成立し、皇族や王族に対して無制限な自由を認めれば(もちろん、自発的に皇族を止める自由もある…)、国民にも、公的な存在としての皇室や王室を支えることを止める自由を認めざるを得なくなります。メディア等が主張している’時代に合わせよ’という国民に対する要求は、皇室や王室にとりましては、自らの自己否定を帰結するということにもなりましょう。今般の秋篠宮家の婚姻問題は、未来に向けて皇族や王族の存在について基本に立ち返って考える機会となるのではないかと思うのです。


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